第十二章 平太 2

文字数 4,385文字

 
 平太


 こうなってくると、いよいよいけない。
 なるほど、たしかにこちらの注文通りに公僕を断ち切ることはできた。
 がしかし、かえってマークを厳しくさせることになってしまったことだろう。
 少なくとも、娘とデートを楽しんでいる状況にないことは確かだと。そう観念して平太は予定を前倒しにし、れいを元妻に返すことにする。
 待ち合わせは都下。
 駅前ロータリーの上空をぐるりと囲う環橋(ペデストリアンデッキ)
 平太とれいはその四角い()の一角に立って、かつての妻が対角に現れるのを待った。
 この歩道橋の環の直径が、元妻への接近限界距離と取り決めしている。
 予定より随分と早くに呼び出したせいだろう。仲介者を経由して転送されてきた元妻からの返信メッセージは、不快感でささくれだっていた。
 何か予定でもあったのだろうが、そんなことは知ったこっちゃない。
 そして、それどころでもなかった。
 離婚協定により、元妻らの転居先を平太は知ることができない。
 よって、れいを自宅近くまで送り届けてやるわけにもいかなかった。
 やがて、かつては愛したその女が、環橋の対角にふらりと現れる。
 れいを預かったたった半日の間に髪の色を変えていた。
 そのしかめっ面は日差しのせいではない。遠目にみても、苛立っているのがわかるほどで。それを現在(いま)のオトコが、いつものように少し離れたところから見守っている。
 細身で、にやけて、青っちろい、優しさが潔癖を着込んで歩いているような、そんな若造。
 元妻が離婚調停のために使った法律事務所のあんちゃんである。
 交際を始めたのはそれが切っ掛けだと元妻は主張するが、別れ話が持ちあがる前からデキていたのではないかと平太は見ていた。
 おそらく今日はボディガードよろしく元妻に乞われてついてきているのだ。
 般若のようなしかめっ面で元妻がれいにおいでおいでしている。
 れいは平太の反応をうかがう。見上げた(あご)には汗が滴り、その雫の中に()り残しが見えた。
 いくら(めん)が割れているとはいえ、この暑さだ。大男がパーカーのフードをかぶっているのは子供の目に見ても異様だろう。その太い(くび)にかけられたハローキティのピンクのポシェットからはマンチカンがちょこんと顔をのぞかせている。
「れいちゃん。また遊ぼうね」と平太。
 やさしく言ったつもりだったがゴルゴの眼光は遠く般若を見据えて離さない。
 れいはうつむき、平太のズボンを(つか)むと、()を蹴って足を遊ばせた。
 今しがたのジェットコースターばりの体験が子供の好奇心に火をつけてしまっている。
 遊び足りない。
 けれど、
「れい!」
 鋭角に呼ばわるママの声が、それをただちに断念させた。
 手すりの落書きを指でなぞりながら、れいは環橋を反時計回りにぷらりぷらりとママを目指し始める。
 がすぐに立ち止まり、何ごとか含みのある笑顔で振り返ったかと思うと、後ろ向きにぶぅぅぅんと駆け戻ってきて「ぼおぉぉぉぉん!」平太の膝にヒップアタックをかますではないか。
 花が、―咲いた。
 そうして、まるでこの世の秘密の(おきて)を教えるように平太にこう囁いたのである。
「ゆうくん」
「ん?」
 しっかりと聞きとったのにもかかわらず平太は問い返し、耳を寄せる。
「ゆう、くん」
 れいのその小さな指が、平太の首のポシェットを差している。
「れい!」ママが叫んでいる。
 れいはきゃっ、と声をあげて、逃げるように駆け去って行った。
 いま、
 笑ったよな。
 元妻のもとに帰還するやただちに手をつなぐのか、あるいはあの青っちろいあんちゃんに抱擁(ハグ)されるのか、平太は知りたくない。
 ましてやあんちゃんと微笑み合うれいの姿などもってのほかで。
