第十三章 平太 3

文字数 9,898文字

 平太

 
 駆け戻っていくれいの足音を背中に聞きながら、平太は環橋(ペデストリアンデッキ)の階段を下りている。
 その顔は足元を向いていたが、神経は遠ざかっていく軽やかな靴音を見据えていた。
 元妻か、あるいはあんちゃんに何か話しかけるれいの声が、ひょっとしたら聞こえるかもしれない。
 だとしたら、いったい何をどういうふうに報告するのか。
 れいはこの半日に何を感じたのか。
 この父をどう思っているのか。
 それらをうかがわせる言葉の断片だけでも、せめて聞くことができたなら。
 そんな、心ここにあらずだから、前方から駆け上がってくる女の存在に気づけるはずもなかった。
 また、女も何ごとか考えに(ふけ)っていたらしく、そのサファリハットの(つば)を目深にして、猛然と段飛ばしに(のぼ)っていた。
 案の定、階段のなかほどで双方は衝突。
 平太の分厚い巨体はこれに少しも動じなかったが、そんなウドの大木(たいぼく)に半身を打ちつけてしまった女の方はたまらない。
 華奢な体がトランプのようにもんどりうって弾け飛ぶ。
 それなのに、
「ごめんなさい」
 女はそう振り返りながらバランスを取り戻し、立ち止まることなく走り去った。
 涼やかな一陣の風として。
 安否を気遣うわずかな()すら平太に与えずに。
 大木はただただ彼女を見送るしか術がない。
 なぜか。
 振り返った女の、その(しわ)んだ(まぶた)が、濡れていたのである。
 眼はあかく腫れていた。
 鞭でもなく、
 針でもなく、
 ましてやトウキックでもなく、
 平太を抜き打ちにしたのはいわゆる女の武器であった。
 くわえて刺客が、か細く清楚な年配、という意外性もあいまっては、平太の凶暴なるS性などひとたまりもあるまい。
 まったくの不意討ちと言っていい。
 太刀筋(たちすじ)のあまりの鮮烈さに、斬られたことにしばらく気づけなかったほどである。
 男の凶暴はどす黒い(はら)となって夏の空に飛沫(しぶ)き、(まばゆ)いばかりの虹となる。
 あとにはすがすがしい一抹(いちまつ)寂寞(せきばく)が、消えかける線香花火のようにちりちりと。
 嗚呼、ちりちりと。
 幻の傷口を確かめ、顔をあげると陽炎の彼方にバス停が揺れていて。
 ベンチには見慣れた女の姿がぽつん。置いてきぼりにされた飼い犬のようにそこに座っていた。
 勝枝。
 ひとりか。
 平太は手にしたアイスキャンディのやり場を得て、にんまりとした。


