第7話 その歌声が聞きたくて

文字数 7,879文字

 みんなの視線が綾を一斉に貫く。

 しかし、綾は微動だにせず、俺を見て……いや。俺ではなく、俺の背後に広がる夕焼けを茫洋としたまなざしで眺めている。

「お、お姉ちゃんが犯人なわけないじゃん! 貴志くんのばか!」

 美由は姉をかばい、俺を強く非難した。

「いいか、美由。この事件の犯人は『グローブを捨てることができた人物』だ。鍵を使った犯行でない以上、密室になる直前、あるいは密室でなくなった直後に犯行が行われた可能性が高い。この二つの条件のうち、一つでも該当する人物……それは綾と美由だけだ。だが、美由は犯人である可能性は低い……となれば、綾が犯人だと疑うのは当然だ」
「でも、お姉ちゃんと一緒に私もいたんだよ? 私の目を盗んで、机のグローブを切り刻むなんて無理だから!」
「美由の目を盗む時間なら、いくらでもあっただろう」
「無理だよ! だって、一緒に施錠して――」

 言いかけた美由の表情から、見る見るうちに怒気が抜けていく。

「施錠、姉妹で分担したんだったな? 校庭側の窓と、廊下側の窓をそれぞれが施錠した。その間、お互いの行動を確認しながら施錠したわけじゃない。つまり、綾は美由の目を盗んで行動できる。この数十秒間のアリバイはないさ」
「あ……あ……っ」
「施錠した後の話をしよう。美由は着替え終わった後にグローブの存在を確認したんだったな。そしてお前はこうも証言した。『着替え終わった後に施錠した』と。ややこしいから、時系列を整理しようか? 順番的にお前はまず着替えて、グローブを確認して、施錠して、教室を出たんだ。つまり施錠後、お前はグローブの存在を確認していない。結論。施錠中に犯行が行われたから、お前は気づけなかったんだよ」
「た、たしかに確認してないけど……でも、施錠する時間なんて、せいぜい十秒くらいでしょ? グローブを切り刻む時間なんてなかったもん!」

 かろじて持ち直した美由は、必死になって反論してきた。

「窓から外に投げ捨てる時間があれば常套だ。体育の時間中、トイレを理由にでも抜け出して切り刻めばいいんだからな。ちなみに、校庭側の窓を施錠したのは……綾だよな?」

 美由は言っていた。「綾と分担して施錠していた」と。それに「廊下側の窓の鍵が固かった」とも証言している。このことから、美由が廊下側の窓を、綾が校庭側の窓を施錠したのは容易に想像できる。

「お、お姉ちゃんはそんなことしない! 絶対しない!」
「気持ちはわかるが、事実は受け止めろ。犯行が可能だったのは、状況的に綾しかいないんだ。それとも、綾の体育時間中のアリバイを調べてみるか?」
「し、調べ……っ」
「本当はもう、自分でも気づいているんだろ? お前の姉が犯人だってこと――」
「もうやめてよッ!」

 オレンジ色の空に響く悲鳴。
 それはいつかの優しい夕焼けファルセットとは似つかない、痛々しい嘆きの声。
 叫んだのは美由ではなく、綾だった。俺に対してではなく、妹に対して「やめて」と言ったのだ。

「貴志くんの言うとおりよ。私が美由のグローブを切ったの。だから美由。私のことを犯人じゃないとか言わないで。こんな醜い私のことを……かばったりしないで」
「おねえ……ちゃん……」

 今にも泣き崩れそうな美由を無視し、綾は俺を見た。

「……動機、聞きたい?」

 そう、動機だ。状況は綾が犯人であることを示しているが、綾の犯行動機がわからない。
 ただ……。

「そりゃ気になるけど……妹の前だぞ。いいのか?」

 綾は静かにうなずき、話し始めた。

「私がソフトボール部を辞めたのは知っているわね?」
「ああ。二年生に進級してからだって言っていたよな?」
「そう。その直前、美由もソフトボール部に入部したのよ」

 それは静香から聞いた。たしか里中からエースの座を奪うほど上達したんだっけ。何にでも興味を持ち、すぐに極めてしまうというハイスペック少女だって言っていた。

「貴志くん。ここまで聞いて、ピンと来ない?」
「え? いや別に何も」
「ヒントはお弁当箱」

 弁当箱? そういえば、姉妹でおそろいだったな。よく姉の真似ばかりする、困った妹だと言っていた――あ。
 気づいてしまった。
 姉の抱える、切実なコンプレックスに。

