第十七章 タイラ 1
文字数 9,709文字
タイラ
色に限って言えば、それはりんごのようでもある。
が、そこまで硬くはない。
果肉の弾力と形状からは、むしろ桃の仲間に思えもする。
もしくは熟しかけたトマトか。
少なくとも何かの実であろうことは、もがれた茎のあとから推測できた。
しかし、あえてこれにもっとも酷似するものをあげようとするならば、連想できるものはただひとつ。
心臓。
動物の。
もしくは人の。
見れば誰もがそう思うだろう。
この、血の滴 るほどに赤い果実が採れるのは、どうやら夢の中であるらしい。
断言ができないのは、いかんせん当人でさえその現場を覚えてはいないためである。
ただ、その果実を抱いていることに気づくのは、決まって同じ夢から覚めたときであった。
名をタイラという。
タイラはこの日も、手の中にその感触を認めるや、あらためて布団のぬくもりに身をうずめて夢の反芻 に耽 るのだった。
暗い森の中、幼い女の子の手をひいて彷徨 っていた。
あの子は誰だ。
たぶん知らない子。
夢の中で知り合ったのか。
自分がさらったのか。
あるいは彼女を何者かから守っていたのか。
追われて逃げていたような。
何かを追っていたような。
どちらにしてもひどく急いでいたのは確かで。
それは目が覚めたいまも、こうして動悸 がおさまらないほどで。
この余韻から逆算できるものは恐怖とか絶望といった、好 い夢にはあまり縁のない感情ばかり。
思い出せるのはそれくらいであった。
じゅごおおおおおおおお。
隣室のトイレ。
しばらく空部屋になっていたはずだが、やっと借り手がみつかったようである。
その音に反応してか水槽のなかでごそり、とミヤケがもがく音がした。
闇に目を凝らして置き時計を確かめる。
日の出にはまだ遠い。
が、こうまで意識が冴えてしまってはもう眠れないだろう。
机に手を伸ばしてパソコンを起動させる。
が、すぐに後悔した。
またか、と。
これといった目的もないままにアクションしてしまう、このとりあえず感。そんな膨大なとりあえずに支えられて、とりあえず生きてしまえていることの無念。
パソコンをつけたところで、したいことなどない。
こちら側から用がなければ、当然パソコン側からはないわけで。
メールやらブログやらSNSその他もろもろをチェックしたところで、誰からも沙汰がないのはわかりきっていた。
送信をしない以上、返信もない。
黙れば黙ったぶんだけの、静寂。
森の底の木霊 のように。
にもかかわらず闇の中で甲斐甲斐しく起ち上ろうとする世代遅れのパソコンの健気 さが、ことのほか苦 かった。
布団をはねのける。
こもっていた実の香りが解き放たれて、六畳の闇をほんのりと色づかせていく。
それはもぎたての桃のような。
いや、甘みはもっと華やいでいるようにも。
いずれにせよ築数十年の木造モルタルアパート。二十九歳の独身フリーターの住処 には、似つかわしくない香りであることは確かだろう。
はて、今日は何曜日だったか。
記憶をたどってタイラは舌打ちをする。
この得体のしれない果実。はたして食べられるのか、食べられないのか、正直なところタイラにはわからない。わからないものをわからないままに口にしなくてはならないほど、目下のところ餓えてもいなかった。
むろんネットで検索はしている。
名称も産地も不明ときているから、そもそもの検索のとっかかりとなるキーワードからして乏 しいのだが、こじつけ同然にひねり出しては片っ端からあたっていた。
しかし、それらしいものにはひとつもヒットしなかったのである。
画像からの類似検索であがった候補数はあまりに膨大で、半日をスクロールだけにつぶしてしまった。
仮に、食べられるとわかったとしても、その見てくれはあまりに不気味で。表面にはうっすらと静脈を思わせるような筋が浮き出ており、とてもじゃないが咀嚼 する気にはなれない。
ならばいっそ葬 ってしまえ。
そう決めてカレンダーを確認するときはいつも、残念なことに不燃ごみの曜日を過ぎているという。
そう、この日のように。
ならば次の不燃ごみの日までと考えて、とりあえずは冷蔵庫にしまう。
が、うっかり捨てそびれてしまう。
で、またしまう。
忘れてしまう。
しまう。
しまう。
この日の果実にもこれまで同様に冷蔵庫行きを宣告しかけた。
が、単身者用のそのちっぽけな庫内はすでに満員で。
ところ狭しと肩をよせ合ういびつな心臓どもは、黄色い照明を浴びて冷ややかにタイラを見返すばかり。
さながら満員電車に乗り込もうとする者へ浴びせられる、あのむせかえるような多数派プレッシャー。
「乗ってくんなよ」
民主主義 が相手ではかなわない。
そうあきらめてこれまで冷蔵庫の上に積みあげてきた果実も、すでに山を成していた。
いくつかはすでに茎の切り口から新芽をのばし始めており、滲 みだした果汁で冷蔵庫の天板はうっすらと濡れている。
臭いだしたら事だな。
日ごろから、人なみ程度にはエコに気を遣っているタイラではあったが、自分の生活を差し置いてまでそうする義理もなく。
夜があける前なら、かまうもんか。
そう決めてコンビニのレジ袋に一切の実を詰め込むと、部屋をあとにしたのである。
月は銀杏 。
夜の殿軍 よろしく西の空を目下退却中といったところ。
散髪したての襟足 に夜気が染みた。
冷え込んではいたが雪も無く、風も無く、空は広々と晴れ渡っている。
両手には赤い実を詰め込んだレジ袋。
足音を忍ばせて階段を下りた。
集合ポストの前でアパートを振り返る。
蔦 に覆われたその壁面にひとつ、明かりがあった。
203号。
例のトイレの音のした隣室だ。
窓辺に机を置いているらしく、デスクトップのモニターに対峙する人影が、黄色いカーテンのなかにうずくまっていた。
野郎、か。
ずいぶんと肥った人であるらしい。
かつてあの窓にあったシルエットは、もっとずっと小柄で、華奢で、なおかつ机に向かうその姿勢からは可憐なまでのひたむきさが感じられたものである。
キヒロ
タイラが密かに想いを寄せていた年下の女。
バイト先のコンビニで、キヒロは主に昼勤の担当だった。
