第二章 デル 1

文字数 4,039文字

 
 デル


 紅黒(あかぐろ)い闇のなか、
 女がひとり、苦悶(くもん)している。
 (たけ)りたつ(ほむら)(うず)にもまれ、
 瞳のない眼球(めだま)()き出しにして、
 底なしの恐怖と果てしのない憎悪にもみしだかれながら、(けもの)のように咆哮(ほうこう)している。
 やがて闇に目が慣れて。
 女の顔が見なれた天井の木目であることがわかる。
 同じ樹から()り出された天井板は、そのため模様はどれも金太郎飴のごとくに似通い、なおかつ(わず)かずつ相違(ずれ)ていた。
 よって並んだ天井板を順に(はし)から見ていくとあたかも連続写真(アニメーション)のように、そこに女の顔が躍動(やくどう)する。
 口をゆがめながら炎のなかに浮かび、目を剥きながらまた呑まれゆくそのほんの一瞬だ。
 何かを訴えながら。
 はて、いったい何を伝えたいのか。
 デルの瞳は、唇の謎を読みとろうと、天井の連続写真を追いはじめる。
 端から端へ。
 端から端へと。
 追うほどに反復するほどに逃げる唇が、音のない呪文を産みおとして―。
 見入るほどに魅入(みい)られて、いつしか万有引力(リンゴ)の法則がどろり、溶けはじめていた。
 それは遠近感が反転し、天井へ向けて無限に落下しつづけるような錯覚だ。
 木目のことごとくがふやけだし、(うごめ)きながらぶくぶくと(ふく)らんでゆく。
 女の唇は水たまりに、
 池になり、
 沼になり、
 やがて湖となって、
 顔の皺のひとつひとつが大河の刻む大渓谷へと隆起(りゅうき)していく。
 それはもはや視界を圧倒する巨大な惑星と化していて。
 デルは、
 その星に落下し続ける一個のちっぽけな天体だ。
 月だ。
 石くれだ。
 宇宙塵だ。
 あまりの途方の無さに慄然(りつぜん)とするそのとき―。
 そう、きまって気を失うように―、目を覚ますのであった。
 夢の(ふち)で騒いでいた蛙たちが今はしんと押し黙っている。
 寝付くまで抱きつづけていた姉ハイリの寝息が、変わらず(そば)にあった。
 そして木目は―、デルの夢のことなど露知らず、(すす)けた天井でよそよそしく澄まし込んでいるばかり。
 遠くに半鐘(はんしょう)
 耳を澄ます。
 方角は?
 東。
 ひとつ隣の火の見、(たつ)の塔であろう。
 はね起きて、親の部屋をあらためる。
 この時刻、父は()の塔で番をしている。しかし母の布団もまたもぬけの殻とは。
 父が火の見の番に立つ夜に限って、母が未明まで家をあけるようになったのが、ふた月ほど前か。
 デルだけが気付いていた。
 よりによってこんなときに。
(しら)せねば。
 そう思って駆けだそうとする背中をぼそり、ひと晩叫び通したような声が呼び止めた。
「デルや」
 居間の隅には祖母が、闇の(おり)のようにうずくまっている。
「バーチャ。眠れないの?」
 デルが問うと、祖母は何かひどく苦いものでも飲み込むようにぎゅっと目を(つむ)ったまま、歯の無い口をふこふこと震わせ、白い舌をもどかしげに出し入れした挙句にようやっと、
「出る」
 ともらした。
 その安堵の表情には、あえてあらためるまでもない。
 ()らしたのだ。
「やったな、バーチャ」
 祖母は酸っぱそうに口をすぼめ、それからたんっ、とひとつ舌を打ってから「やった」と満足げに笑ったはずである。しかしデルはその顔を見ていない。
「ごめん。すぐもどる」
 言い捨てて、戸口から東をのぞんでいた。
 赤く()れた雲に映える()の塔のシルエット。恐竜の骨格模型のようなその火の見をすかして、下弦(かげん)の月が覗いていた。