「美由はね、小さい頃から私とよく遊んでいたわ。仲良しで、いつも一緒で、いつもおそろいだった。私がやることを、美由は無邪気に真似てみせた」

 いつも姉の後ろにくっついてくる、無邪気な妹。可愛いはずだ。もし俺にそんな妹がいたら、ぎゅって抱きしめて愛でているだろうな。

 だけど……そんな可愛い妹は、いつしか疎ましくなり、憎むべき存在になる。

「私が七歳の頃かな。私が水泳のお稽古を始めたら、その二か月後に美由も始めたの。お姉ちゃんがやっているのやりたいって、泣いて駄々こねちゃって。当時の私は、表面上は呆れていたけど、本当は嬉しかった。可愛い妹が私を慕ってくれて、幸せな気持ちでいっぱいだった」

 でもね、と綾。

「たった二週間よ。美由はそれまで泳げなかったのに、二十五メートルをクロールで泳げるようになった。そのとき、私はまだ二十五メートルを泳げなかったわ」

 過去を語る綾は、まるで鋭い棘に触れたみたいに痛々しい顔をしている。

「それだけじゃない。私が先に始めたピアノも、英会話も、全部美由に抜かれてしまった。勉強も、運動も、芸術も、妹の美由の方が姉の私よりも優れていた……わかる? 一生懸命打ち込んでいるのに、妹に一瞬で抜かれてしまうこの気持ちが」

 ただの嫉妬と言ってしまえば、それまでなのかもしれない。
 でも、綾にとっては根深い問題だったのだろう。そうでなければ、グローブを切り刻むという、悪質で陰湿な方法で仕返ししたりしない。

「美由に追い抜かれるたびに、まるで無能と言われている気分だったわ。とうとうソフトボールの実力まで抜かれて、私は生きた心地がしなかった……っ!」

 綾の目から涙がこぼれ、頬を伝って滴り落ちる。

「私だって本気でやっているのに! レギュラーになるために、一生懸命練習したのに! ソフトボールだけじゃない! 水泳も、ピアノも、全部! どうしていつもいつも妹に短時間で抜かれなきゃいけないの!」
「綾ちゃん! ちょっと言い過ぎだよ――むぐっ!」

 綾を止めようとした静香の口に人差し指を当てて黙らせた。
 たぶんもう、ここまで来たら、全部吐き出させたほうがいい。中途半端に膿を出して終わってしまったら、姉妹の関係は一生亀裂の入ったままだ。

「美由がソフトボール部でレギュラーの座に着いたとき、ふざけんなって思った! またかよって! いつも私を嘲笑うように追い抜きやがってって! 美由に抜かれるたびに、私の努力が全否定された気がして辛かった! 美由! あなたは何も知らないでしょうけど――」
「知ってたよ」

 美由の声は震えていた。
 口角だけを持ち上げた彼女の笑顔は、悲しみを誤魔化すには弱すぎた。

「美由……今、知ってたって言ったの?」
「うん。お姉ちゃんが私に真似をされるのが嫌だって、とっくに気づいてた」
「じゃあ、どうして私の真似をするの! どうして……私を追い抜いて嗤うのよ!」
「だって……お姉ちゃん、すごく楽しそうだったから」

 ……楽しそう?
 どういう意味だ?

 話が見えず、美由の次の言葉を待つ。
 やがて美由は話し始めた。

「お姉ちゃんね、新しいことに挑戦するとき、すごく楽しそうなの。でね、そういうとき、必ず歌を口ずさむの。水泳を始めたときも、ピアノを始めたときも、弾むようなメロディーを綺麗な声で歌うの」
「……美由? 何が言いたいの?」
「本当は私、お姉ちゃんの真似をしたいんじゃないの。お姉ちゃんの隣で歌を聞いていたかったから、お姉ちゃんと同じことをして、ずっと一緒にいたの」

