第四十五章 決行 7

文字数 4,190文字

 決行

 
 凡次がカジノをあとにしたのは華凛と正造より少し遅れる。
 これがもし、いつものように勝枝が仕切る仕事(やま)だったのなら、現場のビフォアとアフターにほとんど違いが見いだせなかったことだろう。
 勝枝の差配(プロデュース)ならそれほどまでにきれいに立ち去ってみせたはず。
 ところがこのたびは正造がやらかした想定外の振る舞いに、現場は惨憺(さんたん)たる有様となっていた。
 きっかけはホールドアップさせていた黒服たちが突如ナイフを抜いたこと。
 正造は、相手がなかなかに使う奴だとみて、年甲斐もなく血を騒がせてしまったのだ。
 くわえて、不覚にも傷を負わされたのが決定打となり、あろうことか逆上してしまったのである。
 黙々と、正造はキレ続けた。
 カジノはさながら宴のあとに。
 よって凡次はひとり残り、その収拾を付けようと努めたのだが、あとの祭りとはよく言ったもので、馬鹿のケツ拭きに手間取って馬鹿を見たんじゃやるせない。
 ほどなくお手上げと見極めた。
 なにより、立ち込めた血とタバコの臭いが耐えられなかった。
 それに、ひとつ気がかりなことがある。
 日中、華凛をつけたとき。彼女の連れ、つまり多治見のボンボンは、たしかキャリーバッグを()いていた。
 してそれは地下鉄の最寄りの駅のコインロッカーに預けられたはずだが、いったい中身はなんであったろう。
 金庫が(から)だと知るや、あっさりと撤退した華凛の態度とあいまって、どうにも凡次の気持ちのおさまりを悪くしている。
 裏切り?
 馬鹿な。
 だとするならば、そもそも華凛はこの決行のまえに消えればよいではないか。
 ともかく長居は無用。
 エレベーターホールに向かう。
 表示板をみると、折しもかごが上昇してくるところだ。
 まさかよりにもよってこのフロアに停まるはずもなかろうと、凡次は階段に身を潜めてそれをやり過ごそうとした。
 すると案の定、そのまさかで。
 おそらくは多治見の手下のひとりに違いない。ドレッドヘアに藍染めの甚平がひとり、かごを降りて小走りにカジノを目指していく。
 凡次は階段を駆けおりた。
 やっっべえ。
 階段が尽きたどんづまりが一階。てっきりそう思いこんでいたものだからつい勢いあまって地下までおりてしまう。
 むき出しのコンクリート壁のだだっ広い空間―。
 駐車場だ。
 見渡したその視界のなかに人影をとらえる。
 二人。
 こちらに背を向けて、なにか怒鳴っているように見えた。
 そこにいやな空気を感じて車の陰から確かめると、彼らの足元に異様にごつい男がひとり、転がっているではないか。
 あんちゃん。
 兄、平太である。
 壁に背をあずけ、多治見の舎弟と思われる二人に、いいように殴られている。
 すでに顔面は、B級ホラーの特殊メイクさながらに色も形も変わっており。上半身は脱がされて、鼻からあふれた血液が厚い胸板を濡らしている。
 その赤い胸に黒く踊るのは、半田鏝(はんだごて)で書かせたというケロイドの二文字。

