第五十一章 決行 10

文字数 3,924文字

 決行

 
 三階のその窓に、なぜか明かりがある。
 タクシードライバーは怪訝そうにしていたが、構わず華凛は車内からアジトの窓をしばし見張ることにした。
 もう誰か戻っているのだろうか。
 勝枝か。
 自分が勝枝なら、ああいう逃げ方をした以上はもう仲間のもとに戻りはしないだろう。
 いや、それとも「そらみたことか」と華凛の差配(プロデュース)をなじることで、御破算にしようというのか。
 それならそれでいい。
 そうでなくてもいい。
 普段から留守のあいだも照明を点けっぱなしにしていたような記憶はあった。
 はたして。
 ええい。
 すぐに戻るから、とドライバーに告げて部屋へと向かう。
 明け方の団地である。
 雨は上がり、どこかで朝刊配達のカブの音がしている。
 玄関の鍵は、開いていた。
 足を踏み入れたとき、奥に気配がしたような。
 (はら)は決めてある。現時点では、何もうしろめたいことはしていない。
「ただいまー」
 云いながら、自分の部屋を目指した。
 返事はない。
 一番奥のドアの前で立ち止まる。

  うえるかむ
          かりん

 掛け軸に書き殴った自筆の書をノックする。
 自分の部屋ではあったが、涼子が先に戻っている可能性も無くはない。
 その涼子が縫ってくれたサイコロ柄のドアノブ・カバーに手をかける。
 開けて明かりを点ける。
 鴨居に掛けた白のワンピース。
 胸の内側に仕込んだ隠しポケット。
 鍵はやはりそこにあった。
 二つ?
 あそうか、キャリーバッグのと、亀の水槽のか。
 よし急ごう。
 するとまたどこかで気配が―。
 足音?
「なにか居る」
 かねてからヨシと涼子が口をそろえてそう言い張るそれ(、、)なのか。
 廊下へ声をかけてみた。
「誰か帰ってるの?」
 勝枝の部屋。
 普段通りに片付いて、伽藍としている。
 リビング。
 異常、なし。
 気配は、ヨシの部屋か。
 そう思って向かいかけたところをテーブルの下から飛び出した何者かに抱きつかれた。
 押し戻されて掛け軸のドアに強く背中をぶつける。
 画鋲が飛ぶ。
 うえるかむが破れる。
 逃げていく小さな背中―。
 華凛はそれに追いすがって、組みついた。
 そのままヨシの部屋へとなだれ込む。
 誰? 
 子供?
 女の子?
 明かりの無い部屋のなか、もぬけの殻となったヨシの布団の上で二人はもみ合いとなる。
 組み敷いてみると、まだあどけない少女ではないか。
 見覚えは、無い。
 廊下から差しこんだ光が、その子の頸のあたりできらりと反射した。
 ブルーのダイスのネックレス。
 これ、涼子のでしょ。
 少女はぎゅっと握った手を必死にかばおうとしている。
 ほかにいったい何を盗ったのか。少女の腕をとって力づくで指を開かせていく。
 玄関で物音がした。
 戻って来たのは誰だ。
 騒ぎに気付いてぬっと顔を出したのは平太だった。
 暗がりにいる華凛にもそれは判った。
 彼がずぶ濡れの傷だらけで、今までに見たこともないほどの強い怒気を発しているのを、少女ともみ合いながらも華凛は感じ取った。
 次から次へとまったく、面倒くさい。
 お宝の独り占めは断念するほかないのか。
 平太が部屋に入ってくる。
 しかし彼が気に留めたのは二人のもみ合いではなく、もみ合いの最中に華凛が落とした鍵、であった。
 (タグ)には駅の名称とロッカーの番号が刻印されてある。
「華凛」
 その声を背中で聞きながら、華凛は引きつづき侵入者の指をほどいていく。
「華凛さんよ」
 指に噛みつかれた。
 頭突きで返す。
 少女の指の隙間から覗いたのは緑色の、何の変哲もない使い捨てライター。
「おーい華凛さーん」
 声から抑揚(イントネーション)が消えている。
 忌々(いまいま)しい。
 振りかえる。
 平太は畳の上の鍵を足のつま先でちょいと押しやった。
 それでやっと華凛は、鍵を落としていたことを知る。
 不覚。
 ついムキになってしまった自分を悔いたが、もう遅い。
 さあてどう取り繕おうか。
 少女がまた噛みつこうとしたので、平手打ちを二発かましておく。
 たかが使い捨てライターにこの騒動か。
「どゆこと?」平太が嗤って云う。
「だって帰ってきたらさ、この子がテーブルの下に隠れてたのよ。ほら、まえに涼子が霊を見たとか言ってたじゃない。あれ、たぶんこの子だわ。正体はただの泥棒さんね」
 そんな言い草は、盗賊を稼業としている以上は目クソ鼻クソをなんとやらであるとはわかっていた。が、話を逸らすことができるのなら逸らしておくにこしたことはない。
「いやいやいや華凛さん。この鍵のことよ。どゆこと?」
「?」
「凡次がね、見たって云ってんだわ。多治見んとこのボンボンとあんたがさ」と、またつま先で鍵を突いて「ここ(、、)に何かをしまったって。あの多治見のボンボンとは、どういうご関係なんでしょうか?」
「ご関係って……、べつに」
「べつに?」
「なんにも」
「なんにも?」
 この騒ぎで敷きっぱなしの布団が乱れ、枕の下に隠されてあった拳銃が露わになっていた。