深夜番のタイラとは生活サイクルが正反対。そのせいで隣人であることを互いに知ったのは、キヒロが入店してからずいぶんと経ってからである。
あるときばったりと近所のコインランドリーで出くわして、話し込むうちに近しくなった。
互いに漫画家を目指していることも、そのときに知る。
意気投合。
近しくなり原稿を見せ合う仲に。
キヒロがコミケに出店するときは進んでそのシフトの穴を埋めたものである。
深夜番が早番をかけもてば、おのずと睡眠不足になる。
にもかかわらずその都度ふたつ返事で引き受けてみせるタイラを、同僚たちは便利な奴と嗤った。
自然、我も我もと穴埋めの催促がタイラに集中し。
そんなタイラをよそにキヒロは才能を開花させ、コミケでは人気を博した。
まもなく原稿を持ち込んだ出版社にみとめられることに。
次第にバイトも休みがちとなり、タイラに押しつけられるシフトの穴埋めはその分だけ増えていった。
編集担当からは、まずはプロにつけと。
アシスタントとして仕えつつ、技術と経験を身につけよとのお達しがあったそうで、晴れてキヒロはコンビニを辞める。
やがて、ついた漫画家先生 の仕事場近くへ引っ越すこととなり、キヒロがアパートを出ていくまで、どれほどの時間も経っていない。
一切は、嵐のように過ぎて。
あとにはぽつん、
ひとりで勝手に翻弄されつづけたタイラが残された。
それでも尚、しばらくは辞めていったキヒロの穴を律儀にも埋め続けていたのである。
そうすることで、考えまいとしていたのかもしれない。
気づくまいともしていたのかもしれない。
が、所詮は無駄な抵抗というもので。
あれはいったいなんだったのか。
と夜勤明けの寝ぼけ眼 でふり返り、ようやく気がついたのである。
恋におちていたことに。
不覚。
いわずもがな、気づいたときには手遅れだ。
撃たれたことを理解できぬままに、胸の風穴を呆然と撫でている。そんな哀しくも滑稽なことになってしまっていた。
この穴ばかりは徹夜したからって埋められるものじゃない。
ならば、気づけないままでいたかっただろうに、胸。
思い出す。
にしても、思い出してしまう。
あの頃、未明に帰宅するときには、いつもきまって隣の窓にキヒロの影があった。
ポニーテールにするのは作画に集中しているときだ。
前かがみに原稿と対峙していた。
背景画を手伝ったこともある。
トーンを貼り、コピーにも走った。
不得手なメカデザインの参考にと、重機の写真集をプレゼントしたこともある。
「うっかり、また同じの買っちゃったんだ。こんなの二冊あってもしょうがないし」
ご丁寧にそんな嘘までついてだ。
なんというケツの青さだったことだろう。
蒙古斑 丸出しではないか。
記憶の生々しさのぶんだけ、その青き尻っぺたもことのほかリアルなわけで。となれば今はただ赤面するほかなく。羞恥心が、ただちに失望へと変わっていくまでは。
はて、あの頃の自分はキヒロからどう見えていたのか。
目に浮かぶのは、鼻の下をのばしきった己のアホ面 であり、折々に見せた下心丸出しのお間抜けぶりなのである。
笑えない。
となれば救いようもないわけで。
仕方なくタイラは自分で自分を、
はあ、こりゃこりゃ。
嗤ってやるほかなかった。
見上げれば、キヒロの影があったのと同じ窓にいま、見知らぬ巨漢が居座っている。
椅子の背もたれにふんぞり返って、もそもそと何かを貪ってもいる。
しゅん。
洟 をひとつすする。
タイラは歩き出す。
ゴミ集積所まではそこから二十メートルほど。
奥まったところの住人は、通り沿いにゴミ集積所を設けてある。
回収作業の効率を優先してのことで、タイラのアパートもそこに専用のゲージを置いてあった。
近づいていくと、ぶしつけにスポットライトが浴びせられた。
《曜日厳守!》
目に飛び込むペンキの殴り書き。
ライトはセンサー式で、設置されたのはここ数日といったところか。
不法投棄によほど管理人はいらだたされているのに違いない。
明かりの裾には、ホームレスと思しき男の影。バスケットにとりついて、黙々とアルミ缶を回収している。
男は爬虫類のように静かだったが、それでいて、おまえに興味を持たない代わりに俺にも興味を持ってくれるな。そんな拒絶的なオーラをまとっていた。
ならば、かまわない。
すみやかに自分のアパート用のゲージに接近する。
ゲージの扉は南京錠で施錠されてあった。
指定の曜日・時間内でないと解放しないきまりになったらしい。
しかしせめてそのゲージに添えておけば、回収日にだれかが処理してくれるだろう。
さらに近づきながらそれとなく周囲に視線を走らせる。
すると、向かいの住居のキッチンの小窓。その四角い闇から刺してくるスナイパーのごとき視線に、あろうことか出くわしてしまったからたまらない。
女。
見られている。
たまたまなのか。
夜通しああして集積所を見張っているのか。
それともスポットライトのセンサーがはたらくたびに、装置が彼女へと発報する仕組みなのか。
ともあれ、そうと知って途端に引き返しては怪しまれる。
歩きつづけて、何食わぬ顔で通り過ぎることにした。
毎朝あの辺りを大声でボヤキながら掃除をしているサファリハットの中年女に違いない。
人物として害は無い、―と思われる。
どころか生真面目すぎてユーモラスな印象さえ抱かせる彼女は、どこの町にでもいる、言わば気のいい変人さんといえた。
そんな変人さんが地域の子供たちに好かれないはずもなく。
子供たちのなかには、このお掃除おばさんに叱られたくて、毎朝わざわざ道草をするのがいるほどなのである。
タイラもこのサファリハットの女と何度か挨拶を交わしたことがあった。
心優しき変人も、我が日常の一員というわけで。
ならば尚更のこと、目の前でふてぶてしく不法投棄してのけるなんてことは言語道断。
ゴミ集積所への投棄を、あきらめる。
はやくも足が凍 えていた。
こんなことになろうとは思ってもみなかったから、素足にサンダルで出てきてしまった。
さて、どうしよう。
ぐるりと町内をまわって、またアパートに戻るしかないのか。
せっかく赤い実を持ち出したというのに、なんだかそれではアホらしくはないのか。
次の不燃ごみの日までまた保存するのか。この実を。
