第8話 美しくないコントラバス

文字数 6,516文字

「お姉ちゃん、今日も部活?」

 放課後、学校の廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。
 振り向くと、私の妹――小日向美由がにっこりと無邪気な笑みを浮かべている。

「ええ。文化祭も近いし、これから練習よ」
「おー、やる気満々だね! ライブ、絶対に見に行くから!」
「ありがとう。最高の歌を届けるから、期待していてね」
「うん! 練習、頑張ってね!」

 美由は大きく手を振りながら、その場を後にした。私は美由のように大きく手を振るキャラでもないので、控えめに手を振り返した。

「美由は今日も可愛いな」

 隣で貴志くんが真顔で言った……いやなんで真顔? 怖いわよ。

「私の妹をいやらしい目で見ないで。汚らわしい」
「お前の中で俺はなんなの? 犯罪者なの?」
「ふん。似たようなものでしょ?」
「全然違う。あのな、俺はロックンローラーだぜ?」

 突然、エアベースを弾き始める貴志くん。口をすぼめて、「ぼぼぼっ」と謎の低音を口にしている。廊下で何をやっているんだ、この男は。

 文化祭まであと二週間。私たち軽音楽部は、文化祭ライブに向けて順調に練習を積み重ねてきた。技術の向上はもちろん、気持ちも本番が近づくにつれて高まっている。自信をもって言える……私たちの音楽は最高だと。

 文化祭ライブのことを考えていると、

「おや、小日向姉。今から練習か?」

 声をかけてきたのは、同じクラスの高見沢勘九郎(たかみざわかんくろう)くん。彼は美術部の部長を務めている。

「ええ。これから第二音楽室へ行くの……」

 答えつつ、ちらりと隣を見る。貴志くん。君、いい加減エアベースやめなさいよ。さっきから視界の端でうろちょろしているの、すごく邪魔。

「練習か。青春とは美しいものだな。だが、汗をかくことは美しくない」

 勘九郎くんが左右に首を振る。金髪ロングという派手な髪が、彼の頭の動きに合わせてはらりと揺れた。
 彼は背が高くて美形なのだが、中身がアレなのであまりモテない。どうアレなのかは、彼との会話を聞けばわかると思う。

「あら。私と違って、勘九郎くんは美しいのかしら?」
「当たり前だ、小日向姉。僕の美しさに気づけないとは……心だけでなく、目まで汚れてしまったか。哀れな子ブタよ、駅前の眼科へ行くといい。あそこの医師は優秀だ。美しい技術を持っている」

 どうして私の心が汚れたことになっているのよだとか。誰が哀れな子ブタよとか。技術が美しいって意味わかんないんだけどとか。ツッコミどころはたくさんあるが、全部無視する。まともに話すと疲れるからだ。

「あはは……まぁそのうち眼科に行くわ」
「うむ。いい心がけだ、小日向姉よ。君も僕のように美しくなりたまえ、子豚ちゃん」

 勘九郎くんはスキップで去っていった。くっ、殴りたい……!

「相変わらずだな、勘九郎は。綾、あまり気にするな。あいつは誰にでもあんな感じだし。子豚って言っていたけど、悪気はないと思うぞ? たぶん、あいつにとっては『かわい子ちゃん』くらいの意味だよ」
「貴志くん……君、人並み程度の優しさは持っていたのね。嬉しい言葉をありがと――」
「それに俺は豚好きだぜ? 鼻とかブサ可愛いよな」
「ぶん殴るわよ?」

 貴志くんが白い歯を見せて親指をぐっと立てる。こいつフォロー下手くそか。

「呆れた。よくもまぁ女の子を豚扱いできるわね」
「まぁまぁ。可愛いじゃん。綾も豚もさ」

 可愛いと言われて、一瞬胸がとくんと高鳴る。
 しかし豚と同列にされたことをすぐに思い出し、ほっぺたをぶん殴りたい衝動に駆られる……いや、まぁぶん殴れないんだけども。

「はぁ……まともに相手しないのが一番ね」

 軽音楽部のノリにも慣れた。真面目に貴志くんの相手をしていたら、疲れて練習どころではない。無視だ、無視。
 私は第二音楽室を目指して廊下を歩いた。

「待てよ、綾。俺も行くって」

 貴志くんの声が後ろからついてきた。
 私は振り返らずに、そのまま音楽室に向かった。


 ◆


「――――」

 最後のフレーズはビブラート。歌詞の母音を意識して喉を震わせる。
 しっとり揺れる、熱っぽいファルセットを吐き出した。自分の体が歌でバラバラになるくらい、第二音楽室に歌声を響かせる。
 メロディーは収束し、余韻と切なさを残してフェードアウトしていく。
 完全に音が消え、静寂に包まれた。
 微かに聞こえるのは、メンバーの荒い呼吸音。すべてを出し切ったのか、誰も一言も発しない。見回すと、みんなぐったりしている。

「……どうだった?」

 尋ねると、大輔くんが「すごくよかった!」と、両手に持ったスティックを拍手の要領で叩いた。

「さすが綾ちゃんだよな。サビで一気にテンション上がっちゃったわ。そのままトップギアで駆け抜けたって感じだよ」
「ありがとう。そのせいか、大輔くんのドラムは走り気味だったから、サビは少し抑えてね」
「あ、マジ? ごめんなさいでした……」