 それを見届けられるほど、平太の堪忍袋は許容量を保てそうになかった。
 目をそむける。
 空を仰ぐ。 
 仰ぐ。
 仰ぐ。
 膝にのこされた我が娘の尻の感触。仄々(ほのほの)と。
 抱きしめたい。
 追いかけてこの腕のなかに捕まえて、れいを包みたい。
 平太はその衝動を、歯を食いしばるような思いで堪えた。
 あのにやけたあんちゃんは、れいを可愛がってくれているのだろうか。家庭をぶちこわした張本人が気を揉むことではないのだろうが、もしもあのあんちゃんのためにれいが不憫(ふびん)な思いを強いられているのだとするのなら。もう衝動を抑える必要も、義理もなくなるだろう。
 奪還するのみ。
 死に狂ひとなりて。
 もとより平太は狂人的Sだもんで。
 時が来ればその性質をここぞとばかりに解き放てばよいだけのことで―。
 すまん。
 ここでまた白状する。
 筆者、性懲(しょうこ)りもなくまたしても嘘をついていた。
 この平太という男をMであると、これまでたびたびそう説明してきた。
 しかし、実態は超ド級のSなのである。
 それも狂人的な、いや猟奇的な性質をもった、胸にSマーク入りの猛者(もさ)なのであった。
 ではなにゆえSMクラブに通いつめ、女王華凛にMとして仕えてきたのか。
 それは、とりもなおさず自身のS的猟奇趣味、あるいは野放しにしたら取り返しがつかなくなるであろう破壊衝動を抑え込むためなのである。社会に適合するための矯正であり、更生であり、いわば修行であって、今風に言えばリハビリというやつである。
 とどのつまりがどうにもこうにも洒落にならんのだ。この男。
 その獣性の暴走をなけなしの理性でもって辛うじて自覚するや、先手必勝、
「ごめんなさい」
 M男として甘んじて罰を受け入れる。
 負けるが勝ち。
 そうすることで己がS性を飼いならしてしまおうという、彼なりの良心のあらわれがSMクラブ通いなのであった。
 であるからして言わずもがな、プレイ中の平太の内面はさながら修羅場と化す。
 無理も無い。
 そもそも猟奇的Sの平太にとって、彼女たちのあられもないコスチューム姿は、お間抜け以外の何者でもないのだから。
 奴隷をまえに半ケツだ。
 へその下にはにょっきりとペニスバンドだ。
 赤べこを腰につけた、文字どおりの裸の王様。ならぬ裸の女王様にすぎない。
 であるからして(はら)の底では、そんな姿で悦に入っている女どもにひたすらウケていた。そして、
「こんな女いつでも殺せる。いま殺せる」
 ふつふつと沸き起こる女王へのそんな思いを叩きのめさんとして、
 (むち)を、
 熱蝋(ねつろう)を、
 蹴りを、
 潰しを、
 黄金(おうごん)を、
 聞くに堪えない罵倒の瀑布(ばくふ)を、
 はたまた凌辱と苦痛を与えるためだけに設計された奇妙なデザインの器具類を、それこそ後ろにも前にも受け入れている己に、平太は陶然(とうぜん)とするのだった。
 虫けらを(ゆる)してやっている、と。
 生き延びさせてやっている、と。
 地獄の罪人カンダタに、極楽から蜘蛛の糸が差し伸べられたのは、なぜか。
 生前、ただ一匹の蜘蛛を踏みつぶしかけて、思いとどまったからにほかならない。
 もしカンダタが根っからの善人だったのならば、そもそも道ばたの虫けらなどに殺意を抱くことなどなかったはずであり。
 とすればその善行は殺意なくして成立することはなかった。
 殺意あったればこその善行。
 ゆえに平太は殺意を自覚し、それを飼い慣らすことに底知れぬ優越感を抱く。
 平太にとってのカタルシスはまさに、そこ。プレイのたびに積み上げていく善行であり、贖罪なのである。
 そんな風だから、平太のS性が職業女王の技量(テク)を打ち負かしてしまうことなど間々(まま)あることであり、
