文字数 5,353文字

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 長津田にまた戻ってきた。どうしても確認しておきたいことがあった。
 長津田駅の南口を出て、右手に線路をみながら十分ほど歩くと、芹澤友子が住んでいたアパートがある。そのアパートから駅までの道すがら、小さな中華料理屋があることを、さきほどアパートの帰りになんとなく記憶していた。どちらかというとアパートに近い。駅までくると飲食店は目移りするぐらいあるが、アパートの近くはその中華料理屋だけだったと記憶していた。
 松永みどりは五か月アパートに住んでいて、自炊の痕跡がなかったということは、外食をしていたとみるべきだろう。食通を自負し、高級料理店を転々としていたのなら別だが、汚いが手ごろなその中華料理屋に何回か足を運んだのではないだろうか、と睨んだ。
 どす黒く変色した暖簾をくぐってなかに入った。テーブル席がふたつに四人が座れるカウンター席の小さな店だった。夕飯にはまだ早いのか、客はいなかった。カウンターのなかに六十代の苦虫を噛み潰したような無愛想なオヤジがいた。私をみてもニコリともしない。反対に、カウンター脇にはなにがおもしろいのかニコニコと愛想がいい同年代のおかみさんがいた。私をみたおかみさんは元気な声を出して水が入ったコップを手に取った。私は慌てておかみさんに近づき、ポケットから松永みどりが写っている写真を出した。
「申し訳ないが客ではないんだ。実はある人のことを聞きたくてきたんだ。おかみさんはこの女性を知らないだろうか」
 私は写真をおかみさんにみせた。
「後列の右から二番目の大柄な女性なんだがね」
 おかみさんは、どれどれといいながら、好奇心丸出しで写真を手に取った。
「ああ、この女の人なら知っているよ」
 すぐに答えが返ってきた。
「食べにきたんだね」
「そうだけど……でも、話していいのかね。ちかごろは個人情報がどうとか、うるさいでしょう」
「私は怪しい者ではないよ。人助けの堅い仕事をしているんだから。だからおかみさんに決して迷惑をかけないよ」
 人助けの堅い仕事といったが、ぜんぜん嘘でもない。
「そうなの……」
 本当は話したくてうずうずしていることぐらい、手に取るようにわかっている。
「食べにきたんだよね」
 もう一度念を押した。
「それはもう、食べにきたってもんじゃないよ。最近はぱたっとこなくなったけどね」
 もう大丈夫だった。念を押した私の言葉で背中を押されたおかみさんは、もう引き返すことはない。
「頻繁だったってこと?」
「頻繁なんてもんじゃないよ。ほとんど毎日さ。それも判で押したように七時にくるんだよ。お父ちゃんと私は、七時の女と呼んでいたね。ねえ、そうだよね、あんた」
 おかみさんから同意を求められたオヤジは無愛想にうなずいた。
「それがねえ、決まって頼むのが大盛りのチャーハンなんだよ」
「ほう、そうなの」
「毎日そればっかり。よく飽きないなあ、と思ってみていたよ。それも大盛りだからね。食べ盛りの男子高校生みたいにさ。きっとガタイがいいから胃のほうも大きいんだろうね」
 おかみさんは、おもしろそうにケタケタと笑った。
「この女性はいつごろからきたの」
「そうだね。去年の九月ごろかね。そうだよね」
 また同意を求められたオヤジはしぶしぶうなずいた。
 九月ごろというと、入社したころと一致する。松永みどりは入社してここのアパートに引っ越しをしてから、帰宅すると毎日のように大盛りのチャーハンを食べにきたことになる。それも決まって午後七時に。
「いつまでこの店にきていたの?」
「先月までかなあ。今月はたしかきていないね。引っ越しでもしたのかね。あんな愛想がない人でもいなくなると寂しいよね。あ、これは悪口じゃないからね」
「そんなに愛想がなかったのかい。だいたい店のなかではどんな感じだった?」
「それがさあ、暗いんだよね。なんていうのか、取っつきにくいというのかね。ぬっと入ってきて、決まって奥のテーブル席に座って、大盛りのチャーハンを頼んで、あとはだんまりさ。暗い顔して。そして、食べ終わったら、黙って勘定を払って、ぬっと出て行く。そんな感じさ。こっちはさ、毎日くるからだんだん話しかけていったんだよ。寒いね、とか。雨は嫌だね、とか。でもあの女の人は、あ、とか、う、とか、それしかいわないんだよ。愛想がなかったね。うちのお父ちゃんと、いいとこ勝負だったね。ははは」