 バスの車内はがら空きだった。
 最後部のシートには肥満で膝を悪くしたらしい、杖の女。
 一番前の席で小学生くらいの男の子が携帯ゲーム機に熱中しているきり。
 勝枝がセンターライン側の一人用シートに腰を下ろすと、平太はその背後に席を占めた。
 絶妙なタイミングで差し出された食後のスイーツに文字通り食いついた勝枝。その耳元に、平太は顔を寄せて声をひそめる。
「まったくどうしようもねえぞ、あのおっさん」と。
 勝枝の襟足(えりあし)にタトゥの一部がのぞいていた。若いころに堕ろした子の戒名だと正造に教えられたことがある。
 ヘッドホンをしている勝枝には、平太の声が聞こえ(にく)いらしく、
「あ?」
 して、それがゆえに声がでかい。
「おっさんだよ。ロン毛の」と平太。
 手配写真が出まわっている平太は、できるかぎり目立ちたくないわけで、よって声を荒げたくもなく、更に勝枝の耳に口を寄せる。
「あんなことになるんだったら俺が自分でやったほうが、よっぽどマシだった」
「おっさんって?」
「ゲンクロウとかいう、あんたが寄こしたアシ」
「ああ」
「ああって……。それになんだよカマイタチって」
「カマイタチ!」
 なにか思い出があるのだろう。そのカマイタチに勝枝はひどくウケる。
 が、かまわず平太は、
「こっちは娘といっしょなんだよ? めったに会えないの。わかってんの? 教育上よくないっしょ。ああいうのは。ぜったいに」
 勝枝は、今度は平太の教育上(、、、)とやらにウケる。ウケてみせる。横っ腹に手を当てて、
「キョーイクジョーて」
「聞けよ。聞けって。おい。ちっちゃい頃の事故とか事件つーのはな、胸ん中をちくぅっと引っ掻いて傷をつくるんだっていうぞ。それが何年もかけてぢくぢく()んで、ひろがって、気づいたときにはそれがもとで、こう、ヘンチクリンな大人に」
「たとえば、みょーちきりんなセックスしかできないような奴にか」と勝枝。
 耳が痛い。
 が、聞き流す。
「なっちまうんだってよ」
「どーだかね」と勝枝はアイスをしゃぶる。
「こないだNHKで言ってた」
「言うか、NHKが」
「言ってたんだよ。そういうの、なんとかウマって言うんだって」
「シカウマだ」
「え?」
「シカ・ウマ」
 馬鹿(、、)にされたのは、さすがに平太にもわかった。
 しかし話が()れるのを嫌った平太は甘んじてそれを見逃してやる。
 何より問題はゲンクロウのことなのだ。
「勝枝さんはあんなのがタイプだったのか」
 語気を強めた。
 ゲームの男の子がこちらを振り返る。マスクに地元球団のマスコットがプリントされてあった。
 平太はその視線を目力(めぢから)ひとつで追っ払う。
でも(、、)、おかげで尻尾(、、)は切れたんだろ?」と勝枝。
 そのでも(、、)(ぬし)は平太には知れないが、こちらのタイプ云々も飛躍した物言いだとわかっていたから、黙るしかない。
 勝枝はきっと話の飛躍をイーブンで返して遊んでいる。
「切れたんなら、いいじゃんか」
 じゃんか、ときたもんだ。
 何食わぬ顔でまたアイスキャンディをしゃぶる勝枝。
 次の停車地が案内(アナウンス)されて、平太は返す言葉をのんだ。
 カートを引いた老女が、炎天から逃れるように乗り込んでくる。運転手は彼女がシートに腰を落ち着けるのをミラーの中に待っている。
 勝枝は話題を変える。
「その後、華凛とはどう?」
 やはり声がでかい。
「どうって?」と平太。
「切れてはいるんだろ?」
 正直、よくわからない。
 華凛は唐突にこちらを避けだした。
 そしてそのまま現在に至っている。
 むしろ訊きたいのは平太の方だ。
「華凛は何か言ってんの?」
 バスが動き出す。
「あ?」と勝枝。
「かりんは、なんか、いってんのかよ?」―ばばあめ。
「さあね。のらりくらりだ」
「どんな感じに?」
「のらりくらりは、のらりくらりだよ」
 繰り返されて、なんだか得体の知れない化け物のような言葉に感じた。第一、華凛のイメージにまるでそぐわないではないか。あの淡白で颯々(さつさつ)とした華凛がのらり&くらりとは。
 なんだろか、のらりって。
 どんな感じがくらりなのか。
 その月とスッポンほどのギャップが平太の脳裏を、なにやら魔性的ないやらしさでもって撫で回しにかかる。
 のらりくらりと。
「んなことより、問題は今夜でしょうが」と勝枝。
 何がんなこと(、、、、)なのか飲み込めない平太に、ヘッドホンを片側だけ外して勝枝が切り出した。曲の切れ目らしい。
「あんたらが誰にくっつこうが離れようが、こっちは知ったこっちゃないの。あたしが訊きたいのは、ふたりが普段どおりに(そつ)なくコトを運ぶことができる関係かどうか。それだけっ」
 そう言って溶け始めたアイスキャンディの先を(かじ)りとると、眼鏡のなかから平太を睨んで鼻を膨らませた。
 荒ぶる鼻息が、冷たいバニラの匂いをさせている。
「え? どうなの? 今夜の仕事にさ」と勝枝。
「……」
 ここで吐き返すべき言葉があるはずだ。
 が、それが出てこない。
 平太は公私の分別くらいはわきまえているつもりではあった。
 確かに、SMクラブの送迎車のシートに噛み終えたガムをひっつけて帰るようなそんな残念な大人ではある。
 がその一方で、空になったペットボトルは裸にし、ゆすいで潰して回収ボックスにダンクするし、満員電車ではリュックを背負わずに前に持つといった、きわめて現代的な一面も持ち合わせており。
 まあ、猟奇的Sの泥棒風情に公私もへったくれもないはずなのだが、仕事に私情を持ち込むほど愚かでもないと自負はしている。
 なのでさんざん考えた挙句に、平太は勝ち誇ってこうのたまったのである。
「だって今夜は俺、別行動じゃん」
 つまり、華凛と接触はしないのだから安心せよと。
 裏を返せば、一緒に行動したらヤバイぞと、自分で認めたにも等しかった。
 勝枝は言葉を返さない。
 が、その分厚い面の皮には太々と、