うんざりだ。
いったん吐き出したガムを、また噛みなおすようで。
なにより引き返しても、またあの女が睨んでいたとしたらかなわない。
それこそ、うろちょろと不審このうえない。
ええい、ままよ。
こうなったらもうどこか適当なところへ捨ててきてしまおう。
そうとなれば相場は河と決まっていた。
手に余れば河原へ。
古来、現実がもてあましたモノは、それが動物や人ならなおのこと、我々は河原へと追いたててきたわけであり。
そこは対岸への、
つまりは彼岸 という名の非現実 への入り口であり、
面倒や災 いごとを現実から追い出して字義通り『対岸の火事』を決め込むための国境 なのである。
タイラのアパートは県境をなす河川沿いにあった。
土手にあがる。
尾根は舗装されたサイクリングコースとして東西にのびており、東に目を凝らせば、彼方に都心の高層ビル群がわかる。ビルの航空障害灯の明滅は、群れ集う赤い蛍だ。
河畔には野球グラウンド、テニスコート、そして雑木林を貫く散歩コースが敷設されており、スポーツ愛好家はむろんのこと、週末には違法を承知でバーベキューを敢行する若者などでにぎわいを見せる。
が、いまはべっとりと闇に塗り込められているばかり。
対岸のマンションの常夜灯や街路灯ばかりが、河面 にはかなく滲んでいた。
ここに捨てるか。
ただあまりにも整地が行き届いていて、なんだか忍びない気もした。日が昇れば、ぽつん。刈り込んだ芝のグラウンドに赤い生ゴミである。
その点景はよろしくない。
タイラの美意識にそぐわない。
などと不法投棄にセンスを云々するのも噴飯ものだが、生活環境に目障りなものを自分で増やすのも、どうなのだ。
といって河に放るのも、さすがに気が引ける。
どこか藪の深いところにでも埋めてしまうか。
それだ。
土に還 す。
タイラはサイクリングコースを西にたどる。
老人とすれちがう。
ウインドブレーカー。ハンディ・ライト。ニットの耳あて。マスク。かすかな会釈。
孤独をたしなむ人たち。
いつしかタイラも歩調をとって大またで歩いていた。
まもなくタイラの右手、土手の河川側に鬱蒼 とした雑木林が現われる。
日中なら木漏れ日と鳥のさえずりが堪能できる散歩コースの一部だが、いまはこんもりとした闇。
道の先のほうで言い争う声がした。
百メートルほど前方に、土手に沿って走る一般道の街灯。
明かりはタイラの進む土手の尾根にまで漏れており、声の主たちは街灯の直下に影をつくっていた。
二人。
「やばいって」
「なんで」
「ぜったい、いまのじじいにみられたって」
「うるせえな。だからなによ」
タイラは道をそれ、土手の河川側の斜面にしゃがみこむ。
伸びあがって土手越しに目を凝らす。
影は二人かがりで何か大きな荷物を抱えている。
ひとりはまるで女のように華奢で髪が長いが、そのハスキーな低音はまぎれもなくのど仏を経由したものだ。
とどのつまり、野郎。
彼らはまだ何かもめているようだったが、やがて土手を上り、サイクリングロードを横断して河川側へと下りていった。
林の奥へと消えていく。
きっと長髪のほうのだろう。歩調にあわせてアクセサリーをじゃらじゃらと騒がせているのは。
遠のいて行くその気配を追ってはみたが、まもなく絶えて、しんとしてしまった。
強張 った手の指を休ませてやる。実の重みで袋の握りが食い込んでいた。
なあんだ。
考えることは皆おなじだ。
不法投棄。
あんな粗大ゴミに比べたら、ぼくの果実 なんてかわいいもじゃないか。
自然のものを、自然に還 すだけなのだから。
キャッチ・アンド・リリース。
とたんに気持ちがくつろいだ。
土手の上にもどって街灯のそばまで近づいてみる。
車道には軽ワゴンと原付バイクが停めてあった。
土手を下りる。
アイドリング中の軽は酒屋か何かの配達用で、ドアには商店名が印字されてある。
音楽がかけっぱなしで、運転席の窓が割られており、シートに散ったガラスの破片が街灯の明かりを反射させている。
原付は、小汚い。
かつ古い。
おまけに臭そうだ。
破れたシートカバーを赤いビニールテープでぐるぐる巻きに補修してあるのだが、仕事は雑。
黄ばんでぐずぐずに崩れたスポンジが中からはみ出している。ボディには趣味の悪いステッカーが貼り重ねられて、そのほとんどが色あせていた。曰く、
夜露死苦
今どき、無い。
ノー・サンキューである。
シールはハンドルにまでびっしりと。
こちらは、その昔缶コーヒーメーカーが展開したキャンペーンの応募用で、抽選で特製革ジャンがあたるとかいう、良くあるあれである。
しこたま集めたはいいものの、応募期限をうっかりわすれてしまったという。持ち主の出たとこ勝負の性格があらわれていた。
土手の尾根に引き返す。
彼らが去っていった方角に目を凝らす。
不法投棄というものは、まるで示し合わせたかのように同じ場所に集中するもの。
ということはだ、彼らの向かった先はそんな墓地 であるとみていい。
郷に入っては郷に従え、と云う。
だってみんなやってるもん、とも云う。
とどのつまりが、そんな民主主義もあるわけで。
ならばこれほど都合の良い動機付けもなかった。
見下ろした藪には、黒々とした闇が口を開けている。
連中はここから林の中へと入ったわけだ。
おそらくはこれが墓地へと通ずる道。
見知らぬ多数派 が均 した道。
タイラは、彼らが引き返してくるのを待った。
さながらトイレの順番を待つようで、我ながら滑稽に思う。
やがて、男たちが引き返してきて。軽ワゴンと原付のエンジン音が威勢良く去っていくのを確 かめてから、タイラはまたそこに戻った。
土手を下り、藪のトンネルを抜けて雑木林へと足を踏み入れる。
折よく空が白みはじめており、なんせ葉を落としきった冬の林だ。夜はゆるゆると希釈 されていく。
林をぬけると枯れたススキ野に抱かれた。
それもすぐに尽きて、岸に出る。
遠く対岸の河原で使われている火が、鬼火のようにちらちらと。
ホームレスたちだろう。
暖をとっているのか、あるいは朝食の支度なのか。炊煙 が暁闇 の空にたなびいていた。
月はもはやクラゲ。
はて、粗大ゴミの墓場はどこだ。
河へ捨てた?