「なにか避けているような感じかな」
「というよりはあれは性格だね」
「おかみさんはなかなか観察力があるね」
「嫌だよ。そんなんじゃないよ。長く生きているだけだよ。ところで、あの女の人はなにかやったの。本当はそうなんでしょう」
 もう我慢できないという口ぶりで聞いてきた。眼が好奇心で輝いていた。私のなかにある無数の引き出しから、一番無難なやつを選択した。
「犯罪に関係したわけではないよ。それは間違いない。しょうがないから、おかみさんには本当のことをいうよ。実はね、結婚を前提にお付き合いをしたいという紳士がいてね。それで彼女の素行調査をしているというわけなんだ」
「へえ、そうなの。ねえ、ねえ、相手の男ってどんな人よ」
「聞きたいの……ハゲでメタボの中年男だよ。おっとこれは内緒だよ」
「やっぱりね。なにかそんな感じがするよ。もしかしたらその男の人は小柄?」
「そうだね。彼女よりも小柄かも知れないね」
「結婚したらノミの夫婦かね。でも彼女は大柄で体もがっちりして、おまけに筋力や精力もありそうだから旦那は大変だよ」
 おかみさんはヒヒヒと下品に笑った。
「ところでさあ、あの女の人はどんな仕事をしていたの? 知っているんでしょう」
「会社勤めだよ。普通の会社の」
「そうなの。本当に? 私はさ、てっきり女子プロレスラーかと思ったよ」
「ははは、違うよ……それでね、これは正直に話してほしいんだけど、彼女はいつもひとりだったかい。都合の悪いところは誤魔化して報告するからさ、教えてよ」
「そうなの。正直に話していいの……じゃあ話すけど、それがね、最初のころはイケメンの若い男と二三回きたかね。いや、なにね、ちょっとね、恋人同士というには、バランスがね、歳も離れているようだし、なんだか不釣合いのような感じがしたね」
「蓼食う虫も好き好き、というだろうが」
 オヤジがはじめて口を開いた。
「そうかね。あのふたりはそんな感じがしなかったけどね。だって、あの女の人はどうみても三十も後半でしょう。イケメンの若い男は二十そこそこにしかみえなかったし」
「そのときの様子だけど、どんな感じだった」
「……小さな声で話していたから、聞こえてはいなかったけど、なんていうか、若い男は事務的というか、なにか命令しているような感じだったね。女のほうは、一言二言返事して、あとはただうなずいているだけ」
 若い男というのはもしかしたらカイかも知れない。松永みどりはカイの部下だった可能性もある。
「そのあとはずっとひとりだったね。若い男はそれっきりさ。それがさあ、先月になって違う男と四五回きたんだよ」
 おかみさんは心なしか声をひそめた。
「どんな男だった?」
「いやね、こんなことをいうと怒られるけど、なんか感じの悪い男だったね。ぶすっとしてさ。こっちには口も聞いてくれなくてね。歳のころは五十代前半。そうね、五十二ってとこかな。眼つきが悪かったね。あごひげを生やしていたね」
「どんな話をしていたか知らないかな」
「ぼそぼそと話していたからわからないけど、なにか男のほうが熱心に話していたね。女のほうは、なんだか気の乗らないような感じだったね」
「なにか説得しているような感じかな」
「そうね。そんな感じかな。そうそう、一度だけ男のほうが女に向かって、ポッポだったか、ボッポだったか、はっきりと覚えてはいないけど、そんな言葉で呼びかけていたのを聞いたことがあるよ」
「ポッポ?」
「もしかしたら、ポポかも。だけど変でしょう。まるで名前を呼ぶような感じさ。鳩じゃないんだからさ」
 それが女の本名かも知れない。松永みどりというのは、あくまでも人間界でのかりの名前のはずだ。
「いやあ、いい話を聞かせてもらいました。参考になったよ。これで依頼人にいい報告ができそうだ」
「そうかい。役に立ったかい」
「ばっちりだよ。そうそう、隣に写っている女性は知らないかい」
 再び写真をみせて芹澤友子を指差した。
「どれどれ……こっちはみたことがないね」
「わかった。ありがとう」
 私は写真をポケットにしまった。
「だけど不思議だよね」
「なにが?」
「あんたみたいにさ、あの女の人のことで前にも聞きにきた人がいるんだよ」
「本当かい。それはいつなの?」
「今月の三日。ひな祭りの日だからよく覚えているよ」
「どんなやつだった。人相は?」
「どんなやつっていうか、女の人だよ。それもすごい美人」
