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文字数 3,773文字

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 〈雲海荘〉と書いてあるアパートの前で車は止まった。ついてきていた黒のミニバンもうしろに止まった。
 上下合わせて四世帯の小さなアパートだった。まるで目立つことを嫌っているかのように、全体がくすんだ灰色だった。両隣に建つ大きくて綺麗なマンションに挟まれたアパートは、天敵から身を隠す小動物のようにじっと息をひそめていた。
「一階の左側が男たちの部屋で、右側が松永みどりの部屋よ」
 ララは説明したあとすぐに運転席から降りた。私とカイも続けて降りた。黒のミニバンのふたりも車から降りた。
「どうやら留守のようだ」
 部屋に明かりはなかった。
「でも油断しないでね」
 ララが私に忠告した。私はうなずいた。カイがララに近づきなにやら耳打ちした。どうやら作戦を指示したようだ。
「あの三人はどうした?」
 私は近くにいた若者のひとりに小声で聞いた。
「厳重に縛って猿ぐつわもしているから大丈夫です」
 聞かれた若者も同じく小声で答えた。
「じゃあ分かれて入るわよ」
 さしずめララは前線の隊長だった。本人もそれを意識しているようだった。ララとカイと私は松永みどりの部屋の前に立ち、残りの若者ふたりは男たちの部屋の前に立った。ララがドアのノブをゆっくりとまわした。
 ドアは簡単に開いた。鍵はかかっていなかった。左の部屋も鍵がかかっていなかった。私たちふた組は同時に部屋に入った。
 まっさきに部屋に入ったララが電気をつけた。六畳の和室だった。なにもなかった。ララが押し入れを開けた。空だった。隣は四畳半の和室だった。ここもなにもなかった。押し入れも空だった。ともに色あせたカーテンだけが残っていた。
「察して急いで出て行ったようね」
 ララの声に私とカイは同時にうなずいた。風呂場とトイレをのぞき、最後にキッチンをのぞいた。長津田のアパートでもそうだったように、ここのキッチンも汚れはなかった。やはりここでも炊事はしていなかったようだ。
「なにも荷物はありません。もぬけの殻です」
 隣の部屋から若者ふたりが合流した。
「だれかがやつらの荷物を持って行ったようです」
 若者のひとりがそう続けた。
「つかまえたやつらへのメッセージはあった?」
 ララの問いかけにふたりは首を横に振った。
 私はもう一度六畳の和室に戻った。天井、壁、畳を丹念にみた。きれいなものだった。畳には塵ひとつ落ちていなかった。松永みどりはよほどきれい好きだったとみえる。カイが四畳半のほうをもう一度調べている。なにもみつけられずに、私に向かって首を横に振った。
 カイがキッチンに戻った。私も戻った。ララが冷蔵庫を開けてみていた。小家族向けのツードア冷蔵庫だった。私もうしろからのぞいた。
 上の冷蔵室は見事なほどあっさりしていた。正面の棚には二リットルのペットボトルが四本、横にして置いてある。さらに二本、ドアポケットに立ててある。中身はミネラルウォーターだった。品物はそれだけだった。あとは、ドアポケットにある小物入れに無造作に入れてあるレシートの束だけだった。二十枚ほどある。コンビニのレシートだとわかった。ララが下の冷凍室を開けた。空だった。氷もなかった。
「松永みどりは本当に料理をしなかったんだな」
 私の問いかけにララはなにもいわず苦笑いで返した。
「でも、ああみえてもなかなか女らしいところがあるんですよ」
 カイがかつての部下をかばったのかどうかわからないが、そう弁護した。ララが呆れたような顔でカイをみた。ボディガードでお目付け役のようなララにしてみれば、頼りない上司と映っているのかも知れない。私もカイは魔王の息子としては優しすぎるのでは、と心配になった。人間の私が心配することではないが。
「ではここを出よう」
 カイがそういって外に出た。私たちも続いた。
「このアパートから中華料理屋まで歩いてどのぐらいだろう」
 私の問いかけにララが十二分ぐらい、と答えた。
「このあとはどうする」
「僕たちは自分たちのアジトに戻ります」
 私の問いかけに今度はカイが答えた。
「影浦さんは中央林間駅で降ろします。それでよろしいですよね」
「そこで結構だ。ありがとう」
 きたときと同じように私たちは白と黒のミニバンに分かれて乗り込んだ。
「うしろの車にいる三人はどうするんだ」
 気になったのでカイに聞いた。
「魔界に送り返します」
 送り返したあとどうするのだろうか。あえて聞かなかった。