 だから?

 そう書かれてある。
 こいつ何も考えてはおらん。でもまあいいか。どっちみちすでに面が割れて手配が回っているような男だ。時間の問題だ。華凛が仕切る今夜の仕事が済んだらそれきり手を切ろう。私は私の今を生きよう。目の前のアイスに専念しよう。そうしよう。
 平太にはそんな風に勝枝の胸のうちが読み取れた。
 引きつづき馬鹿にされていることに変わりはないが、その侮蔑(ぶべつ)をまるごと(はら)に収めて赦す。
 平太にとって赦すことに整然とした理路などは要らない。
 そこに生じるストレスをそっくり貯金できさえすればそれでいい。
 迷い込んだ蝿が一匹、窓ガラスに体当たりを繰り返していた。
「華凛がはじめて仕切るヤマだしな」と平太。
 私情は棚上げにしてあくまで客観的にコトを眺めるゆとりをもっている、というアピールがしたかった。
 だから意識して声を落ち着かせた。
 なにより自身に言い聞かせた。
 ところが勝枝にあっさりと、
「ほお」
 ひと言で返されて、不覚にも動揺してしまう。
 見るとまたしても勝枝の顔には『だから?』。
 ばかりか、それをわざわざ、

 SO WHAT?

 英語に変換してみせる念の入りようである。
 肩をすぼめる欧米人ぶったリアクションがまた、憎々しいったらない。
 なぜだろう。頭から華凛の姿を追い出そうとすればするほど、解像度が増し、生めかしくなってくるのは。そして、それを覚られまいとするほどに心臓が高鳴って、どぎまぎしてしまう。
 勝枝の嘲笑はそれを見透かしてのことだろう。平太はまるでフリチンを晒しているような錯覚に(おちい)り、会話の()に耐えがたい恥辱を感じて内心身悶(みもだ)えた。
 SもMも極めた男が、たかがオンナのことでこのありさまである。
 挙句、なにを言っても例の『だから?』が立ちはだかるのはわかっていながら、つい、
内偵(しらべ)はうまくいってんだろ?」
 言わずもがなの重ね塗りをやらかしてしまうのであった。
 勝枝はさすがに(あわ)れんで、そのなげやりのボールをキャッチしてやる。
「今日も敵さんのとこに潜り込んでるはずだよ。あの子、ああ見えて意外と心配性なんだわ」
 華凛が多治見商会のボンボンに取り入って内偵を進めているというのは、平太も聞いている。
 どういう伝手(つて)を使って接近したのか、はたまたどういう関係なのかまでは知らなかったが、所詮は男と女だ。想像に(かた)くない。
 それより、その己の想像がひり出してくる嫉妬心から逃れるほうが難しかった。
 一方、他人のそんな傷口を見ると、
「きっと今頃はボンボンとふたりきり、しっぽりと」
 わざわざ塩をすり込まずにはおられないのが、勝枝という女なのだ。
 しっぽりだなんて爺臭い言葉をそこであえて使ってのけるいやらしさを、アイスの棒を舐めまわす赤い舌の動きで補強する。
「仕込みにこれだけの時間を割いてるんだ、まあ、敵さんに情がうつってもしょうがないでしょう。それが今夜かぎりでサヨナラとなれば、名残惜しくなるのもまた、しょうがない」
「まあな。しょうがない」と平太。
「あの子もオンナだし」
「オンナだし」
 平太はノックアウトを食らったボクサーのように、ぼんやりと自分にそう言い聞かせる。
 のらり&くらりでしっぽりときては、想像力はタオルを投げるほかはないだろう。
 そして、自分の心をそこまで翻弄する華凛という女を心底から、鬱陶しく思った。
「ったく」
 なんだってこんなにも気になるのか。
 もはや愛だの恋だのといった段階ではなくなっているような気がしていた。
 そりゃそうだ。
 そもそもの出会いからしてファンタジーなのだから。
 配下に奴隷しかもたない女王の国など、あろうはずがない。
 なんせそこは黄金の国。ジパング。
 華凛は、平太が買い占めた架空の国をひとり占めする住人で、なおかつ主人公(ヒロイン)であった。