 のを、華凛は見つけた。
 のを、目聡(めざと)く平太が勘づいた。
 のを、華凛は(さと)った。
 その一連の心の動きが、答えのすべてだった。
 銃を見つけた瞬間の、華凛の頭のなかがこうまで透けて見えてしまうことを、平太は深く哀しんだ。
 たまらず華凛から目を()らし、銃を手にする。
 屈んだ拍子にフードのなかのゆうくんがずり上がって、平太の耳にしがみついた。
「みい」
 グリップには『はやぶさ』のエンブレム。
 一見して平太には、良くできたおもちゃのように思えた。
 弾倉を(あらた)める。
 弾薬は本物っぽい。
 奥歯がまたずきりと(うず)いた。
 舌でなぞると歯の隙間になにか詰まっていた。
 口の中へ指をこじ入れて爪の先でほじる。
 ま、いいか。
 平太はそう呟いて、歯の隙間からとれたものを舌先で転がした。
「じゃ一緒に行ってみよっか」
 え?
 華凛の目が泳ぐ。
 平太は嗤うようにひとつ咳をしてから、歯の隙間に詰まっていたそれをぷっと足元に吐きだした。
 吐かれた唾液のなかにカイワレ大根の芽のようなものが(しな)びている。
 平太は「この」と鍵を示して「中に何が入ってんのかさ。一緒に行って見てみようよ」と微笑んだ。
 力こぶのような笑顔。
 その瞳はむしろ()いだ夜の海のように、黒く静まり返っていた。
 ああ、もはやこれはごっこ(、、、)じゃないんだ。
 主従ごっこなんかでは取り返しがつかないのだと華凛は覚った。
 自身はいま高層ビルの避雷針の先にピンヒールで立っているのではなく、しみったれた団地の一室、陽に灼けた畳のうえに這いつくばっている。
 身の投げどころなどあるはずもなかった。
 しゃがんでいた平太が立ち上がろうと。
 がその拍子に、耳にじゃれていたゆうくんが落ちた。
 それをキャッチしたのは誰あろう、正面に対峙していた華凛である。
 はからずも思わず手が出ていた。
 ちょっと吹き出したくなるようなアクシデントに、場を救われた。
 華凛はそう思ったことだろう。
 しかしすぐに、これまでに感じたことのない異質な緊張を平太の表情に知るのだ。
 おそらくはこれが殺気、というものか。
 察知するや反射的に身を引いて、子猫を腕のなかに(かば)っていた。
 そんな華凛の動揺を見透かしたのは、マウントをとられていた少女だ。唐突に暴れて華凛を跳ね除けると、開け放たれていた押入れへと逃げ込む。
 あっ、となって慌てた華凛がそれを追う格好になったのに他意は無かったはず。しかし平太から逃げる体勢となったので、平太は華凛の足首を片手でつかまえる。
「逃げんなよ」
 爬虫類に噛みつかれたような、そんな怖気(おぞけ)が華凛を襲った。
「ちがうっ」
「かえせ」
「ちがうちがうちがう」
 平太の手を蹴りほどいてうしろへと逃れる華凛。
 何か云いかけて、その言の葉を気管に詰まらせる平太。
 立ち上がりかけた腰を蹴られて、華凛は押入れのなかへと突き飛ばされる。
 どこかに頭を打った。
 咳き込みながら平太が尚も迫ってくる。
 ちがうちがう。ちがうんだってば。
 中から(ふすま)を閉じようとしたが抑えられ、あえなく()()がされた。
 矢継ぎばやに差し伸べてくる分厚い腕は、大蛇。 
 その目当ては胸に抱いた子猫か、あるいは自分の胸倉か。
 ガードし、(はじ)き返し、蹴り退()けながら華凛は後ずさる。
 が、押入れにそれほどの奥行きなどあろうはずもなく。
 やむなく(そで)へと(のが)れたその背中も、すぐに壁に(さえぎ)られる、……はずであった。
 しかしそこに当然あるはずの壁板が―、無い。
 押し入れは更に奥へと続いており、その先を這って逃げる少女の尻が見えた。
 背後に迫るのは、咳がらみに怒声を発する平太だ。
 闇にまみれたそのシルエットは、もはや異形。
 華凛は少女を追った。
 逃げて逃げて、闇へ闇へと這い進んでいく。
 何度もうしろから足を取られそうになる。
 もはや追う側も追われる側も言葉を捨てていた。
 華凛は半狂乱といった態で。
 それを追う平太もまた追うほどに、吠えるほどに我を忘れていく。
 そうしていま―、
 永久(とわ)に向け、先細りに伸びる闇のなか、
 見えない首輪を自ら解いて、
 人が獣になっていく。
 獣に言の葉は無く、
 言の葉は獣になれない。
 されど獣は言の葉に飢えて。
 言の葉をもとめて人を追えば、
 人みな獣と化していく。
 追うほどに、求めるほどに獣は言の葉を摘み取って。
 摘むほどに人は人でなくなっていく。
 そら人が消える。
 ほら消える。
 消える。
 どんどん消える。
 消えるは不安。
 不安は、こわい。
 こわいはゆうれい。
 ゆうれいはくらい。
 くらいは押入れ。
 押し入れはせまい。
 せまいは自分。
 自分は見えない。
 見えないは思い。
 オモイは軽い。
 軽いは光。
 光は―。
 光は―、彼方にあった。
 丸い壁の遥か彼方に、
 かすかに、けれど確かに見えていた。
 





 
 
 
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