第十一章 平太 1
文字数 10,208文字
平太
どうやら的中してしまった。
嫌な予感はしていたのである。
なんの変哲もないありふれた一日であるはずが、出だしからどうもしっくりいかない。
たしかに夜には久方ぶりの仕事が控 えてはいた。
加えて、別れた妻と月に一度と取り決めした、娘と会える日でもあった。
ところが、せっかくのその一日が盆休みの真っ只中で、
どこへ行っても休業か大混雑といった両極端でしかなく、
とてもじゃないが父娘 水入らずのひとときを愉しめそうにはないと気づいたのは、娘を乗せて車を出してからというお粗末ぶりである。
カレンダーという名の、世間さまの足並みには無縁の生き方をしているからとはいえ、まずそこからしていけなかった。
何より、長年ほったらかしにしておいた左上の親不知 が、この日に限って痛み出している。
カールを食うたびにしこたま食いカスを溜め込んでしまう、あの奥の側面である。
そこが密かに虫食いに見舞われているのは、随分とまえから自覚してはいた。
舌先でなぞるとざらりとして、いつかこれはどかんと来るな、と予感してもいた。
とはいえ、健康の問題ばかりは、苦痛が訪れるまでは現実と向き合おうとはしないのが人の性 であろう。
再石灰化を謳 い文句にする歯磨きを、神頼みよろしく使い続けていればきっと善くなると。
いや、ひょっとしたらもう治ったんじゃないだろうか。
完治させたぞ、俺は。
そう決め付けて久しいがゆえに、この日に限って痛み出したことに何かしらの意味を見出そうとしたりした。
有体 に言ってしまえば、八つ当たり。
それだ。
ただでさえこの男、叩けば埃だらけの半生であり。またそれを自覚してもいるものだから、自然、警戒心は諸神経を異様に尖 らせることになる。
きっと何かしらまずいことが起こる。
そうして苛々 と車を走らせているうちに、気づくのだった。
尾行に。
くり返すが、世間は盆休み。
都心とはいえ普段に比べるまでもなく交通量が少ない。
行く当てもなくだらだらと環状線を走らせていれば、追い越しもせずにじっと後方に尾行 ける車種が、その変化の無さが、否も応もなく記憶に染み付いてしまうわけで。
のろのろやっている平太の車を追い越さず、ぴたりと付いて離れないなんて、怪しさ満点ではないか。
案の定、丸見えとあってはさすがに相手もやりにくいとみえ、平太の見る限りもう一台、もしくは二台の応援があるようだった。
頃合いをみて平太を追い越しては、他の車と入れ替わっているのだろう。
一度、試しに路肩に寄せて停めてもみた。
はたしてその追い抜き方もねっとりとして、すけべったらしいったらない。
はてさてどうしたものか。
街道の信号で停車して、平太はいま考えをめぐらしている。
が、それはあくまでつもり であって、実際は歯の痛みに思考力を奪われるがまま、いたずらにストレスを募 らせているばかりであった。
ルームミラーのなかにはちょこんと愛娘。
後部座席で暇をもてあましている。
なんでも、無断で猫を飼っていることをマンションの管理人に知られてしまったとのことで。
このたびの娘は、その猫を平太にあずける役目も担 わされてもいるのであった。
それはマンチカンとかいう短足の品種。まだ子猫だ。
なるほど娘のポシェットから首だけのぞかせているところを見ると、幼い子供がその手の中で愛玩するには格好の動物のようには思えた。
しかし、当の娘はどういうわけかうわの空で。
時折思い出したように指先でその猫の額を撫でてやりはするものの、暇をもてあますことに専念しているようである。
平太はコンタクトを試みる。
「れいちゃん、アイスクリームでも食おうか」
そんな子供だましのご機嫌取りでは、子供すら騙せやしない。
だいいち、アイスクリームでも とは、なんという言い草だろう。
大人のそんなやっつけ な態度を子どもは確実に見抜く。
そうでなくても、先ほどからミラーを使って後方を警戒している父の目つきを見ているのだ。
さながらゴルゴ。
贔屓目 に見ても娘にスイーツを薦 めるまなざしではないのは確かであった。
そんなニヒルなアイスクリームなんか、甘いものか。
れいは父の問いかけにはこたえず、ひきつづき暇に没頭した。
夢想のなかに還って行く娘をミラーのなかに見届けながら、平太はまた舌先で親不知を撫でた。
言うまでもなく歯医者は休み。
薬局もまた然 り。
ひと月ぶりの娘は、このとおり塞 ぎ込んで、おまけに朝っぱらから私服に尾行されて身動きもとれやしない……。
何なんだ。今日という日。
いっそのこと尾行など振り切ってしまおう、とも思う。
できないことではない。
しかし、こうまで露骨な尾行をしながら、少しも捕まえようという素振りを見せないのはいったいぜんたいどういう料簡 か。
挑発か。
こちらが焦 れて動いたところを別件でしょっ引 こうとでもいうのだろうか。
あるいは、あれはあれで彼らにとってはまっとうな隠密 行動のつもりであって、健気にアジトまで突き止めて一味の一網打尽を企んでいるとでもいうのだろうか。
いずれにせよ厄介ごとを背負い込んでしまったことには違いないようで、そのむしゃくしゃがとてつもなかった。
そうしてあてこするように睨 みつけた前方。
中央分離帯をはさんだ対向車線を単車が一台すっ飛ばしてくるのが目に飛び込むのだ。
ネクタイを風に弄 らせたスーツ姿のライダー。
なんという偶然。
一味のアシを務めるサエキではないか。
ならばタンデムにいるのは華凛だろうと、仲間なら誰しもがそう思う。
が、さにあらず。
すれ違いに見えたそのずんぐりとした体型に覚えがある。
あれはそう、花村のとこの長男、昭 。通称カピバラだ。
サイドミラーをよぎったその背中には、ガムテープによると思しき捩 れたレの字が。
いったい何ごとか。
何ゆえにサエキがカピバラのアシをやっている。
平太はここぞとばかりに訝 って、歯の痛みをそれへと逸 らしにかかった。
がその神経は、サエキのバイクを追って近づいてくるまことにもって長閑 でトンチキな改造原チャリのエンジン音に、がさつに逆撫 でられてしまうのである。
―五月蠅 い。