 相手がおとぎの国の女王ともなれば、そこでおこる一切は、夢のまた夢にほかならず。
 額を寄せ合って炬燵(こたつ)でコンビニのおでんを突っつきあうような、そんな身の丈サイズな色恋沙汰に収まるおそれは、なくて当然なのである。
 ゆえにSとMは分かたれて、保たれる。
 といった生悟(なまざと)りの心の(すき)に、結果として華凛がつけ込む形となった。
 快楽が意外性を好むのか、はたまた意外性が快楽を呼び寄せるのか。
 そのあるはずのないことが、起こってしまうのだから恋とは恐ろしい。
 うわの空に描かれた絵空事の女が、その額縁(フレーム)から飛び出して平太の日常へ飛び込んできてしまったのである。ぬけぬけと。
 黄金と聖水を惜しみなくふるまう赤べこの女王としてではなく、うんことしょんべんをするふつうの女として。
 そこだ。
 たかがうんこを黄金と称して(あが)めさせてきた錬金術師が、
「やっぱ、うんこはうんこでした」と。
 昨日の八宝菜(はっぽうさい)の成れの果てでござい、と。自ら術を解いてみせたのである。
 解かれるまでもないのだが。
 そこのところに一筋縄ではいかない関係のもつれがある。
 現実世界のあたりまえの男女として出会いなおす(、、、、、、)より先に、平太はすでにあられもない心の恥部を相手に知られていたわけで。
 なぶらせてもきていたわけで。
 しかも相手は平太が甘んじて(ゆる)し続けてきたおとぎの国の裸の女王―。
 赤べこ使いなわけで。
 これには現実(、、)の方が文字通り仰天(、、)して、実現(、、)とあいなってしまう事態に。
 だから華凛とはじめて現実世界で結ばれた夜は、―燃えた。
 それはもう、かたじけないくらいに、―燃えた。
 平太の奴隷としての戦歴からすれば、それはなんの変哲もないありきたりのたかが(、、、)セックスにすぎない。
 それが、まんまと撃沈である。
 おとぎの国と現実とのまぐわいは、平太のなかの凶暴なるS性とM性をも巻き込んで、泥仕合のバトルロイヤルと化したのであった。
 百戦錬磨のS性とM性が、快楽という泥湯に(ひた)り、組んずほぐれつしながらぬめりのなかに(とろ)けていく愉悦は、平太のなかに情けなくも物哀しい、それでいて吐き気をもよおすほどのおぞましい興奮を生んだ。
 その異様な興奮の正体は他でもない、SなるときもMなるときも他人(ひと)ごとのように自分を見つめていた内なる自分である。
 そいつが不意に泥湯のなかからぬっと顔を出したのだ。
 となればただごとではなく。
 ひとごとでもなく。
 それはもはや(けだもの)ごとである。
 獣はみるみるうちに頭角(とうかく)(あら)わにし、むくむくと怒張(どちょう)すると、内側から彼を執拗に犯したのである。
 やがて、華凛の白い腕のなかで、平太は天も割れよばかりに咆哮(ほうこう)し、あえなく果てた。―一匹の野獣として。
 恥も外聞もなく、泣いた。―ひとりの赤ん坊として。
 おそらくはその瞬間、華凛は勝利を確信しただろう。
 それまでは、判定による暫定王者という、いわば女王にあるまじきおこぼれの王位に過ぎない関係だ。
 それが王位(プライド)をかなぐり捨てて遠征した客の日常のなかで、とうとう勝利(KO)をおさめたのである。
 赤べこにも一本鞭にも頼らずに。
 それは完全な敵地(アウェー)戦で屈服させたことにも等しいのだから、自信も深まる。
 深めていい。
 ところが、当の平太の胸に敗北感は微塵も湧いていなかった。
 ありきたりの日常のなかで凶暴なる獣と化してもなお、最後まで相手を赦しきれたことに、平太は充実した達成感(エクスタシー)を獲得していたのである。
「殺せるが、赦す」
 己の残虐性から、オンナを守りきったという安堵感。
 赦してやったという優越感。
 満足感。
 開放感。
 とんちんかん。