道は河べりをなぞって下流へとつづいている。
たどっていくと、中州につながっていることがわかった。
この中州、島ではなくて半島だったのか。
都心に向かう電車でこの河をまたぐ鉄橋を渡るとき、車窓から見えていたのが確かこの中州だったように思う。
広さはちょっとした野球グラウンドほどもあって、こんもりと藪を盛り付けたそのなかほどに、高々と枝を張った木々が数本身を寄せ合っている。
あたかも焚 き火を囲む、老いた巨樹人 たちのよう。
そのことから、この中州が台風などの増水にも長年耐えてきたらしいことがうかがえる。
辛うじて半島であるのは、たまたまこの時期の水位が低いためなのか。半島 と本州 をつなぐ砂州 は、ひどく心細い。
草を分けて半島へ。
獣道 がひと筋、笹の藪を割いて島の中心へとタイラを導く。
待ち受けていたのは、そこだけぽっかりと藪の禿 げた砂地。
巨樹人たちは、その野球のマウンドほどの丸い禿げを匿 うように立っていた。
なるほど、島の外からこの空き地が見えないはずである。
タイラが少年だったならば、きっとここに秘密基地を構想したに違いない。そんな空き地。
見渡してみると、これといった粗大ゴミは見当たらず。ただ、中央に一台、臓 を開けた冷蔵庫が天を仰いで転がっているばかりだ。
足跡が、その周囲に群れている。
先ほどの男たちのものに違いない。
庫内にこびりつく枯れ草と泥。
型は、随分と古く。
砂上には、これを引きずってできたらしい新しい溝が、草むらのほうからのびていた。
冷蔵庫はもともとその藪のなかに投棄してあったものだろう。
あるいは増水で流れついたのか。
だとすれば、先ほどの男たちが運び込んだあの大きなものは、いったい何処へ?
傍 らには、たったいま掘り返したばかりの色の違う砂山がある。
埋めた?
此処 へ?
タイラは冷蔵庫の角に片足を乗せ、蹴りだすようにしてそれを転がしてみる。
が砂の傾斜に負けて、すぐに揺り戻されてしまう。
ちらりと下にベージュ色の布が見えた。
さらに二度蹴ったが、やはり駄目。
今度は足で押さえつけて寝返りをうたせたままにする。
下に敷かれていたベージュ色の布は古い毛布だ。
何かを毛布にくるんで埋めてある。
いやいや、深く埋めようとしたが途中であきらめた。そこでともかくも冷蔵庫をのせて蓋をした。そんなやっつけな印象がした。
なんだこれ。
もし電化製品や家具などの粗大ゴミならば、この空き地に放り投げていけばよい。
それをわざわざ埋めていこうとするなんて。
そうしなくてはならないものって。いったい。
片足で冷蔵庫を押さえているせいで、軸足が動かせない。
かといって、素手でその毛布をはぎ取ってみる勇気まではない。
果実の入ったレジ袋の底を軽く毛布のうえに乗せてみた。
次いでとんとんとバウンドさせてみる。
そんなことでは毛布の中身の質感はつかめやしないのだが。
だいたいそれを知ってどうする。
何やってんだ、ぼくは。
さっさと実を捨てて帰ろう。
どん。
タイラは持っていたレジ袋をそこへ落とす。
袋の口をくくっていなかったので、中の実がこぼれて散らばった。
もう片方の袋もそうしようと軽くスイングしたが、指を離しかけたそのとき、
んがっふ。
毛布の中が、そう云った。
んがっふ、と。
なんだろう。んがっふ、とは。
問題はその意味ではない。まぎれもなく毛布の中がそれを発音 したということ。
お役御免となったルームランナーやロデオマシーン、ソファ、洗濯機などの粗大ゴミはもちろんのこと、犬や猫だってきっと言わない。
んがっふ、だなんて。
などと思考するよりもさきにタイラは跳び退いている。
砂地に尻もちをついて冷蔵庫がぐわりと元の位置にもどるのを見つめながら。
こぼれた赤い実が毛布の上に散っているせいで、冷蔵庫は不安定な姿勢で止まった。
冷静に思い返してみて「んがっふ」はゲップではないかと。
「え?」
ゲップではないかと。
「えええ?」
ゲップではないかと。
動悸。
東雲 を下からあぶっていた太陽が、丁度顔を出したらしい。
冷蔵庫の尻が照らされて、その影がぎゅんと西へと引き伸ばされる。
あたりが明るくなり、これが現実であることを否応もなくタイラに呑みこませるが。
「えええええ?」
いかんせん胸が受け付けない。
姿勢を低くして冷蔵庫の下をのぞいてみた。
下敷きとなった果実の影がいくつか見える。
何かいる ?