なるほど、さながらいきがった蝿のごとし。
酒焼けした胸をはだけ、赤いアロハを火の手のように躍らせて。アクセル全開で突っ走ってくる痩せぎすのじじい。
ほかでもない、正造である。
「このくそ暑いのに、ご苦労なこった」
音のわりにはちっとも進まないそのポンコツの騒音に、思わず娘が両手で耳を塞ぐ。
仕事柄、サエキは対象を尾行 て調べるのをお手のものにしている。
しかし、まさか自分が尾行られるだなんて事態は、想定もしていないのに違いない。
後方の正造にはまったく気が付いていないのではないのか。
ならばサエキも相当な厄介ごとを背負い込んでしまったらしい。
平太は本日何度目かの舌打ちをする。
れいが、その音に反応して眉間に皺を寄せた。
どこか遠くにあったはずの歯車が、妙なきっかけでこちらに作用し始めてしまったような、そんな嫌な感じがした。
この貴重な一日を、あんな疫病神 にぶち壊されてはたまらない。さわらぬ神に祟 りなし。平太は黙殺を決め込むことにする。
信号が変わる。
されど、やっぱり行く当てなどはなく。
あてなどなくとも青なら進め、で平太は不承不承に車を出す。
こういうときはあれだ。もう、海。
海こそは、あてなどなくとも行って良い場所の代表なのではないのか。
目をつぶっていようが、まっすぐに歩き続ければいつかは海に突き当たる。どん詰まりの気分は、そうやってもらさず海が受け止めてくれる。この国はそういう仕組みになっている。
「れいちゃん。海に行こっか」と車線を変える。
海へ行く。
なんだか照れくさいほどに前向きではないか。
山ならば、そこに頂上という具体的目標が用意されてある。聞こえはいいが、それはたかだか限界という意味にほかならない。
川ならば、とめどもなく傍観者でいるばかりで、ともすれば石でも蹴って黄昏 れてしまうことだろう。
そこへいくと海は違う。
違うのだ。
水平線の向こう側に無限のキャンバスを押し拡げ、そこにありったけの希望を思い描く。いわば巨大なアトリエといえまいか。
古来、良きにつけ悪 しきにつけ、新しいものはつねに海の向こうからやってきたわけであり。
チョコもロックも葡萄酒も、
釈迦もサンタも原爆も、
みいんな海の向こうからであった。
それがゆえに人は海の向こうに希望を思い描いてきたのではなかったか。
してその希 った望 みはできるだけ漠然として、抽象的であるほどよいだろう。
海の向こうに描き殴った抽象画などに責任を問われることなどありはしないのだから。
描き逃げオーケー。
そのオーケーの、底知れない度量の深さが、きっと歯の痛みから晴れ晴れと解放してくれる、
はず、
だろ?
少なくとも樹海 へ行く、よりは前向きではあるまいか。
平太は意識的にはしゃごうとしていた。
そうすることで歯の痛みから意識を逃がしたかった。
が、待てよ。
お盆は夏の折り返し地点。
誰もがいやでも夏の残量を意識する日。
そして、残り物は「もったいない」とばかりに焦った有象無象が浜辺を、それはもうごっちゃりと埋め尽くしているだろうことは想像に難くない。
彼らは「お盆をすぎたら海に入るな」という古い言葉を死 語にした、言葉の殺し屋たちだ。
ぞっとする。
駄目だ駄目だ。
それでなくとも、人ごみほどこの平太の嫌うものはないのだから。
食事も徹底してすいている店にしか行かないくらいで。
自然、まずい店にばかり通う。
まずい店しか知らない。
「れいちゃん。やっぱ海はやめよう。ぜったい混んでるよ」
れいは端 から当てにしていない。
水着すら持ってきていないというのに、何が「海」か。
その当てにされてなさを、平太はミラーのなかに思い知る。
何やってんだか、俺。
自分でふって、自分で反古 にして。
噺家 かと。
時計をみる。
まもなく正午。
父と二人きりで休日を過ごす。
そんなどこにでもありふれているはずの日常を、娘にとってもありふれたものにせねばならぬ。
平太はミラーのなかの後続車を睨 んだ。
まったくもってご苦労なことで、考えてみれば、連中はお盆休み返上でやっているわけだ。
「ちっとはサボれよ、公僕が」
まずはこの尻尾を切り離さなくては何もできやしない。
そりゃあ自分一人だけならなんとかなる。
これでも荒っぽいことにかけてはひと通りやってきたという自負がある。
問題は娘 がいるということ。常日頃から父親がいかに悪人であるかをママに懇々と刷り込まれているであろう娘が、である。
月に一度のデートは、そんなれいをリセットする貴重なメンテナンス日でもあるわけで。
荒くれた姿なんか見せられっこない。
いかにいいパパか。
それが本日のテーマだ。
塞 ぎこんだれいの顔に、ぱっと咲いた花のような笑顔を取り戻さなくては、パパ失格なのである。
そのためには、助けがいる。
と、ついに平太はすがる思いで勝枝に連絡をとるのであった。
ゲンクロウ
そのアシは、そう名乗っているのだそうな。
源九郎、とでも書くのか。
ケータイで事情を聞いた勝枝が差し伸べてくれた助っ人。
件 のSMクラブ時代からの知り合いだという。
勝枝とは古い仲らしく腕はいいというのだが。
先方が指定してきたのは一時間後である。
住宅街の真っ只中、―小学校。
その正門前。
平太は法定速度を遵守しつつ、公僕の尻尾を引き連れて、ほぼ指定の刻限にそこへとたどり着いている。
エンジンを止める。
と、それきりしんとして人気 がない。
固く閉じられた門扉 のむこうで、校庭は風もなくただ白けているばかり。
後方の曲がり角あたりに、息をひそめた尻尾の影。
こんな状況でいったいどう巻くというのか、ゲンクロウとやらは。
まもなくドアミラーの彼方に自転車の老人が現れた。
ギィイー、クィギー、
ギィイー、クィギー、
いまどき珍しい油の切れたポンコツ自転車。
パッチにサンダル、麦藁帽。
ランニングにガニ股こぎ。
これで荷台 にアイスボックスと『アイスクリン』の幟 でも立てていたなら、それで充分に昭和の風物詩である。
老人は後方に停車した公僕の車を抜き、まっすぐに平太の方へと向かってくる。
あいつがゲンクロウ。
はたしてあんなんで、大丈夫なのか。運転。