 ピンポーン!

 と鳴って、『降ります』のランプが(とも)った。
「ほれ。イッツァ・スモール・プレゼント」と勝枝は平太に何かを握らせ、「じゃ、今夜ね。遅れんなよ」と席をたつ。
 平太は気圧(けお)されて「あ、ああ」と(うなず)いた。
「来るんだろ?」と勝枝。
「ああ」
 思索から現実へと急激に引き戻されての、時差ボケだ。
 勝枝は出口へと向かいながら背中で言う。
「注射は受けときなよ」
 木病のか。
「受けたよ」
「ワクチン足りなくなるっていうから」
「受けたっつうの」
「あんたふつうの倍の体なんだから、まとめて二三本は打ってもらわないと」
「っせえな」
 しかし勝枝はそれにかまわず、
「さあて帰ろ帰ろ。指名手配と一緒にいると、こっちまで巻きぞいだからさ」と舌を出してバスを降りた。
 握らされた手を開く。
 アイスの棒。
 当たりの焼印が唾液に濡れて光っている。
 ばっちい。
 振り払うと同時にバスが走り出した。
 ここは今、どのあたりか。
 勝枝が降りたのだから、アジトに一番近いバス停なのか。
 確かめるべく景色を覗きながら、平太は叫んでしまう。
「ちょっとストップ。俺も降りるって」
 るって、と言われたところで知ったことではないが、その大声に応じて運転手はブレーキを踏んだ。
 そのタイミングと、あわてた平太が出口へと足を踏み出したのとがぴたり合ってしまう。
 ために平太はつんのめり、座席に挟まれた通路をどたどたと走らされ、突き当りの両替機に頭をぶちあててのびてしまった。
 どこか遠くのほうで安否を確かめる声。
 運転手だろうか。
 朦朧(もうろう)として顔をあげる。―と、

