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文字数 7,260文字

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 事務所があるビルの階段は昼でも薄暗い。今日もどこのテナントが置いたのかわからないが、ダンボール箱が階段を占領して歩きづらいことはなはだしい。
 事務所に入り、まだしまい忘れているガスストーブを横目でみながら換気のために窓を開け、くる途中のコンビニで買った昼食用のサンドウィッチとお茶のペットボトルが入った袋と新聞をデスクの上に置いてパソコンの電源を入れた。そのあとはいつもようにコーヒーの準備だ。だがその前にやることがある。カイへの連絡だ。そうしようと決めたのはきのうの夜だ。やはり雲海グループのことを伝えたほうがいいと思った。
 カイはすぐに電話に出た。話があるので会いたい旨を伝えると承諾の返事がきた。結局事務所にカイがくることになった。私は電話を切ってから窓を閉めてキッチンに足を向けた。
 淹れたてのコーヒーを入れたマグカップを持ってデスクに戻った。コーヒーをゆっくりと口に運び、新聞を広げた。そのとき、ノックの音が聞こえた。一瞬カイがきたのかと思った。だが背中のセンサーは反応しない。違うとわかった。私は新聞を畳み、返事をした。入ってきたのは予想外の人物だった。見城一郎だった。
「おとといは大変失礼しました」
 言葉とは裏腹に、恐縮した素振りはみせずに見城一郎はソファーをみつけると勝手に座った。
「いただいた名刺の住所を頼りにきたんですが、この辺はわかりづらいですな」
 見城一郎は事務所のなかを興味深そうに見回した。
「用はなんですか」
 どうしてもいいかたにトゲが出てしまう。
「せっかくお近づきになれたんですから親しくお話をしたいと思いましてね」
「私はお近づきになれたとは思っていませんがね」
「まあそういわずに。肩の力を抜きましょうよ」
 どうして私の前に現れる連中は、揃いも揃って図々しいやつらばかりなんだろう。まさか私のほうに問題があるわけではないだろうな。
「なんかいいました?」
「いや、ひとりごとです。しかし私が事務所にいるとよくわかりましたね」
「留守でしたら出直すまでです」
「熱心ですな」
「これでもジャーナリストの端くれですからね」
 見城一郎はリラックスした様子で足を組んでいる。どうも長居しそうな雰囲気だ。
「おや、昼食ですか」
 デスクの上に置いてあるサンドウィッチに眼がいったようだ。
「気にせず召し上がってください」
「そちらこそ気にしないでください。食べたいときに食べますから」
「そういえばそろそろ昼飯の時間ですな。私もなにか買ってくればよかった」
「よかったらこれを食べますか」
「いや、結構。あなたはおもしろいかたですな」
「そろそろ本題に入ったらどうなんです」
「おや、世間話は嫌いですか」
「時と場合によります」
「なるほど。では本題に入りますか……あなたの返事をお聞きしたいと思いましてね。それを聞かないうちはどうも落ち着かない」
「返事?」
「あなたがなぜ公園にいたかということですよ」
「散歩ですよ」
「写真を撮っていましたよね」
「趣味なんでね」
「永田正勝を撮っていましたよね」
「勘違いでしょう」
「あなたの依頼人はだれです」
「さあ、なんのことか」
「依頼内容はなんです」
「意味がわかりませんね」
「堂々巡りですな」
「時間の無駄です」
「なかなか頼もしいですな。では少し気分を変えるつもりで、私からの情報をひとつ提供します。あのマンションには永田の愛人が住んでいます」
「ほう、そうなんですか」
「本当はご存じなんでしょう」
「いや、いま知りました」
「愛人の名前は浅木詩緒。年齢は三十二歳。彼女は永田のもと秘書です。永田は毎週土曜日の午後八時にマンションを訪れるんです。だいたいは二時間ほどいて帰ります。影浦さんはそのタイミングであのマンションにいた。偶然ということはないでしょうな」
「偶然です」
「偶然ねえ……まあ、いいでしょう。ちなみに、愛人の浅木詩織ですがみたことはありますか」
「私に聞くのはお門違いです」
「なかなかボロを出しませんな」
「その浅木詩織は美人なんですか」
「いい女ですよ。永田はいままで何人も愛人がいたようなんですが、いまは浅木詩織だけです。ぞっこんなんでしょうな」