自転車ですらあぶなっかしいではないか。
老人は麦藁帽の鍔 の奥から、白く豊かな眉を寄せて前方 を見つめている。
歩道のなかを通って近づいてくる。
ランニングの胸元に大きく広がった汗のシミ。
灼 けた頬は汗に光って。
老人はペダルを軋 ませながら、尚も接近していた。
平太は助手席の窓を下げた。そしていかにも気さくそうな笑みをたたえて老人の接触を待った。
ギィイー、クィギー、
ギィイー、クィギー、
ところがだ、老人はその助手席の窓をかすめて通り過ぎて行ってしまうではないか。何度もこちらを振り返りながら、よろよろと。
違うのかよ。
と思う間 もない。
その開けた助手席の窓から白い手袋をつけた棒きれのような、そう、昆虫のような痩せ細った腕が入り込んできて、ドアのロックを解除するではないか。ドアはそれと同時に開かれて、身をかがめて飛び込んできた長髪の痩せ男。曰く、
「四分遅い」
平太の方も見ずに立体マスクのなかでそうのたまったものである。
こいつがゲンクロウ?
茶髪まじりのストレートヘアは腰にまで届いており、ちょっと見た感じは、ひと昔前のヘビメタのあんちゃん。おろしたての立体マスクで顔のほとんどを隠してはいるが、瞼と目じりに刻まれた深々とした皺が、
ジャパメタや
兵 どもの夢のあと
メタル嫌いの平太にはそう詠 っているように見えた。
なるほど、尻尾からは見えないようにと、死角からこの車へ飛び込んだというわけなのだ。
ゲンクロウは座席に腰を落ち着けるや「それで?」
会ってふた言目に『それで?』もないものだが。
「どうしてほしいんだっけ?」
華奢 な体に似合わず声が太い。なおかつハスキーである。
「どうって、そのぉ」
実のところ平太はまだ面食らっている。しかし動転しつつも「アレを」と親指 で後方の公僕を差し示し「巻いて」と。
ゲンクロウはその口ぶりを真似て「巻いて、ってか」と返した。
間 が空いた。
ゲンクロウはその伸びきった間に焦れて、またも「で?」
平太は畳み掛けてくるそのせっかちぶりに泡食って「で、って?」
「次は?」
「いやそれだけっす」
「それだけ?」
「はい」
「だけなの?」
「はい」
「ほんとに?」
「はい」
「うそぉん」
ゲンクロウは眉間 を押さえて「なめられたもんだわぁ」と項垂 れた。「勝枝ちゃんてば、どうかしちゃったんでしょーか」
平太には答えようがない。
「これじゃ老いぼれ扱いじゃないですか。ジミー・ペイジじゃないですか」
んなこと問われても。
「話のわかるいい女だったんです。かつては」
知らん知らん。
「わかったわかった。はいはい、わかりましたよ。やればいいんでございましょ? あれを巻けばいいんでございましょ?」
ゲンクロウは革のウエストバッグから抹茶ののど飴を取り出すと、マスクの隙間から口の中へと放り込んだ。
歯に当たって口の中でからころと鳴る。
それからぽんとひとつ手を打つと、
「さっ。チェンジ、チェンジ」
ゲンクロウは運転席へ、平太は助手席へと体をスライドさせて場所を入れ替えた。
そのすれ違いざまに、ゲンクロウは自分の上をすぎていく平太の尻をぴたぴたと叩き「おにいさん、痩せたんじゃないの?」とからかう。
むっとして平太は助手席に腰を落ち着けながらゲンクロウを睨む。
が、ゲンクロウは目をあわせぬまま「おひさしぶり」とマスクのなかから微笑した。
聞けば、件のSMクラブ『田嶋』で客の送迎をやっていたという。
なるほど、言われてみればこんな男だったような気もしてきたが、往路はこれから始まるプレイに備えての瞑想 によって、復路はその余韻に浸るひとり反省会とによって、頭の中はすっかり茹 で上がっており、正直、送迎の運転手の顔などは眼中になかった。
それが変態の常態というものではあるまいか。
「駄目だよぉ。毎度毎度、シートの背もたれにガム貼り付けてっちゃ」
記憶にない。
だが、そんな幼稚なまねをする客は自分以外にはないだろう、とは思う。
記憶を手繰 る平太をよそに、ゲンクロウはフロントガラスを飾っているキーホルダー類を、有無も言わさず毟 り取っていく。
「はい、こういうジャラジャラしたものを視界につけなーい。目障りだわ。邪魔。不快。不潔う」
シートの位置を調節し、ルームミラーの角度を変えたとき、ゲンクロウはようやく、後部座席で黙りこくっている幼女に気が付いた。
「あら。娘さん?」
「え? まあ」
「まあ だって。自分の子供をまあ 扱いしなさんなって、言ってやれお嬢ちゃん。パパのばーかって。パパのへんた~いって。どえむ~って」
ゲンクロウは指先を噛んで手袋を外すと、ウエストバッグからキャンディをつかみ取りにして娘に差し出した。
銀の頭蓋骨 とタランチュラの指輪。ピンクの水玉をあしらったカーマイン・レッドのネイルに、色とりどりの包み紙のキャンディがこぼれんばかりに握られている。
手が、お菓子の家になっていた。
「ほれ。いただいてしまうがよい」とゲンクロウ。
れいは微 かに眉を開いて手を伸ばしかけたが、はにかみ、平太の顔をうかがう。
「ほーれほれ」
娘の前でドM呼ばわりしてのけたこの初対面の男を、平太はしばし見据えた。
れいはその隙にチュッパチャプスのグリーンアップルを選んで、ポシェットのポケットに仕舞う。
お楽しみは後で、ということか。
「ほほお。やりよるの。心得ありとみた」
ひとりごちて、ゲンクロウは手袋をつけなおし、エンジンをスタートさせた。
「なんですか。やっぱオートマでございますか昨今は。寂しいねえ。なんかこう、足寂しいったらないねえ」言いつつ、CDラックとプレーヤーをみつけると「ここはひとつ、テーマ曲などほしいところなのだがあ」
選び出したのはナット・キング・コール。名曲スターダスト。この日本の真夏の昼下がりに、満天の星空を歌う直球のスタンダード・ジャズとは。
ゲンクロウは選曲すると、一時停止 でその伝説的な歌手にスタンバイをさせた。
「おにいさん。これから始まることをよおっく目に焼き付けてといて。んで、それを勝枝ちゃん報告しといてよ。このカマイタチのゲンクロウの腕は少しも鈍っちゃいないって。僕はジミー・ペイジなんかじゃないって」
カマイタチ?