 歌を聞いていたかった。
 ああ、そうか。俺たち軽音楽部は、少なからずその気持ちがわかる。
 何故なら、綾の歌声は――。

「お姉ちゃんの歌声は、いつだって煌めいていた」

 美由の目尻が下がり、本物の笑顔になる。涙でぐちゃぐちゃで汚いけど、でもたしかに、美由の笑顔はまぶしくて美しかった。

「水泳を始めたときは、ピンポン玉をいっぱいに詰めたカゴをぶちまけたみたいに、音が楽しそうに跳ねていた。ピアノを始めたときは、重たい灰色の空を押し上げるような、自由と勇気に満ちたマーチだった。英会話を始めたときは、秘密基地に宝物を隠した子どもの頃を思わせる、夢と希望を室内に響かせていた。ソフトボール部を始めたときは、聞いているだけで踊り出しちゃいそうな、躍動感のある歌だった」
「美由、違うの。私は――」
「そして……音楽室から聞こえたのは、歌が大好きって気持ちが伝わる、情熱的な夕焼けファルセット。いつもの楽しいって気持ちに加えて、歌を愛する感情が爆発していた。ねぇ、お姉ちゃん。お姉ちゃんが本当にしたいことって、歌を歌うことなんでしょう?」
「違うッ!」

 綾は慌てて否定して、耳を塞いだ。

「私は歌わない! 歌だけは、絶対に!」

 綾は耳をふさいだ。彼女の手は震えている。
 綾の歌声を聞いたあの日、綾は『私には歌しかない』と言った。あのときはわからなかったけど、今の俺たちなら綾の気持ちを察してあげることができる。
 きっと、綾はこう思っているに違いない。

「綾。お前、もしかして……自分の中で絶対の自信がある歌だけは、美由に真似されたくないと思っているんじゃないのか?」

 もしも美由に歌唱力まで追い抜かれてしまえば、自分は何をやっても無能で無価値……綾はそんなふうに思っているのかもしれない。

 綾は腕をだらんと力なく下ろし、「そうよ」と小さくつぶやいた。

「私の大好きなこと。それは歌。歌だけは美由に負けたくない。もし負けたら……私はもう自分を保てそうにない」

 綾は顔を手で覆って、ひっく、ひっくとしゃくり声を上げる。
 彼女の震える体を抱きしめたのは美由だった。

「お姉ちゃん、ごめんね。私、お姉ちゃんを苦しめているのがわかっていながら、お姉ちゃんと一緒にいたくて、ずっと真似してきた」
「……なんで美由が謝るの。私が全部悪いのに」
「そんなことない。私がお姉ちゃんにしてきたことは、酷いこと。だけど、お姉ちゃんも私に酷いことをした。これでおあいこだね」
「……許してくれるの?」
「うん」
「こんなに嫉妬深い姉なのに?」
「だって私、お姉ちゃんのこと大好きだもん。それから、お姉ちゃんの歌も」
「美由……ありがとう。ふがいないお姉ちゃんでごめんなさい」
「ふがいなくなんてないよ。小日向綾は、私の自慢の姉だもん」
「……昔からあなたは変わらないわね。私のこと慕ってくれて……大好きよ、美由」

 姉妹の溝が優しさで埋まり、二人の距離が本当の意味でゼロになる。随分と遠回りしたけど、好きなところも嫌なところも言い合える、真の仲良し姉妹になれたのだ。

 美由が「あのね、お姉ちゃん」と、涙声で言った。

「私、ソフトボールに真剣に打ち込んで極めようと思う。ソフトボール、すっごく楽しいから。もうお姉ちゃんの真似をしたりしないよ。だからもう、お姉ちゃんは悩まなくていい」
「でも……美由は私の歌が聞きたいんじゃないの? 私はソフトボール部に戻るつもりはないけど、それでもいいの?」

 綾の疑問の答えなら、美由でなくてもわかる。
 姉を慕う妹なら、姉のやりたいことを応援するのは当たり前だ。
 綾。お前のやりたいことってなんだよ?
 お前の夢を応援する……美由はそう言っているんだ。

「お姉ちゃんは好きなことを……歌を歌いなよ。私がお姉ちゃんの真似をして一緒にいなくてもいいように、大好きな歌を歌って? そうすれば、ずっとお姉ちゃんの歌声を聞いていられるもの。私、それが一番うれしいな」