 プシュウ

 乗り口の扉が開く。
 外の光が満ちて、辺りを白く濁らせる。
 (まぶ)しい。
 扉の外は、曇天の街。
 街路樹は葉を落とし、人々はコートの背を丸め、白い息を大気に溶かしながら行き交っている。
「待てこらっ」
 誰かが叫んだ。
「待てっ、おらっ、そこの女っ」
 乗り口の外を何者かが()ぎる。
 縦長の光のキャンバスに、俊敏な(けもの)の残像。
 追われているのは、どうやらそいつだ。
 つづけて追っ手と思われる影が次々と横切っていく。
 平太はなにやら胸騒ぎがして、彼らを追った。
 外気はいまにも小雪がちらつきそうなほど、冷たく重く。
 残像の主は女だ。
 蹴りぬいた踵がきちんと尻をかすめて踏み出されていく、後ろから見ても惚れ惚れするようなランニング・フォーム。
 (あし)に覚えあり、とみた。
 追う側と、追われる側。
 その時点ではどちらが悪いのか定かではなかったが、痛快な走りをしているのはあきらかに先を行く女の方だ。好奇心につける大義なんぞは、それだけあれば充分だろう。
 彼女を追っていた男たちが、通りかかった自転車の警官に応援を要請する。
 女はそれを尻目に道を折れ、追っ手の視界から去った。
 平太は、先回りしようと適当な路地へと駆け込む。
 その辺りは勝手知ったる庭のようなもの。
 見当つけて抜けていくと、思ったとおり、息を整えながら切り通しの坂をのぼって行く女の背中が見えた。
 目深に被ったキャップにキャラメル色のショートヘア。
 つけていくと、大通りをまたぐ歩道橋のたもとで、別のミニスカートの女が彼女を待っていた。
 階段に腰をおろし、肩で息をしている。
 察するにこの女も今しがた何かしでかしてきたのに違いない。
 そして、すぐにわかったのだ。
 それが行きつけのSMクラブ『田嶋』の女王、華凛であると。
 なんという偶然。
 この女が突如として店を去ったせいで、平太は飼い主をなくした小犬よろしく途方にくれていたのである。
 先方もこちらに気がついて、瞬間、微かにうろたえたようだ。
 ()の自分から、職業女王へもどるべきかを逡巡している。
 あるいはまったくの別人としてやり過ごすか。内心でたたらを踏みながら平太の出方を待っているようだった。
 それは平太とて同じこと。
 従順で腰の低いプレイ中のテンションにギア・ダウンすべきかどうかを、迷う。
 が、その()に耐えきれなくなったのは華凛の方が先で。
「こんちはッス」
 先制のジャブをかます。
 それも鉄壁の微笑みで。
 女王の語尾に「ス」はないだろう。これで自然とこちらの姿勢が決定されるというものだ。
 華凛の視線を追って対峙していたキャラメル色のが振り返り、そこに平太を認めた。
 その視線を意識しながら、平太はことさらぞんざいに返してみせる。
「うッス」
 奴隷の辞書にもそんな言葉はない。
 がキャラメルは、そのやりとりから平太を華凛の知り合いと見てとった。切れ長の一重で一瞥(いちべつ)しただけで、表情も変えずにまた背を向ける。
 それがヨシだ。
 ヨシは手にしていた紙の小箱を華凛にあずけると、言葉を交わさずに走り去った。
 華凛はといえばそれきり何も言わず、ただ腹に一物(いちもつ)ありげな笑みを浮かべながら階段をのぼり始める。
 その(あや)しさに誘われて平太はあとに続く。
 目の前にあるのはこれまで再三再四拝んできたのと同じ脚であったが、スカートとなるとこうも印象が違うのか、と息を呑むおもいがした。
 歩道橋の上に、ひと気はない。
 交通量もそれほどではないから、歩行者はみな車道を渡ってしまうのだろう。
 そこに華凛はおもむろに寝転がり、空と対峙する。
 その視界を、見下ろした平太のガタイが覆う。
 平太の姿が、華凛の瞳に映っていた。
 が背負っているのは冬の曇天ではない。紛れもない、夏の空―。
 華凛は仰向けのまま身をくねらせて器用に着替えを始める。
 ブーツを脱ぎ、スポーツバッグから出したジーンズに太腿も露わに脚を通した。
 それからハーフコートを、次にスカートを脱ぎにかかる。
 脱ぐほどに、動くほどに浮かび上がってくるその肢体。