ゲンクロウはミラーの彼方にのぞいている公僕の車を一瞥 するや「Shall we dance?」と、ウインクした。
いや、しようとして両目ともつぶってしまった。
できないことなどするものではないが、それについては少しも臆することなく、ようやっと停止ボタンを解除する。
フルボリュームで解き放たれたのは、この世のすべての女の腰をとろんとろんに溶かしにかかる、贅沢至極のシルキー・ボイス。
ゲンクロウ、そろりと車を出す。
街道に向けてハンドルを切る。
遅れて尻尾も動き出す。
ゲンクロウは明らかに彼ら公僕を誘っているようであった。
すぐに道は街道に接続する。
四トンダンプが一台、信号待ちをしている。ゲンクロウはそのケツにつけた。
そしてミラーの中の尻尾をうかがいながら平太の娘に「ちっちゃなお団子さんになっててね」と運転席の後ろのステップを指差した。
れいは座席からするりと降りて、ポシェットを抱いてそこで丸くなる。
初対面の男に対する娘の従順さに平太が嫉妬する暇は無い。
曲の導入部 が終わるのと、尻尾が背後に停車するのとはまったくの同時。
まるでゲンクロウがそう仕組んだかのよう。
一瞬のブレイクをおいてナット・キング・コールが甘く高らかに主題を唄いだすとき、それを切っ掛けにしていたのだろう、ゲンクロウは急発進でタイヤを焦がし、対向車線へと飛び出したのである。
信号は依然、赤。
四トンの傍らをすりぬけて交差点へと突っ込んでいく。
こちらの道が気持ち上 り勾配 だったせいで、やや車体を浮かせて大通りへと飛び出した。
瞬間、CDケースが、
ダッシュボードの小銭が、
ドリンクホルダーのコーンポタージュの空き缶が、
重力を奪われて、浮く。
車体をバウンドさせながら交差点を突っ切り、舗装の粗い旧街道へと滑りこんだ。
後方からサイレンが叫ぶ。
さすがにこうまで露骨な違反を見せ付けられては見逃すわけにいかなくなったのだろう。
連中、パトランプを載せて追ってきた。
なにやらスピーカーで怒鳴り散らしているが、音が割れて意味までは聞きとれない。
グローブボックスに額を打ち付けた平太は怒りのあまり吠えかけたが、ゲンクロウはそれを指ひとつで「しぃぃぃぃ」と制すると、次いでその手を耳にあてがって《曲をよく聴け》とジェスチャー。
どうやらマスクのなかは笑っている。
この状況を愉しんでいるのだ、この男。
笑 んで皺の寄ったゲンクロウの目尻に、平太は言葉を失うしかなかった。
こうなってしまったからには、もうゲンクロウにゆだねるほかない。
というよりも、こうまでされてしまった以上、責任をとってもらわんことには、気が済まない。
車は旧街道から折れ、一本道がつらぬく小さな商店街を抜けると、一方通行 の入り組む住宅街へと進入。
より細い道へ、細い道へとゲンクロウは選んでいく。
どうやら車幅と車長の格差を活かすつもりらしい。
ちなみに車は平太たちが軽のワンボックスであるのに対し、尻尾は御大 セドリックだ。
現にこの尻尾が道を曲がるたびに次第にハンドルを切り返すようになってきている。
ところが、である。
奇妙なのはゲンクロウの走り。
敵が切り返しているうちに逃げおおせてしまえばよいものを、速度を落とし、どこか待っているような素振りを見せるのだから。
さながら、鬼さんこちらといった風情で。
やがて、普通車には車幅ぎりぎりといっていい、そんな隘路 に入り込むと、ゲンクロウは路地を左へと折れた。
つづく尻尾もどうにかそこをすり抜けようとする。
シルバーの軽ワンボックスのケツが視界から去り、スターダストの調べが彼方へとフェイドアウトしていくのが、彼ら公僕を焦らせたに違いない。
ゲンクロウを追って左に折れるには、セドリックの車長では一旦切り返さねばならず、必然的にその長々としたボンネットを窮屈な十字路へと突き出さなくてはならない。
ゲンクロウの待っていたのはその瞬間である。
去ったと見せかけて、すぐそこで息を潜めていたのである。
オーディオのヴォリュームを絞りきり、ルームミラーの中にセドリックが鼻っ面を出すのを老練なマタギのごとく待ち構えていたのである。
はたして連中がブロック塀の陰から車の鼻を突き出したそのときだ。急発進のタイヤのいななきとともに、スターダストが怒涛 のフェイドインで、それもどやしつけるような音量で肉迫してきたのは。
要するに、軽はセドリックに一撃必殺のヒップアタックを見舞った、というわけ。
左側面を潰されたセドリックは、はずみでべっちゃりと右肩を電柱に押し付け、しゅんとなってしまった。
ドアが両サイドとも死んだ。
その衝撃に呆然としている男の影がふたつ。ガラスの散乱した車内に凍り付いている。
シルキー・ボイスが、切れ切れに跳ね回っている。
「あーら、ごめんあそばせ」
ゲンクロウはひとりごち、これ見よがしにゆったりと再発進させて走り去る。
悠々としたものである。
一方の尻尾はというと、この一撃でエンジンを眠らされてしまったようで。運転席の刑事は無線を手に取り、助手席の相棒は脱出口を確保しようと割れた窓を砕き始めた。
が、それもつかの間だ。
あろうことか細切れのスターダストが再び急速フェイドインをしてこようとは誰が予測できよう。
この時、刑事たちは迫りくる軽ワンボックスのリアウィンドウに、笑う女児の顔を認めている。
それは花のように、見事に咲いた笑顔だった。
二撃目は直前でふわりと減速し、キスをするようにチュッと触れてとまる。
軽のケツにキスをさせたままゲンクロウはギアをパーキングに入れると「この二発目は、勝枝ちゃんとの想い出に」
勝枝ちゃんによろしくとひとり車を降りると、ゲンクロウは去っていく。