 妹の優しい言葉が屋上を包み込む。
 堅牢な檻に閉じ込められた姉の心が、ゆっくりと鼓動を始めた気がした。

「う……あ……ぁっ!」

 その場で泣き崩れる綾を、美由はしっかりと支えた。子どもをあやすように背中を擦り、何度も何度も「お姉ちゃん」と囁き続けた。

 ふと「歌が上手い人アンケート」を取ったときのことを思い出す。
 推薦があったのは、たった一人。

『えー、貴志くん知らないの? お姉ちゃん、すっごく歌が上手いんだよ! ぜひ軽音楽部でボーカルやってほしいな!』

 そう言って、綾をうちのボーカルに推薦したのは美由だったっけ。

「なんだかんだで、いい姉妹だよな……」

 俺のつぶやきは、夕焼け空に吸い込まれて溶けていった。

 ……これ以上、俺たちがいたら邪魔だろうな。
 誰が何を言うでもなく、俺たちは黙って屋上を出たのだった。


 ◆


 チッ、チッ、チッ、チッ。

 耳朶を打つのは、ハットの奏でる四分打ちカウント。演奏開始の合図だ。

 この楽曲はバスの音が目立ちやすい。つまり、俺が主役だと言っても過言ではない。
 俺は得意のゴーストノートをぶちまかした。楽譜には写らない、幽霊の音。音符の間に挟まる微かなアタック音が、心地よいグルーヴを生んでいる。
 大輔のドラムがノッてきた。リズムのノリが格段にアガる。そして俺たちが奏でたリズムの上を、静香のギターが軽快に駆け抜けていく。
 イントロが終わり、Aメロに入る。

「――――」

 マイクに口を近づけて喉を震わせる。俺のエモい歌声よ、この空間に強く響け――。

「ストーップ! やっぱり貴志の歌声じゃ駄目だ!」

 演奏の途中で、大輔がシンバルを滅茶苦茶に叩いた。この展開、デジャビュである。

「おい大輔。せめてサビまでやらせろよ」
「無理。サビまで俺の耳が耐えられない。きっと鼓膜が爆発する」
「しねぇよ! 静香! お前も大輔に何か言ってやれ!」
「そうだね。苦痛なだけで、私も爆発はしないと思う」

 いや天然か。論点は「爆発するか否か」じゃないっての。
 あと苦痛って言うなよ。静香に言われると、ちょっと傷つくだろうが。

 屋上での一件があった翌日の放課後、俺たち軽音楽部に日常が戻ってきた……というか、現実に引き戻された。そう、ボーカルが不在という問題と向き合う日々に、だ。
 休み時間などを使ってボーカルを引き受けてくれる人を探すが、未だに見つからない。

 はぁ……このまま文化祭ライブはできないのか?

 落ち込んでいると、

「……音痴ってレベルじゃないわ。もはや耳を破壊する兵器よ」

 いつの間に音楽室に入ってきたのか、入り口のドアのそばに綾が立っていた。誰が兵器だ、誰が。

「あ、綾ちゃん! こっちおいでよ!」

 静香が手招きすると、綾は「演奏は上手いのに、音痴とか笑える」と、俺を小馬鹿にしながらこちらに来た。余計なお世話だっつーの。

「で、今日はどのようなご用件で来られたのですか? 妹コンプレックスのお姉ちゃん?」

 嫌味を言ってやると、綾は申し訳なさそうにうつむいた。
 静香が俺を「もう! からかうの禁止っ!」と頬をふくらませて嗜める。そのリスのような可愛い顔を見て、俺と大輔はそろって笑った。

 昨日、綾が美由のグローブを切り刻んだ犯人だとわかってから、俺たちはあることを危惧していた。もしかして、姉妹の仲がギクシャクしてしまうのではないかと心配していたのだ。

 しかし、それも杞憂に終わった。二人はいつも通り……いや、いつも以上に仲良く登校してきた。美由は綾の腕に抱きついたまま教室に入ってきて、俺たちに笑顔で挨拶した。綾は少し迷惑そうにしていたけど、口元は緩んでいたので、二人の仲は円満なのだろう。