 なに、女……それもすごい美人……。
「その美人は若かったかい」
「ああ、若かったね。なんていうのかね、女優さんのような美人さ。それも和服が似合いそうな美人だったね。瓜実顔でさ」
 和服が似合いそうな美人……。
 私のなかでなにかが動いた。まさかと思ったが、私はクレープがよこした写真をポケットから取り出した。
「もしかしてこの人かい?」
「ああ、そうだよ。この人だよ。こんな美人がこの店に入ってきたから吃驚したよ。お客さんがみんな口を開けて固まっていてさ。このお父ちゃんも鍋を持ったまま固まっていたよ。ねえ、そうでしょう」
 オヤジは聞こえないふりをしてそっぽを向いていた。
 私は頭に血が上った。どういうことだ、と心のなかで叫んでいた。まるで関係ないはずのふたつの事件がここでつながった。まさに青天の霹靂だった。
「それで、その美人はいったいなにを聞きにきたの」
 私は気を取り直して質問を続けた。
「なんでも、あの女の人をさがしているとかいっていたね。あんたがいま聞いたようなことを聞かれたよ。いつまできていたのか、とか、どんな人ときたか、とか」
「若い男と感じの悪い男のことは話したかい」
「ああ、話したよ」
「そのときどんな反応だった」
「そうだね。感じの悪い男のほうに興味を引いたようだったね」
 ここでワッフルはいったいなにを調べていたのか。松永みどりをマークしていたのはなぜか。マークしていたのは松永みどりだけか。芹澤友子はどうなのだ。芹澤親子の拉致とワッフルの失踪はどうかかわっているのか。頭が混乱してきた。
「知っている人なのかい」
「うん、なに?」
「その美人のことだよ」
「まあね」
「もしかして同業者なの?」
「そんなところかな」
「やっぱり素行調査なのかい」
「そこまではわからないな。その美人はやはり写真をみせて聞いたかい」
「いや、いつもここにきていた大柄な女性って聞かれたよ。普段の彼女を知っているような感じだったね」
「それで、その美人がきたのは何時ごろだったかわかる」
「そうね……少し混みはじめたときだから、六時半ごろだったかね。お父ちゃん、どうだったかね」
 オヤジはやはり聞こえないふりをしてそっぽを向いていた。
 そのとき、私はある疑問がむくむくとわき起こった。クレープはワッフルの行動を知っていたのではないだろうか、ということだ。知っていたどころではなく、クレープの指示だった可能性もある。そうなると、今回の魔界の騒動や、芹澤親子の拉致や、ワッフルの失踪なども、クレープが微妙にからんでいることも考えられる。それらを承知したうえで、私に調査を依頼したのではないだろうか。とぼけた顔で。いや、ちょっと待て。私を指名したのはお上だ。いやいや、お上の名前を出したのはクレープだ。やつのひとり芝居かも知れない……。
 そのとき、突然私の背中がザワザワとした。いつものサインだった。横をみると、店に入ってきたおばちゃんが、ちょうど端のカウンター席に座ろうとしているところだった。おかみさんが、いらっしゃい、と愛想よくいって水を運んだ。
 おばちゃんはすぐにチャーハンを頼んだ。付き合うしかない。私は躊躇しなかった。私も同じように反対側の端のカウンター席に座った。
「私もチャーハンをもらおうかな。急に食べたくなった」
「大盛りかい」
「いや、普通でいいよ。胃が小さいからね」
 おばちゃんはこちらをみようともしない。まっすぐ前をみたままだ。だが、意識をこちらに集中しているのがわかる。
 カウンターの椅子から尻がはみ出ているおばちゃんは、足首まで隠れる茶色のロングスカートに上は同色のスウェットシャツとやはり同色のダウンベストというスタイルだ。眼を引くのは白いスニーカーだった。ダウンベストがぴちぴちで、いまにも張り裂けそうだった。
 さきにおばちゃんのところにチャーハンがきた。すぐにこちらにもきた。
 まずいということはない。だがうまいということもない。普通のチャーハンだった。松永みどりは毎日このチャーハンを、それも大盛りで食べていたことになる。信じられなかった。
 私のほうがさきに食べ終わった。ゆっくりと水を飲み、横目でうかがうと、おばちゃんもどうやら食べ終わったらしい。私はカウンターから離れ、おかみさんに調査協力の感謝の意味も込めて、チャーハンを褒め称え、勘定を払って外に出た。
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