なにがカマイタチか。
あきれ返ってものも言えない。
こんな取り返しのつかない事態にされるくらいなら、はじめから自分でなんとかしていた。そう思ったところであとの祭りだ。
「おらあっ! 車どけろやっ!」
車内に閉じ込められた刑事たちが騒いでいる。
平太はれいを伴って車を降りた。
見上げるとそこにBondaged Sky。電線に緊縛された空が、青く、遥かに。
縛られているのは、あるいはこちらのほうなのか。
親不知を舌先でねぶる。
どうせ盗難車だ。
れいがすっかりご機嫌さんで、スキップでついてくる。
それは父にとって初めてみる、娘のスキップであった。
どうやら的中してしまった。
嫌な予感はしていたのである。
なんの変哲もないありふれた一日であるはずが、出だしからどうもしっくりいかない。
たしかに夜には久方ぶりの仕事が
加えて、別れた妻と月に一度と取り決めした、娘と会える日でもあった。
ところが、せっかくのその一日が盆休みの真っ只中で、
どこへ行っても休業か大混雑といった両極端でしかなく、
とてもじゃないが
カレンダーという名の、世間さまの足並みには無縁の生き方をしているからとはいえ、まずそこからしていけなかった。
何より、長年ほったらかしにしておいた左上の
カールを食うたびにしこたま食いカスを溜め込んでしまう、あの奥の側面である。
そこが密かに虫食いに見舞われているのは、随分とまえから自覚してはいた。
舌先でなぞるとざらりとして、いつかこれはどかんと来るな、と予感してもいた。
とはいえ、健康の問題ばかりは、苦痛が訪れるまでは現実と向き合おうとはしないのが人の
再石灰化を
いや、ひょっとしたらもう治ったんじゃないだろうか。
完治させたぞ、俺は。
そう決め付けて久しいがゆえに、この日に限って痛み出したことに何かしらの意味を見出そうとしたりした。
それだ。
ただでさえこの男、叩けば埃だらけの半生であり。またそれを自覚してもいるものだから、自然、警戒心は諸神経を異様に
きっと何かしらまずいことが起こる。
そうして
尾行に。
くり返すが、世間は盆休み。
都心とはいえ普段に比べるまでもなく交通量が少ない。
行く当てもなくだらだらと環状線を走らせていれば、追い越しもせずにじっと後方に
のろのろやっている平太の車を追い越さず、ぴたりと付いて離れないなんて、怪しさ満点ではないか。
案の定、丸見えとあってはさすがに相手もやりにくいとみえ、平太の見る限りもう一台、もしくは二台の応援があるようだった。
頃合いをみて平太を追い越しては、他の車と入れ替わっているのだろう。
一度、試しに路肩に寄せて停めてもみた。
はたしてその追い抜き方もねっとりとして、すけべったらしいったらない。
はてさてどうしたものか。
街道の信号で停車して、平太はいま考えをめぐらしている。
が、それはあくまで
ルームミラーのなかにはちょこんと愛娘。
後部座席で暇をもてあましている。
なんでも、無断で猫を飼っていることをマンションの管理人に知られてしまったとのことで。
このたびの娘は、その猫を平太にあずける役目も
それはマンチカンとかいう短足の品種。まだ子猫だ。
なるほど娘のポシェットから首だけのぞかせているところを見ると、幼い子供がその手の中で愛玩するには格好の動物のようには思えた。
しかし、当の娘はどういうわけかうわの空で。
時折思い出したように指先でその猫の額を撫でてやりはするものの、暇をもてあますことに専念しているようである。
平太はコンタクトを試みる。
「れいちゃん、アイスクリームでも食おうか」
そんな子供だましのご機嫌取りでは、子供すら騙せやしない。
だいいち、アイスクリーム
大人のそんな
そうでなくても、先ほどからミラーを使って後方を警戒している父の目つきを見ているのだ。
さながらゴルゴ。
そんなニヒルなアイスクリームなんか、甘いものか。
れいは父の問いかけにはこたえず、ひきつづき暇に没頭した。
夢想のなかに還って行く娘をミラーのなかに見届けながら、平太はまた舌先で親不知を撫でた。
言うまでもなく歯医者は休み。
薬局もまた
ひと月ぶりの娘は、このとおり
何なんだ。今日という日。
いっそのこと尾行など振り切ってしまおう、とも思う。
できないことではない。
しかし、こうまで露骨な尾行をしながら、少しも捕まえようという素振りを見せないのはいったいぜんたいどういう
挑発か。
こちらが
あるいは、あれはあれで彼らにとってはまっとうな
いずれにせよ厄介ごとを背負い込んでしまったことには違いないようで、そのむしゃくしゃがとてつもなかった。
そうしてあてこするように
中央分離帯をはさんだ対向車線を単車が一台すっ飛ばしてくるのが目に飛び込むのだ。
ネクタイを風に
なんという偶然。
一味のアシを務めるサエキではないか。
ならばタンデムにいるのは華凛だろうと、仲間なら誰しもがそう思う。
が、さにあらず。
すれ違いに見えたそのずんぐりとした体型に覚えがある。
あれはそう、花村のとこの長男、
サイドミラーをよぎったその背中には、ガムテープによると思しき
いったい何ごとか。
何ゆえにサエキがカピバラのアシをやっている。
平太はここぞとばかりに
がその神経は、サエキのバイクを追って近づいてくるまことにもって
―
なるほど、さながらいきがった蝿のごとし。
酒焼けした胸をはだけ、赤いアロハを火の手のように躍らせて。アクセル全開で突っ走ってくる痩せぎすのじじい。
ほかでもない、正造である。
「このくそ暑いのに、ご苦労なこった」
音のわりにはちっとも進まないそのポンコツの騒音に、思わず娘が両手で耳を塞ぐ。