 すでにそこに父の影は無く。
 となれば火事はヤマナメ様の仕業にほかならない。
 デルの家はこの荒ぶる神を(しず)めるのが役目、森番(もりばん)なのである。
 この神は、森に擬態(ぎたい)する。
 鳥や虫や獣たちがそれと知らずにそこに共生し、生を謳歌する頃合いを見計らって、突如として発火(はっか)するのである。そのとき、木々も草花もまるで示し合わせたかのように一斉に炎と化す。
 生き物たちは逃げる間も与えられずにそのことごとくを灰にされ、どうやらそれをもってヤマナメ様はみずからの養分とするらしい。
 火が鎮まると森にはぽっかりと、きまって楕円の焼け跡が遺される。
 森番の衆はその丸いはげ(、、)注連縄(しめなわ)で囲み、鎮魂の儀をとりおこなうのだが、それほど日も経たぬうちにいつも必ず縄のどこかが切られていた。
 ヤマナメ様が抜け出すのだという。
 じわりじわりと擬態しながら移動して、周囲の森に溶け込んでしまうのだという。そうして森のなかを、そこに棲息する獣たちにすら感づけないほどの速さで、まさしく木々の時間で移動して、次の猟場を探すのだとされていた。
 神出鬼没。
 次にどこで発火するのか、それはヤマナメ様のみぞ知るのである。
 ヤマナメの名前の由来は、赤々と夜空を焦がして森に張りつく(さま)が巨大な舌に似ていることからの『山()め』とも言うし、ヤマナメ様が()う音とされる夜ごとの地響きから『山鳴り様』と呼ばれ、のちにそれがなまったのだとする説もあった。
 そのヤマナメ様の棲む神聖な森をまもる森番は、代々引き継がれる十二家で構成されている。デルの家はそのなかでも人がむやみに森を侵さぬように見張り、(まつ)る、霧羽(キリハ)とよばれる集団に属している。
 しかし、ヤマナメ様の出現というこの事態に、母が姿を現さないとなると……。
 デルは駆けだす。
 西へ。
 家の裏手には掘割の小川。
 ()けられた丸木橋を渡れば、ススキの林を貫く一本道。
 北へ。
 白んでゆく空をたよりに走り抜けると、山脈を従えたヤマナメの森が鬱蒼(うっそう)と立ちはだかる。
 こんもりと生い茂る繁みにはたったひとつ、くり抜いたような黒い口。
 森への入口だ。
 道はさらにその奥へと通じているのだが、デルは立ち止まって目を見張った。
 白装束の背中がひとつ、口の前に佇立(ちょりつ)していたのである。
―トーチャ。
 デルの父。
 ヤマナメ様の鎮魂に駆けつけていなくてはならない父が、なぜ今ここに。
 と、父の見つめる森の奥からもうひとつ、同じ白装束の人影が踊るように駆けおりてくるではないか。
 白い影はそこに父を認めると、はたと立ちすくんだ。
―カーチャ。
 霧羽の正装として顔もまた白い頭巾で覆ってはいるが、まぎれもない、デルの母である。
 恐らくは半鐘の音に気付いて慌てて戻ろうとしたのに違いない。
 母はうろたえ、後ずさりし、踵を返してふたたび森へまぎれた。
 父の背中もまた、母を追って闇へと消える。
 その先にあるのは、神域(しんいき)。デルたち兎飼(うかい)家がヤマナメ様に供物(くもつ)を奉げる、森の底である。
 供物の奉納はおもに女が(にな)うのが習わし。
 それは日中に限られており。
 にもかかわらず母がそこへ、父が火の見の番にたつ夜に限って通うのを、デルは知っていたのである。
 むろんこれまで誰にも話したことはない。
 しかし―。
 となれば、
 それ(、、)を知ったのに違いないのだ、父も。
 デルは静かに黒い口へと歩みをすすめる。