 のらり、くらりと。

 あ。
 そうか。
 この言葉はそんな使い方はしない。
 けれど、勝枝がくり返した「のらりくらり」のくねくねした語感に、このときの華凛の動きが直結して、出会いなおしたときの記憶のなかに平太はこうして引きずり込まれているのだ。
 華凛はこのとき、自分の肢体を愛でている平太から決して目を逸らさなかった。
 これには平太のほうが面食らってしまい、やむなく見張り番よろしく眼下を望んでみせることに。
 丁度、自転車の警官が下を過ぎていくところで、
 なるほど、ここは下を通る歩行者にとっては死角なのだなと感心したりした。
 最後に迷彩のジャンパーに袖を通した華凛は、巻き上げていた長い黒髪を解きながら立ち上がる。まるで鬼ごっこに夢中になっている童女のような目をして。
 メイクの違いもあるだろう。がそれはプレイルームでは決して見せることのなかったあどけない表情だった。
 脱いだ衣服とヨシから受け取った小箱をスポーツバッグに突っ込むと、華凛は辺りを見渡して、遠ざかる警官の背中を確かめた。
 それからゆっくりと、もと来た階段をおりていく。
 例の笑みを絶やさずに。
 そのことに何か意味があるようにも思えたが、実のところは何もない、照れ隠しの、いじらしい、なけなしの虚勢だろうと平太は見ている。
 お互いさまなのだ。きっと。
 平太もなんと声をかけたらよいのか、決めかねていた。
 第一、 源氏名の『華凛女王さま』で呼んでいいものかどうか。
 だめだろう。
 いくらなんでも。
 こうして、歩道で腕時計を見つめている華凛と、その背後にのっそりと突っ立っている平太とのあいだには、気まずいような。あるいは、いっそのことぶっちゃけて一方が大笑いすれば、相手もつられてそれで打ち解けてしまえるような。
 しまえないような。
 読むに読めない妙ちきりんな空気が、横たわったのである。
 平太はなんだかばつが悪くなり、意味もなくにやけてしまう。
 にやけつつこの男は、このままでは風俗嬢につきまとう不気味なストーカーと変わらんぞと、焦りはじめてもいた。
 まもなく単車が一台、華凛の鼻先をかすめて停まる。
「二分遅い」
 華凛はそう言い、スーツに革ジャンのライダーを小突いてタンデムをまたぐ。
 お仲間さんか。
 そう思って平太は軽く会釈を試みたが、ライダーの表情は風防(シールド)の闇の中。取りつく島を失った平太の視線は泳ぎ、漂流(ただよ)って、突き出された華凛のヒップラインへと流れ着く。
 その奔放な曲線。さながら、


 つ


 の(ごと)し。これにてサヨナラなのかと名残惜しみ、ここぞとばかりに凝視した。
 さらば、()
 そんな視線は捨て置いて、華凛はライダーの革ジャンをうしろからまさぐっている。うろたえるライダーをよそにやがてポケットからケータイを見つけると、それを平太にパスした。
そして「華凛、でいいッスよ」と笑う。
 女の黒髪をなびかせて、単車が去っていく。
 運転手の肩をかりてバスのステップを降りる。
 木漏れ日のモザイクのなかに立ち、沸き立つ蝉の声を浴びる。
 ポシェットの中でゆうくんが鳴いている。
 ぶつけた頭よりも、虫を食った奥歯よりも、なにかがたまらなく痛かった。
 そして、振り仰いだ上の空に、柄にもなく平太はその女の名をつぶやくのであった。
―華凛、と。





ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み