馬鹿な。
凝視する。
動かない。
そりゃそうでしょう。
気のせいだ。
が、地面と冷蔵庫の隙間が、息づくようにかすかに上下しているような……。
毛布が寝息をたてているような。
いないような。
いや実際に動いて、る?
どう?
え?
どうよ?
歩み寄ってもう一度冷蔵庫を傾かせる。
そうしてまた凝視する。
砂にまみれた毛布を。
そこに散らばった実を。
動いていない、―よな。
な。
な。
な。
指差し確認。
よしっ、動いてないっ。
タイラはアパートへと駆け戻った。
色に限って言えば、それはりんごのようでもある。
が、そこまで硬くはない。
果肉の弾力と形状からは、むしろ桃の仲間に思えもする。
もしくは熟しかけたトマトか。
少なくとも何かの実であろうことは、もがれた茎のあとから推測できた。
しかし、あえてこれにもっとも酷似するものをあげようとするならば、連想できるものはただひとつ。
心臓。
動物の。
もしくは人の。
見れば誰もがそう思うだろう。
この、血の
断言ができないのは、いかんせん当人でさえその現場を覚えてはいないためである。
ただ、その果実を抱いていることに気づくのは、決まって同じ夢から覚めたときであった。
名をタイラという。
タイラはこの日も、手の中にその感触を認めるや、あらためて布団のぬくもりに身をうずめて夢の
暗い森の中、幼い女の子の手をひいて
あの子は誰だ。
たぶん知らない子。
夢の中で知り合ったのか。
自分がさらったのか。
あるいは彼女を何者かから守っていたのか。
追われて逃げていたような。
何かを追っていたような。
どちらにしてもひどく急いでいたのは確かで。
それは目が覚めたいまも、こうして
この余韻から逆算できるものは恐怖とか絶望といった、
思い出せるのはそれくらいであった。
じゅごおおおおおおおお。
隣室のトイレ。
しばらく空部屋になっていたはずだが、やっと借り手がみつかったようである。
その音に反応してか水槽のなかでごそり、とミヤケがもがく音がした。
闇に目を凝らして置き時計を確かめる。
日の出にはまだ遠い。
が、こうまで意識が冴えてしまってはもう眠れないだろう。
机に手を伸ばしてパソコンを起動させる。
が、すぐに後悔した。
またか、と。
これといった目的もないままにアクションしてしまう、このとりあえず感。そんな膨大なとりあえずに支えられて、とりあえず生きてしまえていることの無念。
パソコンをつけたところで、したいことなどない。
こちら側から用がなければ、当然パソコン側からはないわけで。
メールやらブログやらSNSその他もろもろをチェックしたところで、誰からも沙汰がないのはわかりきっていた。
送信をしない以上、返信もない。
黙れば黙ったぶんだけの、静寂。
森の底の
にもかかわらず闇の中で甲斐甲斐しく起ち上ろうとする世代遅れのパソコンの
布団をはねのける。
こもっていた実の香りが解き放たれて、六畳の闇をほんのりと色づかせていく。
それはもぎたての桃のような。
いや、甘みはもっと華やいでいるようにも。
いずれにせよ築数十年の木造モルタルアパート。二十九歳の独身フリーターの
はて、今日は何曜日だったか。
記憶をたどってタイラは舌打ちをする。
この得体のしれない果実。はたして食べられるのか、食べられないのか、正直なところタイラにはわからない。わからないものをわからないままに口にしなくてはならないほど、目下のところ餓えてもいなかった。
むろんネットで検索はしている。
名称も産地も不明ときているから、そもそもの検索のとっかかりとなるキーワードからして
しかし、それらしいものにはひとつもヒットしなかったのである。
画像からの類似検索であがった候補数はあまりに膨大で、半日をスクロールだけにつぶしてしまった。
仮に、食べられるとわかったとしても、その見てくれはあまりに不気味で。表面にはうっすらと静脈を思わせるような筋が浮き出ており、とてもじゃないが
ならばいっそ
そう決めてカレンダーを確認するときはいつも、残念なことに不燃ごみの曜日を過ぎているという。
そう、この日のように。
ならば次の不燃ごみの日までと考えて、とりあえずは冷蔵庫にしまう。
が、うっかり捨てそびれてしまう。
で、またしまう。
忘れてしまう。
しまう。
しまう。
この日の果実にもこれまで同様に冷蔵庫行きを宣告しかけた。
が、単身者用のそのちっぽけな庫内はすでに満員で。
ところ狭しと肩をよせ合ういびつな心臓どもは、黄色い照明を浴びて冷ややかにタイラを見返すばかり。
さながら満員電車に乗り込もうとする者へ浴びせられる、あのむせかえるような多数派プレッシャー。
「乗ってくんなよ」
そうあきらめてこれまで冷蔵庫の上に積みあげてきた果実も、すでに山を成していた。
いくつかはすでに茎の切り口から新芽をのばし始めており、
臭いだしたら事だな。
日ごろから、人なみ程度にはエコに気を遣っているタイラではあったが、自分の生活を差し置いてまでそうする義理もなく。
夜があける前なら、かまうもんか。
そう決めてコンビニのレジ袋に一切の実を詰め込むと、部屋をあとにしたのである。
月は
夜の
散髪したての
冷え込んではいたが雪も無く、風も無く、空は広々と晴れ渡っている。
両手には赤い実を詰め込んだレジ袋。
足音を忍ばせて階段を下りた。
集合ポストの前でアパートを振り返る。
203号。
例のトイレの音のした隣室だ。
窓辺に机を置いているらしく、デスクトップのモニターに対峙する人影が、黄色いカーテンのなかにうずくまっていた。
野郎、か。
ずいぶんと肥った人であるらしい。
かつてあの窓にあったシルエットは、もっとずっと小柄で、華奢で、なおかつ机に向かうその姿勢からは可憐なまでのひたむきさが感じられたものである。
キヒロ
タイラが密かに想いを寄せていた年下の女。
