32

文字数 6,075文字

       32

 四月に入った。一転して寒い日になった。朝倉からまだ連絡はない。連絡をひたすら待つ。私から催促はしない。それが私の日常だ。
 昼食は散歩がてら少し遠出をしてチャーハンを食べた。食べながら松永みどりのことを思い出した。これからもチャーハンを食べるたびに松永みどりを思い出すに違いないと思った。
 天気が変わった。雨雲が出てきた。雨になるかも知れない。天気予報をみてこなかったことを後悔した。急いで事務所に戻った。
 事務所のドアの前にきたときに、背中がザワザワとした。なかに入ると、ソファーにワッフルが座っていた。今日はエイプリルフール。本物か。もう一度確認した。本物だ。
「鍵が開いていたから勝手に入ったわ」
 甘い声がまたいい。エクレアは海外ファッションモデル形の美形だが、ワッフルは和服モデル形の美形だ。甲乙をつけがたい。
「いつでも歓迎だ」
 クレープの場合は、事務所の空気がどんよりと重く、得体の知れないにおいで息が詰まるが、ワッフルの場合は、事務所の空気も軽く、草原にいるような爽快感を覚える。
「あなたのことはクレープに聞いたわ。無理難題を押しつけられたようで申し訳なかったわ」
「そんなことはない。失踪調査も私の重要な仕事だ」
 グレーのパンツスーツで決めている。どこからみてもOLだ。嫌いではない。
「ところで今日は?」
「なぜ親子と一緒だったのか聞いたでしょう。その質問に答えるためにきたのよ」
 廃墟から逃げたときに聞いたことを思い出した。
「ところでコーヒーでもどうだい」
「……そうね、コーヒーだったらいただくわ」
「それはそうと謹慎中だと聞いたが」
 キッチンに行きながら聞いた。
「お上から急に許しが出たのよ」
「じゃあ処罰もなしか」
「そうみたい」
「それはよかった。お上が心変わりした理由は?」
「さあ、知らないわ。クレープも驚いていたわ」
「いずれにしてもよかったじゃないか」
 私は水を沸かし、普段は使わないでしまってあるとっておきのコーヒーカップを出した。
 申し分のない香りのする淹れたてのコーヒーを私のマグカップとコーヒーカップに注いだ。
「砂糖とミルクは?」
「いらないわ」
 ワッフルにコーヒーカップを手渡し、私はマグカップを持ってデスクにまわった。
「なるほどおいしいわ。マドレーヌのいうとおりね」
 ひとくち飲んでワッフルがそういった。
「これはだれにもいったことはないが、数種類の豆を自分でブレンドしているんだ。その内容は企業秘密だからいえないがね」
「一点豪華主義というわけね」
 ワッフルは事務所のなかを見回しながらちょっと皮肉っぽいことをいった。しかし私に皮肉は通じない。だから私は怒らない。
「それではなぜ親子と一緒だったのか聞かせてくれるか」
 デスクの椅子にゆったりと腰掛け、聞いた。
「芹澤親子と一緒にいたほうが安全と判断したからよ」
「それは親子の安全ということだな」
「そうよ。私ではなく親子の安全を考えてのことよ」
「すると親子と一緒にいたほうがいいと考えてわざと拉致されたということか?」
「そうよ。順序立てて話したほうがいいようね」
「そうしてくれ」
「あとでクレープから聞いた話なんだけどね。なんでも、二月のなかごろに魔王から話があったんですって。クレープによ」
「ちょっと待った。クレープは魔王と知り合いなのか?」
「詳しいことは知らないけど、どうやらむかしからの知り合いらしいわ」
「住む世界が違うのに?」
「めずらしいことだけど、そうらしいわ」
「そうなのか。わかった。話を続けてくれ」
「話といってもね、依頼だったというのよ。それは、松永みどりがギリと会っていないか調べてほしいという依頼なんですって。あなたも知っているとおり、魔界が騒動でにっちもさっちもいかなくなっているときでしょう。そんなとき、反乱グループの参謀のギリが松永みどりに接触しているらしいという情報を魔王がつかんだらしいのよ。魔王は魔界から離れられないので信頼できるクレープに頼んだというわけね」
「ちょっと待った。魔王はなぜカイに頼まなかったんだ」
「カイには内緒にする理由があったのよ。なぜって、カイは松永みどりに対して全幅の信頼を持っていたのよ。それで芹澤親子をガードするために人間界に送り込んだのよ。それをギリと会っているかも知れないから調べろといっても、冷静に判断できるかどうか怪しいでしょう。もっとも魔王もまだ確証はつかんでいなかったらしいのよね。だから中立的なクレープが最適だったんじゃないかしら」
「それでクレープは引き受けた。お上に内緒で」
「ああみえても頼まれたら嫌とはいえないタイプだそうよ。顔に似合わずね。といってもクレープも身軽に動けるわけがないから比較的動ける私に振ってきたのよ」
「クレープはあんたにはなんて説明したんだ」
「魔人である松永みどりがある男と会っていないかどうかさぐってくれ。そういうことね。男の人相も聞いたわ」