仕事柄、サエキは対象を
しかし、まさか自分が尾行られるだなんて事態は、想定もしていないのに違いない。
後方の正造にはまったく気が付いていないのではないのか。
ならばサエキも相当な厄介ごとを背負い込んでしまったらしい。
平太は本日何度目かの舌打ちをする。
れいが、その音に反応して眉間に皺を寄せた。
どこか遠くにあったはずの歯車が、妙なきっかけでこちらに作用し始めてしまったような、そんな嫌な感じがした。
この貴重な一日を、あんな
信号が変わる。
されど、やっぱり行く当てなどはなく。
あてなどなくとも青なら進め、で平太は不承不承に車を出す。
こういうときはあれだ。もう、海。
海こそは、あてなどなくとも行って良い場所の代表なのではないのか。
目をつぶっていようが、まっすぐに歩き続ければいつかは海に突き当たる。どん詰まりの気分は、そうやってもらさず海が受け止めてくれる。この国はそういう仕組みになっている。
「れいちゃん。海に行こっか」と車線を変える。
海へ行く。
なんだか照れくさいほどに前向きではないか。
山ならば、そこに頂上という具体的目標が用意されてある。聞こえはいいが、それはたかだか限界という意味にほかならない。
川ならば、とめどもなく傍観者でいるばかりで、ともすれば石でも蹴って
そこへいくと海は違う。
違うのだ。
水平線の向こう側に無限のキャンバスを押し拡げ、そこにありったけの希望を思い描く。いわば巨大なアトリエといえまいか。
古来、良きにつけ
チョコもロックも葡萄酒も、
釈迦もサンタも原爆も、
みいんな海の向こうからであった。
それがゆえに人は海の向こうに希望を思い描いてきたのではなかったか。
してその
海の向こうに描き殴った抽象画などに責任を問われることなどありはしないのだから。
描き逃げオーケー。
そのオーケーの、底知れない度量の深さが、きっと歯の痛みから晴れ晴れと解放してくれる、
はず、
だろ?
少なくとも樹
平太は意識的にはしゃごうとしていた。
そうすることで歯の痛みから意識を逃がしたかった。
が、待てよ。
お盆は夏の折り返し地点。
誰もがいやでも夏の残量を意識する日。
そして、残り物は「もったいない」とばかりに焦った有象無象が浜辺を、それはもうごっちゃりと埋め尽くしているだろうことは想像に難くない。
彼らは「お盆をすぎたら海に入るな」という古い言葉を
ぞっとする。
駄目だ駄目だ。
それでなくとも、人ごみほどこの平太の嫌うものはないのだから。
食事も徹底してすいている店にしか行かないくらいで。
自然、まずい店にばかり通う。
まずい店しか知らない。
「れいちゃん。やっぱ海はやめよう。ぜったい混んでるよ」
れいは
水着すら持ってきていないというのに、何が「海」か。
その当てにされてなさを、平太はミラーのなかに思い知る。
何やってんだか、俺。
自分でふって、自分で
時計をみる。
まもなく正午。
父と二人きりで休日を過ごす。
そんなどこにでもありふれているはずの日常を、娘にとってもありふれたものにせねばならぬ。
平太はミラーのなかの後続車を
まったくもってご苦労なことで、考えてみれば、連中はお盆休み返上でやっているわけだ。
「ちっとはサボれよ、公僕が」
まずはこの尻尾を切り離さなくては何もできやしない。
そりゃあ自分一人だけならなんとかなる。
これでも荒っぽいことにかけてはひと通りやってきたという自負がある。
問題は
月に一度のデートは、そんなれいをリセットする貴重なメンテナンス日でもあるわけで。
荒くれた姿なんか見せられっこない。
いかにいいパパか。
それが本日のテーマだ。
そのためには、助けがいる。
と、ついに平太はすがる思いで勝枝に連絡をとるのであった。
ゲンクロウ
そのアシは、そう名乗っているのだそうな。
源九郎、とでも書くのか。
ケータイで事情を聞いた勝枝が差し伸べてくれた助っ人。
勝枝とは古い仲らしく腕はいいというのだが。
先方が指定してきたのは一時間後である。
住宅街の真っ只中、―小学校。
その正門前。
平太は法定速度を遵守しつつ、公僕の尻尾を引き連れて、ほぼ指定の刻限にそこへとたどり着いている。
エンジンを止める。
と、それきりしんとして
固く閉じられた
後方の曲がり角あたりに、息をひそめた尻尾の影。
こんな状況でいったいどう巻くというのか、ゲンクロウとやらは。
まもなくドアミラーの彼方に自転車の老人が現れた。
ギィイー、クィギー、
ギィイー、クィギー、
いまどき珍しい油の切れたポンコツ自転車。
パッチにサンダル、麦藁帽。
ランニングにガニ股こぎ。
これで
老人は後方に停車した公僕の車を抜き、まっすぐに平太の方へと向かってくる。
あいつがゲンクロウ。
はたしてあんなんで、大丈夫なのか。運転。
自転車ですらあぶなっかしいではないか。
老人は麦藁帽の
歩道のなかを通って近づいてくる。
ランニングの胸元に大きく広がった汗のシミ。
老人はペダルを
平太は助手席の窓を下げた。そしていかにも気さくそうな笑みをたたえて老人の接触を待った。
ギィイー、クィギー、
ギィイー、クィギー、
ところがだ、老人はその助手席の窓をかすめて通り過ぎて行ってしまうではないか。何度もこちらを振り返りながら、よろよろと。
違うのかよ。
と思う
その開けた助手席の窓から白い手袋をつけた棒きれのような、そう、昆虫のような痩せ細った腕が入り込んできて、ドアのロックを解除するではないか。ドアはそれと同時に開かれて、身をかがめて飛び込んできた長髪の痩せ男。曰く、
「四分遅い」
平太の方も見ずに立体マスクのなかでそうのたまったものである。
こいつがゲンクロウ?