バイト先のコンビニで、キヒロは主に昼勤の担当だった。
深夜番のタイラとは生活サイクルが正反対。そのせいで隣人であることを互いに知ったのは、キヒロが入店してからずいぶんと経ってからである。
あるときばったりと近所のコインランドリーで出くわして、話し込むうちに近しくなった。
互いに漫画家を目指していることも、そのときに知る。
意気投合。
近しくなり原稿を見せ合う仲に。
キヒロがコミケに出店するときは進んでそのシフトの穴を埋めたものである。
深夜番が早番をかけもてば、おのずと睡眠不足になる。
にもかかわらずその都度ふたつ返事で引き受けてみせるタイラを、同僚たちは便利な奴と嗤った。
自然、我も我もと穴埋めの催促がタイラに集中し。
そんなタイラをよそにキヒロは才能を開花させ、コミケでは人気を博した。
まもなく原稿を持ち込んだ出版社にみとめられることに。
次第にバイトも休みがちとなり、タイラに押しつけられるシフトの穴埋めはその分だけ増えていった。
編集担当からは、まずはプロにつけと。
アシスタントとして仕えつつ、技術と経験を身につけよとのお達しがあったそうで、晴れてキヒロはコンビニを辞める。
やがて、ついた漫画家
一切は、嵐のように過ぎて。
あとにはぽつん、
ひとりで勝手に翻弄されつづけたタイラが残された。
それでも尚、しばらくは辞めていったキヒロの穴を律儀にも埋め続けていたのである。
そうすることで、考えまいとしていたのかもしれない。
気づくまいともしていたのかもしれない。
が、所詮は無駄な抵抗というもので。
あれはいったいなんだったのか。
と夜勤明けの寝ぼけ
恋におちていたことに。
不覚。
いわずもがな、気づいたときには手遅れだ。
撃たれたことを理解できぬままに、胸の風穴を呆然と撫でている。そんな哀しくも滑稽なことになってしまっていた。
この穴ばかりは徹夜したからって埋められるものじゃない。
ならば、気づけないままでいたかっただろうに、胸。
思い出す。
にしても、思い出してしまう。
あの頃、未明に帰宅するときには、いつもきまって隣の窓にキヒロの影があった。
ポニーテールにするのは作画に集中しているときだ。
前かがみに原稿と対峙していた。
背景画を手伝ったこともある。
トーンを貼り、コピーにも走った。
不得手なメカデザインの参考にと、重機の写真集をプレゼントしたこともある。
「うっかり、また同じの買っちゃったんだ。こんなの二冊あってもしょうがないし」
ご丁寧にそんな嘘までついてだ。
なんというケツの青さだったことだろう。
記憶の生々しさのぶんだけ、その青き尻っぺたもことのほかリアルなわけで。となれば今はただ赤面するほかなく。羞恥心が、ただちに失望へと変わっていくまでは。
はて、あの頃の自分はキヒロからどう見えていたのか。
目に浮かぶのは、鼻の下をのばしきった己のアホ
笑えない。
となれば救いようもないわけで。
仕方なくタイラは自分で自分を、
はあ、こりゃこりゃ。
嗤ってやるほかなかった。
見上げれば、キヒロの影があったのと同じ窓にいま、見知らぬ巨漢が居座っている。
椅子の背もたれにふんぞり返って、もそもそと何かを貪ってもいる。
しゅん。
タイラは歩き出す。
ゴミ集積所まではそこから二十メートルほど。
奥まったところの住人は、通り沿いにゴミ集積所を設けてある。
回収作業の効率を優先してのことで、タイラのアパートもそこに専用のゲージを置いてあった。
近づいていくと、ぶしつけにスポットライトが浴びせられた。
《曜日厳守!》
目に飛び込むペンキの殴り書き。
ライトはセンサー式で、設置されたのはここ数日といったところか。
不法投棄によほど管理人はいらだたされているのに違いない。
明かりの裾には、ホームレスと思しき男の影。バスケットにとりついて、黙々とアルミ缶を回収している。
男は爬虫類のように静かだったが、それでいて、おまえに興味を持たない代わりに俺にも興味を持ってくれるな。そんな拒絶的なオーラをまとっていた。
ならば、かまわない。
すみやかに自分のアパート用のゲージに接近する。
ゲージの扉は南京錠で施錠されてあった。
指定の曜日・時間内でないと解放しないきまりになったらしい。
しかしせめてそのゲージに添えておけば、回収日にだれかが処理してくれるだろう。
さらに近づきながらそれとなく周囲に視線を走らせる。
すると、向かいの住居のキッチンの小窓。その四角い闇から刺してくるスナイパーのごとき視線に、あろうことか出くわしてしまったからたまらない。
女。
見られている。
たまたまなのか。
夜通しああして集積所を見張っているのか。
それともスポットライトのセンサーがはたらくたびに、装置が彼女へと発報する仕組みなのか。
ともあれ、そうと知って途端に引き返しては怪しまれる。
歩きつづけて、何食わぬ顔で通り過ぎることにした。
毎朝あの辺りを大声でボヤキながら掃除をしているサファリハットの中年女に違いない。
人物として害は無い、―と思われる。
どころか生真面目すぎてユーモラスな印象さえ抱かせる彼女は、どこの町にでもいる、言わば気のいい変人さんといえた。
そんな変人さんが地域の子供たちに好かれないはずもなく。
子供たちのなかには、このお掃除おばさんに叱られたくて、毎朝わざわざ道草をするのがいるほどなのである。
タイラもこのサファリハットの女と何度か挨拶を交わしたことがあった。
心優しき変人も、我が日常の一員というわけで。
ならば尚更のこと、目の前でふてぶてしく不法投棄してのけるなんてことは言語道断。
ゴミ集積所への投棄を、あきらめる。
はやくも足が
こんなことになろうとは思ってもみなかったから、素足にサンダルで出てきてしまった。
さて、どうしよう。
ぐるりと町内をまわって、またアパートに戻るしかないのか。