「あんたは簡単に引き受けたのか?」
「最初は渋ったんだけど結局引き受けたわ。クレープはボスだからね。しようがないわ」
「単調な日常にちょっと刺激もほしかった。違うか?」
「あら、よくわかるわね。ちょっとおもしろそうでしょう」
「そこまではわかった。それであんたは行動を起こしたんだな」
「私も本来の仕事があるから最初から気合いを入れていたわけではないのよ。だけどターゲットの松永みどりが急に退職したでしょう。それで慌てて身を入れたわけ」
 優雅に座っているワッフルの手もとのコーヒーカップをみると空になっていた。
「お代わりはどうだい」
「いただくわ」
 私は身軽に立ち上がると、自分のマグカップとワッフルのコーヒーカップを手にキッチンに行った。そしてサイフォンに残っていたコーヒーをふたつのカップに注ぎ戻った。
「松永みどりが住んでいたアパートに聞き込みに行っただろう?」
 ワッフルにコーヒーカップを手渡しながら聞いた。
「隣の部屋の主婦でしょう」
「そうだ。そのとき、クレープの写真を主婦にみせて、松永みどりのところに訪ねてこなかったかと聞いただろう。あれはなぜだ?」
「ああ、そのこと。深い意味はなかったわ。最初はクレープがお上の密命を受けて動いていると思ったの。ところがどうもお上は関係ないらしいとわかったのよ。そうなるとクレープがなぜ魔界のなかのことに首を突っ込むのか、不思議に思ってね。私になにか隠しごとをしているのではと思って、それでさぐりを入れたというわけ。だけど調べるとクレープはぜんぜん動いていないのよ。私に丸投げだったの」
「それはやつの得意技だ」
「そのあとクレープに問いただしたら、魔王の依頼だったと話してくれたわけよ」
「ちょっと聞くが、アパートに聞き込みに行ったときには芹澤親子のことは知っていたのか」
「知らないわ。クレープも知らなかったんですってよ。それでね、芹澤親子については私はミスをしたわ」
「ミス?」
「そうよ。いまでも悔やまれるわ」
 ワッフルがそういって下唇を噛んだ。
「詳しく話してくれ」
「長津田の中華料理屋で松永みどりが男と会っていたことを知ったの。その男がどうもギリらしいとわかったけど確証はなかった。そのあと蒲田の雲海ビルにギリらしい男が出入りしていることを知って蒲田に行ったわ。その駅で中年の男がそばに寄ってきて松永みどりが雲海ビルにくることを教えてくれた」
「その男は魔界の見張番だよ」
「あとで知ったわ。そのときは魔王の使いだと名乗ったわ。それで雲海ビルを見張っていると彼女がきたわ。それでどうやら間違いないと思ったわ。でもね、彼女とギリが直接会っているところをみていないのでもう少しはっきりしたらクレープに報告しようと思ったのよ。それが私のミスだったの。そのときにクレープに報告していれば親子の拉致は防げたかも知れないわ」
「クレープに報告したのはいつなんだ」
「親子が拉致される当日のお昼すぎよ。拉致される六時間ほど前ね。クレープから例の件はどうなっていると聞かれたの。そこでいままでの経過を話したわ」
 ワッフルは空のコーヒーカップをソファーの前の小さなテーブルの上に置くと、足を組み替えた。
「クレープは私から聞いてどうするか考えていたけど、とりあえず魔王に結果を伝えることにしたんですって。そこで魔王から芹澤親子のことがはじめて話題に上がったらしいわ。それをまた私が聞いて親子のことを知ったんだけど、私は危ないなと思った。親子がよ。親子をガードする役目の松永みどりがもし裏切ったのなら、反対勢力のグループから狙われるのは親子でしょう。それに魔王の息子のカイも松永みどりの裏切りに気づいていないふしがあったしね。その時点で私の取るべき道はふたつあった。ひとつはカイに知らせること。でもカイと会ったことはないし連絡する手立てもなかった。もうひとつは親子の様子を見守ること」
「だんだんみえてきた。あんたは後者を選んだ。そして親子が拉致される現場にいたんだな」
「そうよ。私が親子のアパートに着いたとき、ちょうど親子が車に連れ込まれているときだった。あとで知ったんだけど、魔王から連絡を受けたカイはひと足違いだったようね。それで咄嗟に私はその車に飛び乗ったの」
「ずいぶん思い切ったことをしたものだな」
「私のミスのせいで親子が拉致されたと思ったら自然と体が動いたのよ」
「向こうはあんたが乗り込んできたので驚いただろう」
「吃驚していたわ。向こうは屈強な男たちが五人。私が冥府導使だとわかってもう一度吃驚していたわ」
「ちょっと待ってくれ。冥府導使のあんただったら五人なんて簡単にやっつけられるだろう」
 ワッフルがフフフと笑った。