茶髪まじりのストレートヘアは腰にまで届いており、ちょっと見た感じは、ひと昔前のヘビメタのあんちゃん。おろしたての立体マスクで顔のほとんどを隠してはいるが、瞼と目じりに刻まれた深々とした皺が、
ジャパメタや
メタル嫌いの平太にはそう
なるほど、尻尾からは見えないようにと、死角からこの車へ飛び込んだというわけなのだ。
ゲンクロウは座席に腰を落ち着けるや「それで?」
会ってふた言目に『それで?』もないものだが。
「どうしてほしいんだっけ?」
「どうって、そのぉ」
実のところ平太はまだ面食らっている。しかし動転しつつも「アレを」と
ゲンクロウはその口ぶりを真似て「巻いて、ってか」と返した。
ゲンクロウはその伸びきった間に焦れて、またも「で?」
平太は畳み掛けてくるそのせっかちぶりに泡食って「で、って?」
「次は?」
「いやそれだけっす」
「それだけ?」
「はい」
「だけなの?」
「はい」
「ほんとに?」
「はい」
「うそぉん」
ゲンクロウは
平太には答えようがない。
「これじゃ老いぼれ扱いじゃないですか。ジミー・ペイジじゃないですか」
んなこと問われても。
「話のわかるいい女だったんです。かつては」
知らん知らん。
「わかったわかった。はいはい、わかりましたよ。やればいいんでございましょ? あれを巻けばいいんでございましょ?」
ゲンクロウは革のウエストバッグから抹茶ののど飴を取り出すと、マスクの隙間から口の中へと放り込んだ。
歯に当たって口の中でからころと鳴る。
それからぽんとひとつ手を打つと、
「さっ。チェンジ、チェンジ」
ゲンクロウは運転席へ、平太は助手席へと体をスライドさせて場所を入れ替えた。
そのすれ違いざまに、ゲンクロウは自分の上をすぎていく平太の尻をぴたぴたと叩き「おにいさん、痩せたんじゃないの?」とからかう。
むっとして平太は助手席に腰を落ち着けながらゲンクロウを睨む。
が、ゲンクロウは目をあわせぬまま「おひさしぶり」とマスクのなかから微笑した。
聞けば、件のSMクラブ『田嶋』で客の送迎をやっていたという。
なるほど、言われてみればこんな男だったような気もしてきたが、往路はこれから始まるプレイに備えての
それが変態の常態というものではあるまいか。
「駄目だよぉ。毎度毎度、シートの背もたれにガム貼り付けてっちゃ」
記憶にない。
だが、そんな幼稚なまねをする客は自分以外にはないだろう、とは思う。
記憶を
「はい、こういうジャラジャラしたものを視界につけなーい。目障りだわ。邪魔。不快。不潔う」
シートの位置を調節し、ルームミラーの角度を変えたとき、ゲンクロウはようやく、後部座席で黙りこくっている幼女に気が付いた。
「あら。娘さん?」
「え? まあ」
「
ゲンクロウは指先を噛んで手袋を外すと、ウエストバッグからキャンディをつかみ取りにして娘に差し出した。
銀の
手が、お菓子の家になっていた。
「ほれ。いただいてしまうがよい」とゲンクロウ。
れいは
「ほーれほれ」
娘の前でドM呼ばわりしてのけたこの初対面の男を、平太はしばし見据えた。
れいはその隙にチュッパチャプスのグリーンアップルを選んで、ポシェットのポケットに仕舞う。
お楽しみは後で、ということか。
「ほほお。やりよるの。心得ありとみた」
ひとりごちて、ゲンクロウは手袋をつけなおし、エンジンをスタートさせた。
「なんですか。やっぱオートマでございますか昨今は。寂しいねえ。なんかこう、足寂しいったらないねえ」言いつつ、CDラックとプレーヤーをみつけると「ここはひとつ、テーマ曲などほしいところなのだがあ」
選び出したのはナット・キング・コール。名曲スターダスト。この日本の真夏の昼下がりに、満天の星空を歌う直球のスタンダード・ジャズとは。
ゲンクロウは選曲すると、
「おにいさん。これから始まることをよおっく目に焼き付けてといて。んで、それを勝枝ちゃん報告しといてよ。このカマイタチのゲンクロウの腕は少しも鈍っちゃいないって。僕はジミー・ペイジなんかじゃないって」
カマイタチ?