せっかく赤い実を持ち出したというのに、なんだかそれではアホらしくはないのか。
次の不燃ごみの日までまた保存するのか。この実を。
うんざりだ。
いったん吐き出したガムを、また噛みなおすようで。
なにより引き返しても、またあの女が睨んでいたとしたらかなわない。
それこそ、うろちょろと不審このうえない。
ええい、ままよ。
こうなったらもうどこか適当なところへ捨ててきてしまおう。
そうとなれば相場は河と決まっていた。
手に余れば河原へ。
古来、現実がもてあましたモノは、それが動物や人ならなおのこと、我々は河原へと追いたててきたわけであり。
そこは対岸への、
つまりは
面倒や
タイラのアパートは県境をなす河川沿いにあった。
土手にあがる。
尾根は舗装されたサイクリングコースとして東西にのびており、東に目を凝らせば、彼方に都心の高層ビル群がわかる。ビルの航空障害灯の明滅は、群れ集う赤い蛍だ。
河畔には野球グラウンド、テニスコート、そして雑木林を貫く散歩コースが敷設されており、スポーツ愛好家はむろんのこと、週末には違法を承知でバーベキューを敢行する若者などでにぎわいを見せる。
が、いまはべっとりと闇に塗り込められているばかり。
対岸のマンションの常夜灯や街路灯ばかりが、
ここに捨てるか。
ただあまりにも整地が行き届いていて、なんだか忍びない気もした。日が昇れば、ぽつん。刈り込んだ芝のグラウンドに赤い生ゴミである。
その点景はよろしくない。
タイラの美意識にそぐわない。
などと不法投棄にセンスを云々するのも噴飯ものだが、生活環境に目障りなものを自分で増やすのも、どうなのだ。
といって河に放るのも、さすがに気が引ける。
どこか藪の深いところにでも埋めてしまうか。
それだ。
土に
タイラはサイクリングコースを西にたどる。
老人とすれちがう。
ウインドブレーカー。ハンディ・ライト。ニットの耳あて。マスク。かすかな会釈。
孤独をたしなむ人たち。
いつしかタイラも歩調をとって大またで歩いていた。
まもなくタイラの右手、土手の河川側に
日中なら木漏れ日と鳥のさえずりが堪能できる散歩コースの一部だが、いまはこんもりとした闇。
道の先のほうで言い争う声がした。
百メートルほど前方に、土手に沿って走る一般道の街灯。
明かりはタイラの進む土手の尾根にまで漏れており、声の主たちは街灯の直下に影をつくっていた。
二人。
「やばいって」
「なんで」
「ぜったい、いまのじじいにみられたって」
「うるせえな。だからなによ」
タイラは道をそれ、土手の河川側の斜面にしゃがみこむ。
伸びあがって土手越しに目を凝らす。
影は二人かがりで何か大きな荷物を抱えている。
ひとりはまるで女のように華奢で髪が長いが、そのハスキーな低音はまぎれもなくのど仏を経由したものだ。
とどのつまり、野郎。
彼らはまだ何かもめているようだったが、やがて土手を上り、サイクリングロードを横断して河川側へと下りていった。
林の奥へと消えていく。
きっと長髪のほうのだろう。歩調にあわせてアクセサリーをじゃらじゃらと騒がせているのは。
遠のいて行くその気配を追ってはみたが、まもなく絶えて、しんとしてしまった。
なあんだ。
考えることは皆おなじだ。
不法投棄。
あんな粗大ゴミに比べたら、ぼくの
自然のものを、自然に
キャッチ・アンド・リリース。
とたんに気持ちがくつろいだ。
土手の上にもどって街灯のそばまで近づいてみる。
車道には軽ワゴンと原付バイクが停めてあった。
土手を下りる。
アイドリング中の軽は酒屋か何かの配達用で、ドアには商店名が印字されてある。
音楽がかけっぱなしで、運転席の窓が割られており、シートに散ったガラスの破片が街灯の明かりを反射させている。
原付は、小汚い。
かつ古い。
おまけに臭そうだ。
破れたシートカバーを赤いビニールテープでぐるぐる巻きに補修してあるのだが、仕事は雑。
黄ばんでぐずぐずに崩れたスポンジが中からはみ出している。ボディには趣味の悪いステッカーが貼り重ねられて、そのほとんどが色あせていた。曰く、
夜露死苦
今どき、無い。
ノー・サンキューである。
シールはハンドルにまでびっしりと。
こちらは、その昔缶コーヒーメーカーが展開したキャンペーンの応募用で、抽選で特製革ジャンがあたるとかいう、良くあるあれである。
しこたま集めたはいいものの、応募期限をうっかりわすれてしまったという。持ち主の出たとこ勝負の性格があらわれていた。
土手の尾根に引き返す。
彼らが去っていった方角に目を凝らす。
不法投棄というものは、まるで示し合わせたかのように同じ場所に集中するもの。
ということはだ、彼らの向かった先はそんな
郷に入っては郷に従え、と云う。
だってみんなやってるもん、とも云う。
とどのつまりが、そんな民主主義もあるわけで。
ならばこれほど都合の良い動機付けもなかった。
見下ろした藪には、黒々とした闇が口を開けている。
連中はここから林の中へと入ったわけだ。
おそらくはこれが墓地へと通ずる道。
見知らぬ
タイラは、彼らが引き返してくるのを待った。
さながらトイレの順番を待つようで、我ながら滑稽に思う。
やがて、男たちが引き返してきて。軽ワゴンと原付のエンジン音が威勢良く去っていくのを確 かめてから、タイラはまたそこに戻った。
土手を下り、藪のトンネルを抜けて雑木林へと足を踏み入れる。
折よく空が白みはじめており、なんせ葉を落としきった冬の林だ。夜はゆるゆると
林をぬけると枯れたススキ野に抱かれた。
それもすぐに尽きて、岸に出る。
遠く対岸の河原で使われている火が、鬼火のようにちらちらと。
ホームレスたちだろう。
暖をとっているのか、あるいは朝食の支度なのか。
月はもはやクラゲ。
はて、粗大ゴミの墓場はどこだ。
河へ捨てた?