「一瞬私もそう思ったわ。でも向こうはナイフを持っていて切っ先を親子に向けていたわ。だから親子の安全を第一に考えて、ここはおとなしくしているほうがいいと判断したの。それとね、実をいうと、なぜクレープが魔界のなかのことに首を突っ込むのかがどうしても引っかかっていて、もしかしたらクレープの狙いが別にあるんじゃないかとそう考えて、さぐってみようと思ったの。私が一緒に拉致されたらそれがわかるんじゃないかと一瞬考えたのよ。でもあとでわかったんだけど、クレープに深い考えなどぜんぜんなかったのよ」
「そうだろうな」
 ワッフルがフフフと笑った。
「それで?」
「それでね、向こうも私が車から降りる気がないとわかったからそのまま拉致よ。しようがないな、とぼやいていたわ。なんだか笑えるでしょう。もちろんそのあとも親子の安全が第一だったわ。強行突破も考えなくはなかったけど、親子になにかあると困るので私は親子の盾に徹しようと思ったの。いずれは魔王のグループが助けにきてくれると信じていたから不安はなかったわ」
「親子と一緒だったことがそれでわかった。だけど、あんたがいなくなったんでクレープも驚いただろうな」
「まさか親子と一緒だなんて思わないから途方に暮れたみたいね。私の失踪がお上に知られることになり、お上は餅は餅屋でということで、探偵のあなたを指名したでしょう。クレープは困ったらしいわ。私がみつかると私的な用事で使ったことがバレるでしょう。かといってこのまま知らぬ顔の半兵衛を決め込むこともできないでしょう。そんなジレンマでクレープは悩んだようね」
「偉そうな口を利いているが意外と小心者なんだな」
「あの顔でね」
 ワッフルがまたフフフと笑った。
「ところで、連れ込まれたのは伊豆高原の保養所か?」
「ええ、そこよ」
「危害を加えられることはなかったか?」
「それはなかったわ。彼らも気を使っていたわね。テレビはさすがに駄目だったけど、漫画本や雑誌もあったし、食べ物も充分だったわ」
「子供はともかく、芹澤友子さんは拉致された原因をどう考えていたんだ」
「ギリやグループの男たちに詰め寄っていたけど、彼らはだんまりよ。そのうち彼女も諦めておとなしくしていたわ」
「不安だっただろうな」
「ええ、最初は泣き叫んだりして大変だったわ。私はそんな彼女たちといろいろな話をして気を紛らわせることに専念したわ」
「あんたは常に親子を励ましたそうだな。芹澤友子さんは感謝していたよ」
「そう思っていたのなら嬉しいわ」
「そこにはいつまでいたんだ?」
「十日ほどね」
「そのあとは館山の別荘だな?」
「そうよ。なにかを感知したんだと思う。ギリの命令で慌ただしく移動したわ」
「そういえば別荘でニンニクをみつけた。本当は効果なんてないんだろう?」
「ないわ。冥府導使はニンニクが弱点という迷信を魔人が信じているので利用させてもらっただけよ」
「あとでその話題が酒の肴になったんだって?」
「そうよ。盛り上がったわ」
「迂闊にも信じた自分が悪いんだが、おかげでこっちはとんだ赤っ恥をかいたよ。マカロンからキツイひとことも食らったしな」
「なんのこと?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
「マカロンといえば、あなたはずいぶんと仲よくなったんですって」
「あの小娘、じゃあなかった、マカロンと?」
「ええ、あのマカロンと」
 あのマカロンといういいかたが気になる。懸命に笑いをこらえている表情も気になる。
「マカロンと仲よくなるのがそんなにめずらしいのか」
「そんなこともないけど」
 どうしても表情が気になる。
「あなたはマカロンに気に入られたようよ。それと本当の親子のようだと評判よ」
 マドレーヌあたりが言いふらしたに違いない。
「それは喜んでいいのか、それとも悲しんでいいのか」
「もちろん喜んでいいのよ」
 ついにワッフルが吹き出した。
「ごめんなさい」
「もしかしてマカロンは問題児か?」
「そんなことはないわ。ただちょっと個性が強いだけよ」
「余談だが、冥府導使のなかで一番キツイのはだれだ」
「それはマカロンよ」
 間髪を容れずに答えた。やはりそうか。
「クレープの花園神社事件のことは聞いた?」
「クレープにからんだ若者四人が、寿命を十年分ずつ吸い取られて花園神社の参道で倒れていたやつだろう」
「もし、あれがクレープではなくマカロンなら、若者四人は間違いなくミイラになっていたわ」
「そうだろうな」
「あら、もうこんな時間。そろそろいいかしら」
 ワッフルが時計をみて立ち上がった。
「わざわざありがとう。親子に成り代わって礼をいうよ」
「こちらこそ影浦さんには助けてもらったわ。なにかお礼をしなくてはね」
「あんみつが好物なんだってね。今度一緒にどうだい」
「よく知っているわね。いいわ。あらためてくるわね」
 ワッフルはそういうと颯爽と事務所をあとにした。なんだかさわやかな果実のような香りが残っていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み