 そうなると日々抑え込んできた量だけ破壊力(ポテンシャル)も尋常ではないわけで、休火山の数百年ぶりの噴火の如き大惨事となるのであった。
 実際、華凛に会うまえに通いつめた別のクラブでは、女王の語彙の乏しさ、言語センスの稚拙さを罵倒した挙句、右の乳首を食わせたことがある。
 想像してみてほしい。
 金蹴りを見舞う女王の足を股で受けとめ、挟みこみ、ぐいとひねって押し倒すやダイビング・ボディプレスを見舞う巨漢を。
 拘束具と無数の針による毛虫状態のまま、
 流血の黒い道をひいて這い寄ってくる大男の姿を。
 そうしてたくみに退路を断ちながら、女王をプレイルームのコーナーへと追いつめていくスキンヘッドの筋肉バカを。
 そのおめき声を。
 赤べこを震わせながらも辛うじて虚勢を保とうとする彼女を壁に押しつけるや、平太は備え付けの十字架に四度頭突きをくれて己が額を割った。
「ふびびびびびびい」
 ヘッドバンギング。
 流れ出す鮮血をストロベリーソースよろしく己が乳首に振りかけて。
―んで、
「病気ごと食らえ」
 呵呵大笑しながら(ほふ)らせたという。
 以来、平太の右の乳首の先は、無い。
 乳輪はひしゃげ、女王の行方は誰も知らない。
 そんな性格をひと口に表現しえる筆を、筆者は生憎(あいにく)と持たない。
 持ちたくもない。
 よって、とりあえずの方便として、平太をこれまでMとしてきたのである。
 実のところ、平太の周囲はそう信じて疑わないのだし。
 筋骨隆々たる強面(こわもて)の大男に限って「意外と」Mだったりするよね、というこの普遍化する「意外」という偏見に助けられて、平太の性癖はそう片付けられてもいた。
 ただし、それは平太と実際に手合わせをした華凛を除いての話なのだ。
 さすがに華凛だけは、平太のただならぬ本性に感づいている。
 従順であるにもかかわらず、どこか見下されている印象が終始ぬぐえない。そこに他の常連客とは異質なものを感じていた。
 しかし負けず嫌いの華凛のこと。それをみすみす見逃すこともできなかった。
 完全なる征服を目論(もくろ)んで、ついプライベートの泥沼にまで踏み込んでしまったのである。
 ともかく、以上が嘘の言い訳だ。
 ご理解頂けたであろうか。
 許されよ。
 平太が女王にするがごとく甘んじて(ゆるさ)されたならば、筆者も甘んじて先を続けるから。そこのところは、どうかひとつ。
 虫歯の痛みとあんちゃんのにやけ具合への嫌悪があいまって、ただならぬ苛立ちに見舞われてしまった平太は、盛り上がっていく夏の雲に向けて、こうつぶやいたものである。
 嗚呼、誰かに、
「調教させてえ」
 されたいのではない。
 させたいのである。己を。
 そんなド変態が見あげるうわの空を突いて、膝頭にのこされた仄々とした感触をノックする者がある。
 そこに―、去ったはずのれいがいた。
「はい」
 と突きつけたその手にはアイスキャンディが握られている。れいは自分のぶんのを咥えながら。
「バニラはまえのパパにって」
 あ、ありがとう。
「ソーダ味はれいちゃんのね」
 見ると、あんちゃんが遠くから会釈をよこす。
 まったくもって胸くそ悪い(さわ)やかさで。
「ママとニューパパはチョコ味だからね」
 ニューパパ……。
 確かにこちらが虫歯に苦しんでいることなど、奴の知るところではないだろう。だからこれに悪意はない。
 いやむしろささやかな善意ですらある。
 それくらいは平太にもわかる。
 わかるのになぜだろう。無性に己を、
「調教させてえ」
 平太は力こぶのような満面の笑みをあんちゃんに返すのであった。




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