 不燃

 あてがわれた新人女王のあまりに単調な責めっぷりに憤慨した挙句、「奴隷の胸にハンダでひと言」と大喜利スタイルでお題を出し、翌週また指名してその知性(センス)を試験してやったのだという。
 さあ、答えをどうぞ! と新人女王に熱した半田鏝を握らせた。
 胸を貸すとはこのことだが、はたしてこの解答に平太が満足したかどうかは、知る由もない。
 まずいところへはち合わせてしまったものである。凡次は腹ばいになって状況の把握を試みた。
 あの二人のほかに、敵は見当たらず。
 六階で遭遇したドレッド甚平は、おそらくは応援を呼ぼうと一旦地上に出てケータイを使ってみたことだろう。
 ところがカジノはコールに応じない。
 それで仕方なく様子を見に行った。
 カジノのあの惨状を目の当たりにしたであろう今、ドレッド甚平はきっと此処へ舞い戻ろうとしている。
 平太に脱出のチャンスがあるとするならば、敵の人数が少ない今しかない。
 それなのに平太はいったい何を。
 陽灼(ひや)けした小太りのたぬき面と、ベージュのハンチング帽。
 ともに混じりっけなしの中高年だ。たかだかそんなふたりのチンピラを相手に。
 しかし連中も連中である。あの平太を拘束すらしないとは……。
 爪を噛む。
 いや、おそらくは知らないのではないのか。
 目の前にいるのが凶暴な指名手配犯であることを。
 平太のつま先が小刻みに震えているのが遠目にもわかった。
 それ見たことか、貧乏ゆすりをかましてござる。
 よほどイラついていてござる。
 実際、この血(まみ)れの状況にありながら平太は(かす)かに笑ってもいたのだ。陽溜まりで春風を()でるがごとくに。
 これは関わらないほうがいいと、凡次は思った。
 けど、
 なんだろう。
 なんだかんだ言っても結局は血を分けた兄弟だから。
 なんていうのも実を言えば嘘っぱちで。
 逃げる、というのがただただ癪なだけであり、
 何ひとつ優位に立たせてもらえなかった兄へ貸しをつくる千載一遇のチャンスでもある。
 ……などというのも本音なのかどうなのか、凡次は自身を見極めかねて。 
 いっそ見なかったことにしよう。
 そんな選択肢があたまをよぎった。
 するとどうだ。
 まるでそれを見透かしたように、平太がこちら気づくではないか。
 ぶくぶくに()れあがった瞼を開いて、ふてぶてしくもウインクを寄こしたものである。
 くそがっ。
 凡次は(にら)み返す。
 平太はすぐにたぬき面に視線をもどし、そのまま、
《逃げる。しろ。命令》
 とサイン。
 たぬき面が首をかしげた。まさかそれがカタコトの手話だとはこのチンピラにはわかるまい。
 平太は繰り返す。
《逃げる。しろ。命令》
 はっ。
 何を偉そうに。
 凡次はこの期に及んでまだそうやって子供扱いをしてくる兄が、胸糞悪かった。
 そのサイン。
 あの、少年の夏の日。
 叔父にゆずった闇獣一号『いちご』に会いに行った帰り道のこと。
 自転車をこいでいた平太は、下り坂に差し掛かってふとブレーキをかけた。
 肩を(あえ)がせてしばらくは憮然(ぶぜん)としていたのだが、やにわに坂の上を振り返ると、こう叫んだのである。
《だから注意してって言ったのにぃ》
 荷台(タンデム)の凡次にも、はっきりとそう唇が読めた。
《もおおおおおお》
 という叫びは、その背中の振動ではっきりとわかった。
 自転車は猛然と叔父の家へと引き返したのだ。
 平太はガレージの奥にゴルフバッグを見つけると、そこからアイアンを抜きはなってカローラに滅茶苦茶に殴りつけた。
 窓を砕き、磨き上げられたボンネットにぽつぽつとクレーターをつくった。
 まもなく騒ぎに気づいて叔父本人が駆け出てきた。
 居留守を使っていたが、やはり奴も家にいたのである。
 そんな大人の姑()が、平太の怒りの炎をあおる(ふいご)となったのも無理はない。
 兄は制止する叔父の手を振り切ると、今度は家の窓ガラスを襲いはじめた。
 そこへ至ってようやく叔父は手加減をやめる。
 まもなく騒ぎを聞きつけた隣人たちに兄は羽交い絞めにされてしまったのである。
 平太はあえなく庭にのびてしまったが、殴られても、殴られても悪態をつき、そして凡次にこうサインしたものである。
《逃げる。しろ。命令》
 ただ茫然と兄の暴発を見守っていた凡次は、それでようやっと我に返った。
 あたふたと、訳も分からずにひとり家を目指したのである。
 事の顛末はあとになって教えられる。
 いちごは車に()ねられて死んだ、と。
 叔父は庭でいちごを遊ばせたあと、家のはす向かいにある自販機へと煙草を求めた。
 国道の四車線を横断するその叔父を、いちごは健気にも追いすがったのである。
 庭の周囲(ぐるり)は刈りそろえられた生垣(いけがき)が囲んでいて。かつてその環境で柴犬を飼っていた経験が、叔父を油断させたらしい。
 なるほどいちごはあまりに幼く。
 そして小さく。
 門扉の下の隙間を難なく(くぐり)抜けてしまったのである。
 絶対に放し飼いにしないで。
 平太がしたその忠告を聞き入れてさえいてくれたならば、そんなことにはならなかったはずで。
 となれば兄にとっては殺されたにも等しいわけで。
 叔父への怨恨はともかくとして―。自分には何ひとつ説明をせず、一切をひとりで背負いこんだ兄に対して―、凡次はこのときから妙なわだかまりを抱いてしまうことになる。
 あのときのように、また逃げろってのか。
 たぬき面のおっさんのほうが平太を蹴っている。
 平太は壁に背をあずけて座り込んでいる。
 ために靴底で踏みつけられる形になっているが、筋肉の鎧を着込んだあの大男にとってはさほどダメージでもあるまい。
 代わってハンチングが、ビニール傘の柄で横っ面を殴りつけた。して今度は傘の先を腹に突き立てて、ぐりぐりと体重をかけてねじ込み始める。
 あれは効くわ。
 凡次は目をそむけて車体の陰にいったん引っ込んだ。
 なにをそこまで耐える必要があるのだか。
 ひょっとすると平太はすでに開き直っているのか。
 いや、
 違う。
 見ればたぬき面が、なにかをつまみ上げている。
 猫?
 しかもかなり幼い。
 あの馬鹿、昼間娘からあずかってきたのを連れてきやがったのだ。
 凡次はこめかみを揉んで憤りを鎮めようと努める。
 なるほど、それでか。
 途端に合点がいく。
 平太はかつてのいちごの件をいまだに引きずっており、殺さんばかりの情念でもって叔父を呪い続けている。
 そこまで憎悪にたいして律儀なやつだ。
 いや従順と言うべきか。
 ならば娘からあずかったあの猫は命に代えてでも守り通さねばなるまい。
 それでこその、叔父への憎悪だろう。
 たぬきが、つまみあげた猫の額にデコピンをかました。
 それを見て、まるで自分が殴られたかのように顔をゆがめる平太。
 それを嗤うハンチング。
 あんちゃん。あんたやっぱりアホだった。
 凡次は再びこめかみを揉んだ。揉みしだいて頭をかきむしった。
 といって凡次は正直なところ決して嫌いではないのである。この手のアホが。
 周囲の車種を確かめる。
 見る限り、世代の若いセキュリティーを搭載しているものばかりで、すぐに動かせそうなものは見当たらない。
 ただ一台、彼らの後方に停車している黒のセルシオだけが、左右のフロントドアを開け放っている。連中の車だろう。
 凡次はバックパックをその場へ置いた。
 歩行時に音を立てそうなものを身に着けていないか、確かめた。
 そして彼はゆっくりと車列の陰を縫って進み始めたのだ。




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