「話は変わりますが、永田の家族構成はどうなっているんです」
「糟糠の妻と娘がひとり。永田はね、もともと父親がやっていた小さな飲み屋を引き継ぎ、いまの雲海グループにしたんです。根っからのバカではないんでしょうな。そのときに一緒に苦労したのがいまの妻ですよ。それがいまはほとんど別居状態ですよ。金持ちになると変わるんですな。まあよくある話ですけどね」
「娘がいるんですか」
「愛娘ですよ。溺愛ですよ。娘がいるから離婚をしないといえるかも知れません。たしか小学生ですよ。六年生だったかな。ねえ、影浦さん、永田の唯一の弱点はその娘ですよ」
「なにがいいたいんです」
「いや、ただの世間話ですよ」
「なんだか生臭い話に聞こえましたよ」
「ははは、深い意味はありません。聞き流してください」
「もちろん聞き流しますよ」
「ははは、本当におもしろいかただ、あなたは。それで永田正勝を見張っていた理由はなんです」
「そういうあんたこそなぜ永田正勝を見張っていたんです」
 反射的にいってしまったあとでしまったと思った。永田正勝を見張っていたと白状したようなものだ。相変わらず笑っているような見城一郎の顔のせいかも知れない。どうも拍子抜けする。こうなったらある程度は認めるしかない。
「私が永田を見張っていたとよくわかりましたね」
 見城一郎がニタニタと笑いながらそう聞いた。
「それはわかるでしょう。これでわからなかったらよほど間抜けな探偵だ」
「……なるほど。わかりました。では言い出しっぺの私からお話しします」
 そういうと見城一郎は鼻を鳴らした。コーヒーのにおいに気がついたようだ。人がよすぎる私はつい飲むかと聞いてしまった。やつは大きくうなずいた。私はデスクの椅子から重い腰を上げ、自分を呪いながらキッチンに行くと、サイフォンからまだ残っているコーヒーをどうでもいい客用に取ってある古びたコーヒーカップに注ぎ、見城一郎に渡した。やつはひとくち飲み、満足そうにうなずいた。私はデスクに戻り、マグカップを手に取った。
「さて、どこからお話ししますか……では政治の話からにしますか……永田正勝には政治家の友達がいましてね」
「知っていますよ。名前は藪中弘文。保守党の代議士で官房副長官でしょう」
「ほう、よくご存じで。では永田と同じ四十八歳で、同じ大学の学友だというのも?」
 朝倉からの受け売りだが、こんなときに役に立った。私は知っているのは当然というように深くうなずいた。見城一郎は感心したようにもう一度ほうといった。
「それならば話は早い。永田はね、次期衆議院選挙に出るらしい。友達の藪中代議士の影響なんでしょうな。最終目標を政治家に決めたようです。それで、永田は自分の地元の選挙区から出たがっているようなんです。ところがそこには保守党の現職がいる。保守党の重鎮です。本来なら出られやしない。だがその現職は引退して次期選挙には出ないという噂があるんです。そうなるとチャンスだ。友達の引きもあるでしょう。保守党に献金もしている。党の覚えもめでたい。公認を得られる可能性は大だ。しかし有力なライバルが現れた。現職の秘書です。もしかしたら公認争いで負けるかも知れない。そんなとき、突然そのライバルが死んだ。急死です。原因不明の心停止です。まだ四十代前半の若さですよ。前日までピンピンしていたと聞きます。なんだかきな臭いでしょう」
「それであんたは永田に眼をつけた」
「ジャーナリストの嗅覚というんですかな。だがもうひとつある」
「ほう、なんですかそれは」
「最近永田のまわりに屈強な男たちが集まっている。まるでボディガードのようなんです。不思議でしょう。まあ、仕事で敵は多いと聞きます。でもボディガードはいくらなんでも大袈裟だ。影浦さん、男たちはどんな素性だと思います」
 くだんのマンションでみかけた男たちのことだとわかったが、まだ魔人かどうかはわからない。だとしても、まさか魔人でしょうとはいえない。私はわからないといった。
「それがね、私もわからないんですよ」
 椅子から転げ落ちそうになった。
「なんだ、あんたもわからないんだ」
「いまのところはね。それで私が知っているだけでも男たちは四人います。全員二十代で体育会系です。普通に考えるとどこかの警備会社の者だと思うでしょう。だが調べたがどうも違う。あるとき、そのなかのふたりをつけたことがあるんです。ふたりは鶴見の古くて汚いアパートに入ったんです。どうやら一室にふたりで住んでいるらしい。ところがね、翌日そのアパートに行ってみると、いないんですよ」