ゲンクロウはミラーの彼方にのぞいている公僕の車を
いや、しようとして両目ともつぶってしまった。
できないことなどするものではないが、それについては少しも臆することなく、ようやっと停止ボタンを解除する。
フルボリュームで解き放たれたのは、この世のすべての女の腰をとろんとろんに溶かしにかかる、贅沢至極のシルキー・ボイス。
ゲンクロウ、そろりと車を出す。
街道に向けてハンドルを切る。
遅れて尻尾も動き出す。
ゲンクロウは明らかに彼ら公僕を誘っているようであった。
すぐに道は街道に接続する。
四トンダンプが一台、信号待ちをしている。ゲンクロウはそのケツにつけた。
そしてミラーの中の尻尾をうかがいながら平太の娘に「ちっちゃなお団子さんになっててね」と運転席の後ろのステップを指差した。
れいは座席からするりと降りて、ポシェットを抱いてそこで丸くなる。
初対面の男に対する娘の従順さに平太が嫉妬する暇は無い。
曲の
まるでゲンクロウがそう仕組んだかのよう。
一瞬のブレイクをおいてナット・キング・コールが甘く高らかに主題を唄いだすとき、それを切っ掛けにしていたのだろう、ゲンクロウは急発進でタイヤを焦がし、対向車線へと飛び出したのである。
信号は依然、赤。
四トンの傍らをすりぬけて交差点へと突っ込んでいく。
こちらの道が気持ち
瞬間、CDケースが、
ダッシュボードの小銭が、
ドリンクホルダーのコーンポタージュの空き缶が、
重力を奪われて、浮く。
車体をバウンドさせながら交差点を突っ切り、舗装の粗い旧街道へと滑りこんだ。
後方からサイレンが叫ぶ。
さすがにこうまで露骨な違反を見せ付けられては見逃すわけにいかなくなったのだろう。
連中、パトランプを載せて追ってきた。
なにやらスピーカーで怒鳴り散らしているが、音が割れて意味までは聞きとれない。
グローブボックスに額を打ち付けた平太は怒りのあまり吠えかけたが、ゲンクロウはそれを指ひとつで「しぃぃぃぃ」と制すると、次いでその手を耳にあてがって《曲をよく聴け》とジェスチャー。
どうやらマスクのなかは笑っている。
この状況を愉しんでいるのだ、この男。
こうなってしまったからには、もうゲンクロウにゆだねるほかない。
というよりも、こうまでされてしまった以上、責任をとってもらわんことには、気が済まない。
車は旧街道から折れ、一本道がつらぬく小さな商店街を抜けると、
より細い道へ、細い道へとゲンクロウは選んでいく。
どうやら車幅と車長の格差を活かすつもりらしい。
ちなみに車は平太たちが軽のワンボックスであるのに対し、尻尾は
現にこの尻尾が道を曲がるたびに次第にハンドルを切り返すようになってきている。
ところが、である。
奇妙なのはゲンクロウの走り。
敵が切り返しているうちに逃げおおせてしまえばよいものを、速度を落とし、どこか待っているような素振りを見せるのだから。
さながら、鬼さんこちらといった風情で。
やがて、普通車には車幅ぎりぎりといっていい、そんな
つづく尻尾もどうにかそこをすり抜けようとする。
シルバーの軽ワンボックスのケツが視界から去り、スターダストの調べが彼方へとフェイドアウトしていくのが、彼ら公僕を焦らせたに違いない。
ゲンクロウを追って左に折れるには、セドリックの車長では一旦切り返さねばならず、必然的にその長々としたボンネットを窮屈な十字路へと突き出さなくてはならない。
ゲンクロウの待っていたのはその瞬間である。
去ったと見せかけて、すぐそこで息を潜めていたのである。
オーディオのヴォリュームを絞りきり、ルームミラーの中にセドリックが鼻っ面を出すのを老練なマタギのごとく待ち構えていたのである。
はたして連中がブロック塀の陰から車の鼻を突き出したそのときだ。急発進のタイヤのいななきとともに、スターダストが
要するに、軽はセドリックに一撃必殺のヒップアタックを見舞った、というわけ。
左側面を潰されたセドリックは、はずみでべっちゃりと右肩を電柱に押し付け、しゅんとなってしまった。
ドアが両サイドとも死んだ。
その衝撃に呆然としている男の影がふたつ。ガラスの散乱した車内に凍り付いている。
シルキー・ボイスが、切れ切れに跳ね回っている。
「あーら、ごめんあそばせ」
ゲンクロウはひとりごち、これ見よがしにゆったりと再発進させて走り去る。
悠々としたものである。
一方の尻尾はというと、この一撃でエンジンを眠らされてしまったようで。運転席の刑事は無線を手に取り、助手席の相棒は脱出口を確保しようと割れた窓を砕き始めた。
が、それもつかの間だ。
あろうことか細切れのスターダストが再び急速フェイドインをしてこようとは誰が予測できよう。
この時、刑事たちは迫りくる軽ワンボックスのリアウィンドウに、笑う女児の顔を認めている。
それは花のように、見事に咲いた笑顔だった。
二撃目は直前でふわりと減速し、キスをするようにチュッと触れてとまる。
軽のケツにキスをさせたままゲンクロウはギアをパーキングに入れると「この二発目は、勝枝ちゃんとの想い出に」
勝枝ちゃんによろしくとひとり車を降りると、ゲンクロウは去っていく。
なにがカマイタチか。
あきれ返ってものも言えない。
こんな取り返しのつかない事態にされるくらいなら、はじめから自分でなんとかしていた。そう思ったところであとの祭りだ。
「おらあっ! 車どけろやっ!」
車内に閉じ込められた刑事たちが騒いでいる。
平太はれいを伴って車を降りた。
見上げるとそこにBondaged Sky。電線に緊縛された空が、青く、遥かに。
縛られているのは、あるいはこちらのほうなのか。
親不知を舌先でねぶる。
どうせ盗難車だ。
れいがすっかりご機嫌さんで、スキップでついてくる。
それは父にとって初めてみる、娘のスキップであった。