 というわけで、彼女のコンプレックスは解消された。少しくらいからかってもいいだろう。静香に怒られるから、もうやらないけどな。

「冗談だよ。よかったな、綾。美由とは上手くやれそうで」
「ええ。その……今回のことで、君たちには迷惑をかけたわね。本当にごめんなさい」

 綾が深々と首を垂れる。艶のある長い黒髪が動きに合わせて揺れ動く。

「いいんだよ、綾ちゃん。ね、貴志くん?」

 静香に同意を求められたので、笑顔で応じた。

「ああ。迷惑だなんて思ってないよ」

 綾はゆっくりと顔を上げ、「ありがとう」と感謝の言葉を口にして笑った。

「というか、わざわざお礼を言いに第二音楽室まで来たのか? 律儀なヤツだな」

 苦笑すると、綾の顔が見る見るうちに赤くなる。

「あ、いや。それだけじゃないの」
「ん? なんだ?」
「それがね、貴志くん。その、言いにくいんだけど」
「あ! もしかして、ボーカルをやってくれるとか? いやたしかにそれは言いにくいわ。あれだけやらないって言っていたのに、その理由が『妹に真似されて抜かれるのが嫌』だもんな」
「なっ……ち、違うわよ! 誰が軽音楽部なんかのボーカルなんてやるもんですか!」
「綾ちゃん……今、軽音楽部『なんか』って……」
「ああっ!? ち、違うの、静香ちゃん! 今のはついカッとなって思ってもないことを言っちゃっただけで、みんなの演奏技術はすごいと思う! 本当よ?」

 傷つく静香の隣で、綾が長々と言い訳をしている。ふふっ。必死すぎて笑える。

「あれ? 綾ちゃん。それ、何?」

 大輔が綾の制服を指さした。
 その先に視線を移すと、紙のようなものがポケットから出ている。

「いただき」

 俺は素早くそれを抜き取った。

「あっ、ちょっと!」

 綾が慌てて俺から紙を奪い返そうとする。そうはいくか。俺は逃げるように背を向けて綾をかわして紙を見る。
 紙は四つ折りになっていた。俺は綾に没収される前に素早く開く。大輔と静香が紙を覗き込むように隣に立った。

「これは……?」

 見間違えるはずもない。入部届けだ。そして記入欄には「小日向綾」という見知った名前が書いてある。
 振り向くと、綾の顔は真っ赤だった。

「……い、入れてよ! 私も君たちのバンドに入れて!」

 綾は涙目になりながら、恥ずかしそうに頼み込んだ。
 なんだ。綾のヤツ、口では軽音楽部に入りたくないとか言っておいて、本当は入部しに来たんじゃないか。素直じゃないヤツめ。
 俺は満面の笑みで言ってやった。

「だが断る!」
「な、なんでよ! 今いけそうな雰囲気だったじゃない!」
「だってほら、俺ってロックンローラーだし」
「意味わかんないわよ! というか、君たちのバンド、ボーカル不在なんでしょ? なら入れてよ!」
「だってお前、うちのバンド『なんか』に入りたくないんだろ? 無理矢理入れさせるのも悪いし。それに、うち『なんか』のバンド、綾の綺麗な歌声と釣り合わないよ。いいぞ、無理しなくて。お前はもっと上のステージで歌うといい」
「うっ……ううー!」

 声にならない声を上げて、地団駄を踏む綾。普段はクールな彼女だが、今はまるで駄々をこねる子どものようだ。うはは、何この子ちょー面白い!

 ふと視線を感じた。そちらに目を向けると、静香の怒気を孕んだ瞳に、怯える俺が映し出されている。

「貴志くん。いじわるするのはやめようね?」

 静香が笑顔でそう言った。ただし、目は笑ってない。額に血管がうっすらと浮かび上がっている。

「わ、わかってるよ、静香」

 俺は綾の前に手を差し出した。

「じゃあ、気を取り直して……綾。軽音楽部へようこそ。歓迎するよ。俺たちと一緒にステージに立って、最高の演奏をしよう」

 綾は安心したようにほっと溜息をつき、俺の手を握った。

「君たち! 文化祭ライブ、絶対に成功させるわよ!」

 その表情に迷いはない。自分の大好きなことに全力を賭すことを決めた、清々しい顔をしている。

 こうして俺たちは綾を迎え入れ、ようやくスタートラインに立ったのだった。
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