「いない?」
「引き払っていたんです。おかしいでしょう」
「そいつはおかしい」
 ちっともおかしくない。やはりそいつらは魔人だ。つけられているのを察知してアジトを変えたに違いない。
「そうそう、ボディガードのような男といえばこんな話もありますな。伊豆高原に雲海グループの保養所があるんですが、最近体育会系の男たちが頻繁に出入りしているんです。それも結構まとまった数の男たちですよ」
「社員の研修だったらあり得るでしょう」
「私も最初はそう思ったんですが、どうも様子が違うようなんです」
 見城一郎が意味ありげに私をみた。私は興味がなさそうな顔をした。だが心のなかでは、そいつはおもしろい、と声をあげていた。
「永田はなにかの結社とかカルト教団とかに関係していることはないんですか」
「ないですな。調べたが一切出てこない」
 そいつらは魔人だ、といえないところが苦しい。
「影浦さん、あなたは知っているんでしょう」
「なにを?」
「男たちの素性ですよ」
「素性を?」
「どうです。知っているんでしょう」
「知るわけがない」
「私には知っているという顔にみえるんですがね」
 締まりのない顔をしているが、なかなか油断ができないオッサンだ。
「まあ、いいでしょう。では今度は影浦さんの持っている情報を教えていただきましょうか。いわば情報交換ですよ」
「コーヒーのおかわりは?」
「もう結構」
 困った。なんといえばいいのか。そのとき、タイミングよくノックの音が聞こえた。
 私の背中がザワザワとした。カイがきたと思った。私は元気よく返事をした。入ってきたのはカイとララだった。私は救われた。満面の笑みで彼らを迎えた。
「お客さんでしたか。では出直しますか」
 カイが見城一郎をみながらそういった。
「その必要はない。こちらのかたは用事がすんでもうお帰りになるところだ。そうですよね」
 私がそういうと、見城一郎は苦笑いを浮かべた。
「ではそうしましょう。影浦さん、またお会いしましょう」
 見城一郎が私に会釈をしたあと、カイとララにも会釈をして悠然と事務所を出て行った。
「悪いときにきてしまったようですね」
 カイが申し訳なさそうな表情でそういった。
「そんなことはない。実はいいタイミングだった。ちょっと困った客で早く帰ってほしいと思っていたところなんだ」
 ララが声を上げて笑った。私はふたりにソファーに座るようにいった。
「なにか飲むかい。といってもコーヒーぐらいしかないが」
「結構です」
 カイがいった。
「私も結構」
 ララがいった。
「差し支えなければ教えてください。いまのお客さんはどなたです」
 カイがむずかしい顔をして聞いた。
「週刊誌の記者だよ。ちょっとした縁で知り合った」
「名前は?」
「見城一郎」
「ララも感じたか」
 カイがララに向かって聞いた。ララがうなずいた。
「なんだい?」
 むずかしい顔をしているカイに聞いた。
「本当に週刊誌の記者ですか」
「名刺をもらった。たぶんそうだと思うが……ちょっと待ってくれ。もらった名刺をみせるよ」
 私はバッグから見城一郎の名刺を取り出しカイにみせた。カイは名刺を一瞥し、ララにもみせたあと私に返してよこした。
「なにか不審な点でもあるのか」
「一瞬ですが、ただ者ではないような感じを受けました」
 ララが横でうなずいた。
「あの締まりのない顔のオッサンが……」
「なにか特別なオーラのようなものを感じたんです」
「嘘だろう」
「たぶん人間ではないわね」
 ララがいった。
「それは違うだろう。私の背中のセンサーはなにも反応しなかったぞ」
「それはどうかしら。特殊な能力で気配を消したのかも」
 そういえばクレープがいっていた。お上は気配を消すことができると。ということはあいつがお上なのか。だが以前会ったときとナリが違う。もしかしたらナリを変えることができるのか。悪い冗談だ。
「お上という可能性はあるか」
「さあ、どうかしらね。カイはどう思う?」
「魔界の者はお上を知りません。だからなんともいえませんが、なにか違うような気がします」
「魔界の者という可能性はどうなんだ」
「私は知らないわ。カイはどう?」
 カイが考え込んでいた。
「どうしたのカイ?」
「うん? ああ、ごめん。ちょっと考えごとをしていた」
「この話はもうやめよう。いつまでたっても堂々巡りだ」
