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文字数 4,030文字

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 どうにかなると思っていた。ならなかった。完全に道に迷っていた。カイたちと別れて扉をめざしたが、変化のない景色のせいで方向感覚が狂ってしまっていた。いま歩いているところが魔界なのか、それとも魔界の入口なのか、それすらもわからなかった。
 そろそろ一時間は歩いている。とっくに扉に着いていなければならない。ときどき気味の悪い低木をみつけて近づくが、そこにはハンカチもなければ人間界へと導いてくれる甘味な扉もなかった。
 変化のない景色は方向感覚だけではなく、高低感覚も狂わしていた。やたら足が重たいと思ったら、道はゆっくりと上り坂になっていた。振り返ると、低木がはるか下にみえた。立ち止まり、このまま進むべきか考えた。戻ったところで迷い人には変わりない。このまま進むしかなかった。
 急にざわめく音が聞こえてきた。進むにつれだんだん音は大きくなってきた。四方八方から聞こえてきた。それは唸り声にも叫び声にも聞こえた。
 突然景色が変わった。はるか下に広がる景色に息を呑んだ。豆粒ほどの無数の人間がうごめいていた。いや、人間ではない。魔人たちだ。慌てて腹ばいになった。広大な土地を埋め尽くす彼らは咆哮にも似た声を常に上げていた。
 真ん中に川が流れていた。川幅は二百メートルほどだ。水が茶色いからこの川は魔界川だろう。カイは魔界川を挟んだ戦いになるといっていた。川を挟んで両陣営がまさに一触即発の状態だった。きてはいけないところにきてしまった。後悔したがすぐに動ける余裕はなかった。
 よくみると、それぞれの陣営のうしろ側に一段高くなっている場所があった。双方ともそこに座っているのがひとりいて、まわりを厳重に取り囲んでいる。どうやらお互いの大将らしい。だが、どちらが魔王側なのか反乱グループ側なのか、判断はつかなかった。カイとララはどこにいるのか。もちろんわかりはしなかった。
 それは突然だった。潮が引いたように静寂が訪れた。次に双方の陣地の真ん中あたりで人波が動き、空間ができた。眼をこらした。やがて双方から大将らしき人物が前にでてきた。川を挟んでそれぞれの大将が向き合う形だ。
 いっぽうが叫んだ。と思われる。声はほとんど聞こえない。だが雰囲気でわかる。終わるともういっぽうが叫ぶ。それを繰り返している。これは大将が味方の士気を鼓舞するための名乗りなのか。
 また静寂が訪れた。名乗りが終わってそれぞれの大将が引き上げていく。大将がもといた場所に着くと、いきなり雄叫びが聞こえた。ものすごい声だ。全員が片手を突き上げている。ついにはじまった。川を挟んだそれぞれの先頭集団が叫びながら川に突入した。戦闘開始だった。腰ほどの深さの川は魔人たちで埋め尽くされた。
 どちらが優勢なのかわからなかった。状況は一進一退のようだった。戦闘はたちまち川から陸に広がっていった。数人がかたまった戦いが無数にあり、また数十人がかたまった戦いが無数にあった。彼らはめまぐるしく走り、飛び、倒し、そして倒れていった。
 そのとき、眼の端に人影をとらえたような気がした。思わず左手をみた。すると遠くに小さなふたつの影をみた。よくみるとその影は走ってこちらに向かっていた。
 私は立ち上がり下に駆けた。直感だ。そいつらは敵だ。私の直感はそういっていた。やつらの姿を確認する余裕などなく駆けた。
 どのぐらい走っただろうか。どこをどう走ったのかもわからない。息が切れた。足が思うように動いてくれない。限界だった。尻餅をついた。胸が苦しかった。口を大きく開けた。
 いつのまにか男がふたり、私を挟むように立っていた。距離は十メートル。ふたりとも若者だった。ふたりの手にはナイフが握られていた。私にはもう逃げ場はなかった。私は絶望の声を上げた。
「お前は探偵だな」
 坊主頭のひとりが大声を出した。
「そうだったらどうするんだ」
 私も大声を出した。残念ながら声が震えていた。
「決まっているだろう。殺してその首をギリに差し出すんだよ」
 もうひとりの長髪が負けずに大声を出した。
「そいつは無理だな。ギリは死んだよ」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。
「信じないんだな。ポポと戦って死んだよ。私はその現場にいた」
「命乞いのつもりか」
「そうじゃない。本当のことをいっているんだ」
「お前の与太話に付き合うつもりはない。覚悟しな」
「待て。こんなところで油を売っている場合ではないはずだ。いま魔界川では戦闘がはじまっているぞ」
「だからお前を殺してそこに向かうんだよ」