道は河べりをなぞって下流へとつづいている。
たどっていくと、中州につながっていることがわかった。
この中州、島ではなくて半島だったのか。
都心に向かう電車でこの河をまたぐ鉄橋を渡るとき、車窓から見えていたのが確かこの中州だったように思う。
広さはちょっとした野球グラウンドほどもあって、こんもりと藪を盛り付けたそのなかほどに、高々と枝を張った木々が数本身を寄せ合っている。
あたかも
そのことから、この中州が台風などの増水にも長年耐えてきたらしいことがうかがえる。
辛うじて半島であるのは、たまたまこの時期の水位が低いためなのか。
草を分けて半島へ。
待ち受けていたのは、そこだけぽっかりと藪の
巨樹人たちは、その野球のマウンドほどの丸い禿げを
なるほど、島の外からこの空き地が見えないはずである。
タイラが少年だったならば、きっとここに秘密基地を構想したに違いない。そんな空き地。
見渡してみると、これといった粗大ゴミは見当たらず。ただ、中央に一台、
足跡が、その周囲に群れている。
先ほどの男たちのものに違いない。
庫内にこびりつく枯れ草と泥。
型は、随分と古く。
砂上には、これを引きずってできたらしい新しい溝が、草むらのほうからのびていた。
冷蔵庫はもともとその藪のなかに投棄してあったものだろう。
あるいは増水で流れついたのか。
だとすれば、先ほどの男たちが運び込んだあの大きなものは、いったい何処へ?
埋めた?
タイラは冷蔵庫の角に片足を乗せ、蹴りだすようにしてそれを転がしてみる。
が砂の傾斜に負けて、すぐに揺り戻されてしまう。
ちらりと下にベージュ色の布が見えた。
さらに二度蹴ったが、やはり駄目。
今度は足で押さえつけて寝返りをうたせたままにする。
下に敷かれていたベージュ色の布は古い毛布だ。
何かを毛布にくるんで埋めてある。
いやいや、深く埋めようとしたが途中であきらめた。そこでともかくも冷蔵庫をのせて蓋をした。そんなやっつけな印象がした。
なんだこれ。
もし電化製品や家具などの粗大ゴミならば、この空き地に放り投げていけばよい。
それをわざわざ埋めていこうとするなんて。
そうしなくてはならないものって。いったい。
片足で冷蔵庫を押さえているせいで、軸足が動かせない。
かといって、素手でその毛布をはぎ取ってみる勇気まではない。
果実の入ったレジ袋の底を軽く毛布のうえに乗せてみた。
次いでとんとんとバウンドさせてみる。
そんなことでは毛布の中身の質感はつかめやしないのだが。
だいたいそれを知ってどうする。
何やってんだ、ぼくは。
さっさと実を捨てて帰ろう。
どん。
タイラは持っていたレジ袋をそこへ落とす。
袋の口をくくっていなかったので、中の実がこぼれて散らばった。
もう片方の袋もそうしようと軽くスイングしたが、指を離しかけたそのとき、
んがっふ。
毛布の中が、そう云った。
んがっふ、と。
なんだろう。んがっふ、とは。
問題はその意味ではない。まぎれもなく毛布の中がそれを
お役御免となったルームランナーやロデオマシーン、ソファ、洗濯機などの粗大ゴミはもちろんのこと、犬や猫だってきっと言わない。
んがっふ、だなんて。
などと思考するよりもさきにタイラは跳び退いている。
砂地に尻もちをついて冷蔵庫がぐわりと元の位置にもどるのを見つめながら。
こぼれた赤い実が毛布の上に散っているせいで、冷蔵庫は不安定な姿勢で止まった。
冷静に思い返してみて「んがっふ」はゲップではないかと。
「え?」
ゲップではないかと。
「えええ?」
ゲップではないかと。
動悸。
冷蔵庫の尻が照らされて、その影がぎゅんと西へと引き伸ばされる。
あたりが明るくなり、これが現実であることを否応もなくタイラに呑みこませるが。
「えええええ?」
いかんせん胸が受け付けない。
姿勢を低くして冷蔵庫の下をのぞいてみた。
下敷きとなった果実の影がいくつか見える。
何か
馬鹿な。
凝視する。
動かない。
そりゃそうでしょう。
気のせいだ。
が、地面と冷蔵庫の隙間が、息づくようにかすかに上下しているような……。
毛布が寝息をたてているような。
いないような。
いや実際に動いて、る?
どう?
え?
どうよ?
歩み寄ってもう一度冷蔵庫を傾かせる。
そうしてまた凝視する。
砂にまみれた毛布を。
そこに散らばった実を。
動いていない、―よな。
な。
な。
な。
指差し確認。
よしっ、動いてないっ。
タイラはアパートへと駆け戻った。