「わかりました。影浦さんのいうとおりこの話は堂々巡りです。この辺でやめましょう。それで、なにかお話があるということでしたが」
 私はまず雲海グループのことを知っているかと尋ねた。カイは知らないと答えた。そこで雲海グループの説明をした。そのあと雲海グループ所有のビルで偶然ギリに出くわしたことを話してふたりの反応をみた。
「私たちにはシンパの人間がいます。もちろん反乱グループにもシンパの人間がいます。だから雲海グループがそうだったとしても驚きはありません」
 カイはそういった。私は続けて、雲海グループのことが気になったのでその会長の永田正勝が愛人のマンションにくるところを張り込んだこと。屈強の男ふたりがボディガードのように張り付いていたこと。そのとき見城一郎も永田正勝を張り込んでいたこと。そして見城一郎が近づいてきて永田に眼をつけた動機を話してくれたこと。さらに見城一郎が提供してくれた重要と思われる情報のこと。それらを順序立てて話した。ただし、魔界の入口で男と死闘を繰り広げたことは話さなかった。
「永田正勝についている男たちというのは間違いなくギリの配下ですね」
 屈強の男の人相を聞かれたので話すとカイはそう断言した。
「やはりそうか」
「間違いないと思います。雲海グループ会長の永田正勝は間違いなく反乱グループのシンパとみていいですね」
「永田正勝じたいが魔人という可能性は?」
「それは違いますね」
 ララもカイに同意した。
「見城一郎さんが永田に眼をつけた動機が気になりますね」
「永田と公認争いをしていたライバルの急死のことだな」
「そうです。もしかしたらギリの仕業かも知れません」
「ギリだったらそのぐらいは簡単にできるということか」
「病死にするぐらい簡単にできますね」
「危険なやつだな」
「ギリは相当危険です。ですからこれからは迂闊に近づくことはやめたほうがいいです」
 カイが忠告してくれた。
「わかった。私も命が惜しいからな」
「ところで影浦さんはなぜ雲海グループに眼をつけたんです」
「前に失踪した冥府導使のことを話したことがあっただろう」
「ワッフルという冥府導使ですね」
「そうだ。そのワッフルが失踪する前に雲海グループ所有のビルを見張っていたという情報をつかんだんだ。それで気になって張り込んだ」
「そこでギリに出くわしたのね」
 ララが聞いた。
「そうなんだ。みてすぐにギリだとわかったよ。ギリはビルを出てすぐにタクシーに乗った。あとをつけるつもりだったが、タクシーがつかまらなかったので追跡は断念した」
「そのほうがよかったですよ。それよりも、なぜ冥府導使が登場するのか気になりますね。でもいまは置いときましょう。また堂々巡りになりますからね」
「わかった。ついでにいうと、きみたちにはまだ話していないが、その雲海ビルの近くの中華料理屋に松永みどりとギリが食事をしている」
「それはいつ?」
「六日だ。きたのはその一回だけらしい。ところで松永みどりの居所だが、いまの状況はどうなんだい」
「残念ですが、まだつかめていません」
「なにかわかったら教えてくれ。それでカイたちはこれからどうする」
「見城一郎さんが話した伊豆高原の保養所が気になります。すぐにでも行ってみます」
「私もついて行っていいか」
「それはお断りします。危険すぎます。結果は必ず報告しますのでこちらで待っていてください」
「わかった。そうするよ」
「影浦さんは意外と武闘派なのね」
 ララが私の顔をみてそういった。おもしろがっているような顔だ。
「冗談じゃない。私はこれでも頭脳派だ」
「そういえば、魔界の入口で反乱グループの死体がみつかったのよ。みつけたのはわれわれ側の者なんだけど、死体を検分した者がいうには、鮮やかな手口だというのよ。でもやったのはわれわれではないの。やったのはだれだと思う?」
「私に聞いているのか」
「ええ」
「私が知るわけがない」
「本当?」
「ああ、おおかた反乱グループの仲間割れじゃないのか」
「そんな噂はないわ」
 表情を読まれないように気をつけた。
「そんなことよりも、伊豆高原のほうは充分に気をつけてくれ」
「わかりました。ではわれわれはこれで失礼します」
 カイとララが事務所を出て行った。そのあと私はようやく遅い昼飯にありついた。
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