 入口には注連縄(しめなわ)の化粧回しを(ほどこ)された(くす)の大木が、横綱よろしく東西に(ひか)える。足元には、()ったような細流が森を縁どりつつゆるやかに東を目指していた。
 この流れを森番は結界と見なす。
 いまだかつてヤマナメ様の火は、この結界を越えたことがないからだ。
 デルは中州に敷かれた飛び石をたん、と蹴って対岸に跳び移った。そこから口の奥を覗き込む。
 塗りつぶされたような闇。
 目を()らしたが何も見えない。
 ただ時折、獣たちがたてるらしい小枝のきしむ音だけが、した。
 いつしか半鐘が止んでいる。
 間もなくヤマナメ様はお鎮まりになることだろう。
 ならば森番の衆もじきに戻ってくることだろう。
 神に仕えるたったひとりの土戒(ツチカイ)を、白装束の霧羽(キリハ)たちがひと(ひとかたまり)に護って、葬列のようにおずおずと山を下りてくる。
 霧羽(キリハ)の一員である父も、本来ならそこにいたはずなのだ。当主である以上は、持ち場である()の塔から招集の半鐘に呼応して、何をおいても駆けつけていなくてはならない。
 それなのにデルの両親は、黒い口の中へ。
 森番ともあろうものが神をほったらかしにしてである。
 すでにただ事ではなくなっていることだけは、理解できた。
 二人はもう帰って来ないのではないのか。
 いや果たして本当に森の底へ行ったのか。
 取り残されたような恐れに、デルは森の中へと()きたてられる。
 けれども、今はまだひとりでは入ることを許されないこの森が(はら)んでいるのも、闇の姿を借りた恐怖にほかならず。
 この深い闇の奥。森の底にたとえ辿りつけたとしても、そこに誰もいなかったとしたならば……。
 暁闇(ぎょうあん)の空へと吹きあがる噴煙のごとく、森が(たけ)っていた。
 楠の(こずえ)から黒い口へと垂れさがるつる草は、まるで巨人の口髭だ。
 その髭がふわりと揺れる。
―風か。
 やにわにその風が強まったかと思うと、あたりの繁みがどっとその口を振りかえった。
 草の葉たちが穴の彼方へと拝跪(はいき)する。
 しかし堪えきれず、ちぎれては奥へ奥へと吸い込まれていく。
 そうして森は轟々と鳴り騒ぎ、
 ひとしきり吸い込んでいっぱいに膨らむと、
 静寂を束の間おいてから、
 一転してゆるゆると吐き出しはじめるではないか。
 まるで穴のあいたように。
 (ゆる)んで。
 (しぼ)んで。
 吐き切って、
 やがて力なく、
「えるか」
 そう(うめ)いて、森はふたたび黙り込んだ。
 えるか?
 えるか。えるか。えるかえるかえるかえる、かえる。
―かえる。
 背後に、結界のせせらぎがよみがえっている。
 日が射し始めた森のどこか奥深くで、鳥たちがかしましく騒ぐのが聞こえた。
 天を仰ぐ。
 切りこぼした爪のような白い月。東の空の端に。
 北東。山脈の尾根あたりに舌の形の焼け跡がしらじらとのびているのが見えた。
 火事はやはりヤマナメ様だったのだ。
 デルにはその焼け跡が、まだ見ぬ山の向こうからのアカンベーに思えてならない。
「ふん」
 やるな。
 とばかりに鼻で嗤っておく。
 その、神様のまやかしなんぞに付き合っていられるかという精一杯の強がりは、あえなく一瞬にしてくじかれてしまうこととなった。
 くじいたのはただ一発の、―銃声。
 そして女の、慟哭(どうこく)
 音のしたあたりで鳥たちが舞い立った。
―森の底か。
 足は、つられるように楠の死線をまたいでいた。
 息をひとつ、吐く。
 走る。
 底へ。
 底へ。
 
 


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