「これからは頻繁に影浦さんに連絡を入れるようにします。連絡先を教えてください」
 私はカイに名刺を渡した。
「そこにある携帯の番号がそうだ」
「わかりました」
 カイは受け取り胸のポケットにしまった。やっと信用してくれたのかな、と思った。
「僕とララの連絡先を書きますので名刺をもう一枚ください」
 私は名刺を一枚抜いて渡した。カイは名刺の裏に自分とララの携帯番号を書いてよこした。私はそれを受け取りポケットにしまった。道路は混んでいた。二台の車は信号待ちを繰り返しながら駅に向かっていた。
「ひとつ聞いてもいいかな」
「なんです」
 カイが私のほうに顔を向けた。
「いまの魔界の様子はどうなんだ。反乱グループは手強いのか」
「いまの情勢は五分五分です。予断を許しません」
 カイの表情が引き締まった。
「反乱グループはなり振りかまわず攻撃にでる可能性があります。影浦さんも敵の知るところになりましたので充分に気をつけてください」
 それを聞いて、車に押し込められた記憶が蘇った。とたんに暗い気持ちになった。考えるまでもなく、これからは充分に気をつける必要がある。毎回ヒーローが現れることを期待してはいけない。それはわかっている。私は自分の細い腕をみて、ため息を止めることができなかった。着きました、というカイの声でわれに返った。中央林間の駅前に車は止まっていた。
「それではまた連絡します」
 カイはそういった。私はふたりに礼をいって車から降りた。切符売り場に向かいながら振り返ると、二台の車はスピードをあげて遠ざかって行くのがみえた。
 私は急に重く感じた体を持て余し気味に切符売り場へと運んだ。だが途中で何回も足が止まった。足が止まった理由はわかっていた。私は迷っていた。迷いながら切符売り場の前まできた。硬貨を投入しようとして完全に手が止まった。三秒後、私は切符売り場から離れた。もう迷うことはなかった。踵を返すと、急ぎ足でそのまま駅構内を出た。
 心の隅に小さなシミとなっていたのだろう。それがだんだん大きくなって無視できなくなっていた。思いすごしかも知れない。確認するだけだ。とそう自分にいい聞かせ、アパートに戻るため急いだ。
 一階のふたつの部屋には当然だが電気はついていなかった。私は慎重にまわりを確認してから、松永みどりの部屋の前に立った。なかにだれもいないはずだとわかっているが足が震えた。
 鍵がかかっていないドアをそっと開け、なかに入り、やはりドアをそっと閉めた。用心のため室内の明かりはつけなかった。幸い真っ暗闇ではなかった。街灯のうす明かりがキッチンの窓を照らしていた。人の顔も判別できないほどの頼りない明かりだったが、限りなく私を勇気づけてくれた。私は足元に気をつけ、手さぐりでキッチンに足を踏み入れた。
 目的は冷蔵庫だけだった。白い冷蔵庫は闇のなかでぼんやりと浮かび上がっていた。上の扉を開けると、冷蔵庫内の明かりが眼に飛び込んできた。少しうろたえるほどの明るさだった。
 中身は変わってはいない。ミネラルウォーターのペットボトルが六本あるだけだ。用はそれではない。ドアポケットにある小物入れに無造作に入れてある二十枚ほどのレシートの束だ。それをまとめて出した。
 上から順番に広げた。ララのうしろからのぞいたとき眼についたのはコンビニのレシートだったが、やはりそうだった。あらためてみると、住所と店名から近くのコンビニだとわかった。品名はミネラルウォーターだった。気にかかっているのはコンビニのレシートではなかった。
 コンビニのレシートが続く。やはり思いすごしだったか、と思ったとき、あった。八枚目だった。やはりあった。思いすごしではなかった。眼の端でとらえて記憶していたのだ。
 中華料理屋のレシートだった。またもや中華料理屋だった。それはかなり重要なレシートだと思われた。思ってもみなかった成果に自分でも驚いていた。
 問題は日付と住所だった。日付は三月の六日。芹澤親子が拉致される二日前だ。住所は蒲田だった。中央林間からはだいぶ離れている。品名はチャーハン二個とある。松永みどりともうひとり店にいたことになる。
 私はそのレシートだけを抜き取り、あとのレシートを戻して冷蔵庫を閉めた。とたんに暗さが戻った。同時に恐怖心も戻った。もし反乱グループが戻ってきたら、と考えると頭に血が上った。私は恐怖心と戦いながら、足音を立てないように、それでもできるだけ早足で部屋を出た。
 駅に着いたときは座り込みたいほど疲れていた。めっきり人が少なくなった駅構内を半病人のようにフラフラと歩いて、私は切符売り場に向かった。
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