 ふたりは私に近づいてきた。万事休す。私の運も尽きた。ひとりでも無理なのに、ふたりを相手では勝ち目はない。といって黙ってやられるつもりもない。私は内ポケットからペーパーナイフを取り出した。私の唯一の武器をみてふたりはせせら笑った。ふたり同時に相手は無理だから、体が小さい、私よりは大きいが、長髪のほうをターゲットに選んだ。致命傷は無理でもせめて軽傷だけでも与えることができれば満足だ。
 私はペーパーナイフをかまえ、腰を落とし、長髪に近づきペーパーナイフを突き出した。長髪は余裕で身をかわし、私の背中を押した。私はつんのめり、手をつく寸前で踏みとどまった。
「探偵、早くこいよ」
 ふたりは笑っていた。私は向き直ってもう一度長髪に向かった。またしてもかわされ、背中を押された。今度は踏みとどまれなかった。顔から落ちた。
「探偵、もう終わりか」
 私は立ち上がると、大声を出しながら長髪に体ごとぶつかっていった。
 体が浮いた。投げ飛ばされ背中から落ちた。眼から星が出た。あまりの痛さに声も出なかった。
「おい、そろそろ片をつけろ」
 坊主頭が長髪にそういったのが聞こえた。もう無理だ。そう思った。観念して眼を閉じた。
 痛さの感覚がなかった。ナイフで刺された感覚もなかった。物音がしなかった。やつらはなにをしているのか。そう思ってそろそろと眼を開けた。ふたりが横になっていた。なんでやつらは寝ているんだろう。わけがわからなかった。
「早く起きなさいよ」
 女の声がした。驚いて跳ね起きた。黒ずくめの女がいた。エクレアだった。
「大丈夫そうね」
 そういわれて背中の痛みを思い出した。顔をしかめ、声を上げた。
「わざとらしいわね」
「本当だ。お礼がいえないほど痛いよ。でもありがとう。助かったよ」
「これで二度目ね」
「恩義は忘れないさ」
「犬に負けないようにね」
 これで優しければ文句のつけようがないのだが。
「なにかいった?」
「いや、なんでもない。それはそうと、なぜあんたはここにいるんだ」
「ワッフルから連絡があったのよ」
「親子は無事か」
「無事よ。安心して」
「それはよかった」
「ワッフルも無事に帰ったし、お上も喜んでいるわ。あなたはいい仕事をしたわ」
「そうかい」
「表彰状と金一封が出るわ」
「本当か」
「冗談よ」
 そうだと思った。
「それでワッフルからあらましは聞いたわ。あなたはわざわざ戻ったんだって」
「まあね。見直したかい」
「なかなか男気があるじゃない」
「それで心配になってきてくれたんだな」
「たまたまよ」
「たまたまねえ……」
 素直じゃないところがまた可愛い。
「なにかいった?」
「いや、なんでもない」
「ねえ、いつまでここにいるつもり」
「そうだった。無駄話をしている場合ではなかった。この前のように指先を額にちょこちょことあててくれ」
「簡単にいうけど結構パワーがいるのよ。感謝しなさいよ」
「もちろんさ。さあ、早いところやってくれ」
「じゃあ帰るわよ。眼をつぶって」
「ちょっと待ってくれ。またあの個室か」
「それは帰ったあとのお楽しみよ」
 一抹の不安がよぎった。しかしいまは帰ることが先決だ。私は眼をつぶった。香水が鼻腔をくすぐった。エクレアが間近にいるのがわかった。ほんのわずか、額に感触があった。とたんに意識を失った。
 気がついた。眼の前にエクレアがいた。まわりをみた。やはり公衆便所の個室のなかだった。エクレアはよほど公衆便所が好きらしい。
「さあ、出るわよ」
 エクレアが個室を出た。私も続けて出た。血の気が引いた。最悪だった。若い女がふたり眼の前にいた。女は眼を大きく開け、固まっていた。ほとんど駆け足で女の前を通りすぎた。背中でけたたましい悲鳴が聞こえた。
 公衆便所を出てからここは上野駅だとわかった。エキナカの商業施設のところで私たちは立ち止まった。
「今度はせめて男子便所にしてくれ」
「贅沢をいわないの」
 エクレアがいまにも吹き出しそうな顔をしていた。
「じゃあここで別れるわ」
「ありがとう。また会えるかな」
「必要とあらばね」
「……あんたに謝らなければいけないことがある」
「なに?」
「私は誤解していたようだ。あんたはクレープのライバルでやつの失脚を狙って動いているとばかり思っていた」
「気にしなくていいわ。本当はね、ワッフルの失踪でとばっちりを食らうのが嫌だっただけよ」
「あんたは優しいんだな」
「フフフ、買いかぶりよ」
 美人はおしなべて冷たいと思っていたが、そうでもないようだ。
「じゃあご機嫌よう」
「みんなによろしくな」
「わかったわ」
 そういうとエクレアは、軽く右手を上げると、踵を返して颯爽と改札口にむかって歩いて行った。すれ違うサラリーマンがエクレアをみて、必ずといっていいほど振り返った。
 駅の時計でわかったが、いまは午後三時になっていた。不思議と腹は空いていない。いつから飯を食べていないか、それすらも覚えていない。いまはただ眠りたい。それだけだ。少し早いがこのまま家に帰ることにした。帰りのラッシュまで時間はある。電車は空いているはずだ。私はホームに向かってゆっくりと階段を下りた。
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