 大輔くんがしゅんと項垂れる。まるで飼い主に叱られた犬みたいで、ちょっぴり可愛いかもしれない。

「サビの部分、絶対速くなるよな、大輔は。練習量が足りないんじゃないの?」

 貴志くんがぼそっとつぶやく。はいはい。いいから君は黙っていて。

「静香ちゃんはコードをアレンジした部分、まだ慣れてない? 演奏中、微妙に遅れるときがあるわよね?」

 尋ねると、静香ちゃんは申し訳なさそうに顔を歪めて「そうなのー」と情けない声を漏らした。その表情は可愛すぎて、自然と胸の奥底から庇護欲がわいてくる。

「次の練習、合わせる前に、アレンジの部分をおさらいしてみる?」
「うん、お願いします。綾ちゃんの個人レッスン、ドキドキするなぁ。ちゃんとやれるかなぁ」
「「綾のドキドキ☆個人レッスン?」」

 エロ男子二人の声が綺麗にハモる。君たち、卒業するまで黙っていてくれる?
 呆れていると、第二音楽室のドアが開いた。

「おーい、軽音楽部ー。今日は延滞かい?」

 その言葉にハッとする。
 音楽室の壁にかかった時計を見る。まずい。吹奏楽部と交代の時間だ。
 第二音楽室は常に使えるわけじゃない。吹奏楽部を始めとした別の部も使うので、活動できる時間は限られている。今日の場合、前半は軽音楽部、後半は吹奏楽部が使えることになっているので、私たちは早く撤退しないといけない。

「ごめんなさい! 急いで片付けるから、先に入って準備していてくれる?」
「おっけー、綾っち。まぁそんなに慌てなくてもいいよ」

 そう言って入室してきたのは、クラスメイトでもあり、吹奏楽部の一員でもある日野裕子(ひのゆうこ)だった。
 彼女は二重でいつも眠そうな目をしている。そのせいか、外に跳ねるくせ毛は寝ぐせにしか見えない。ただし眠そうに見えるだけで、実際は授業中に寝ないし、あくびもしない。外見で人を判断してはいけない好例である。
 性格は気分屋で、少々のんびりしているところがある。今も私たちの使える時間は三分超過しているというのに、慌てるなと言っていた。他の部員は「軽音楽部、早くどけ」と思っているだろうに。

 彼女の担当楽器はコントラバス。彼女の身長をゆうに超える、大きな弦楽器だ。裕子の演奏技術に部員たちも一目置いているらしく、後輩からの信頼も厚いのだとか。

 ぞろぞろと吹奏楽部の部員が入室する。隣の音楽準備室に楽器を取りに行く人が大半だが、裕子は私たちの元に駆け寄った。

「綾っちー。文化祭目前だけど、調子はどう?」
「調子いいわよ。そういう裕子はどうなの?」
「あたしも調子いいよ。どれくらいいいかって、もうこんな感じー?」

 そう言って、彼女はエアギターを始めた。裕子の楽器、コントラバスよね。共通点、弦楽器ってだけで関係ない……って貴志くん! エアベースでセッションするのやめて!

「ねぇねぇ、裕子ちゃん! 聞きたいことがあるんだけど」

 静香ちゃんはギターを片付けつつ、鼻息を荒くしながら尋ねる。
 裕子はエアギターをやめて、静香ちゃんに向き合った。

「なんだい、静香っち」
「彼氏ができたって本当?」

 え、嘘。本当に? そんな素振り、全然見せなかったじゃない。
 ちらっと裕子を見る。彼女は照れくさそうに笑っていた。

「えー。弱ったなぁ。誰から聞いたんだよぅ」

 頬を赤く染め、ぽりぽりと指でかく裕子。やだ、これ完全に彼氏いるパターンじゃない……べ、べつに悔しくなんてないけどね。本当よ?
 それにしても、静香ちゃんって恋愛の話好きよね。校内のカップルの噂、よく知っているし。それなのに自分は鈍感で、大輔くんの好意に気づいていない。まぁアタックしない大輔くんも意気地なしだとは思うけど。

「裕子のヤツ、弱ったなぁとか言っているけど静香に聞かれて嬉しそうじゃん。もっと聞いてほしいって顔に書いてあるぜ……気に入らねぇな」
「貴志くん、あなたねぇ……」
「比喩じゃなくて、本当に顔に書いてやろうか。おい綾。油性ペン持ってこい」

 くだらないことを言う貴志くんをキッと睨む。彼は誤魔化すように鼻歌を口ずさみ、視線をそらした。

「相手は四組の小島壮太(こじまそうた)くんって聞いたよ?」
「静香っち、よく知ってるねぇ。うん、そうだよ。壮太と付き合ってます」

 友達の前で、彼氏を下の名前で堂々と言えるなんて……すごい。もし私に彼氏ができたとしても、恥ずかしくて言えないと思う。

 私の隣で貴志くんは「なんか面白くないな」と不機嫌そうな声音でつぶやいた。

「デレデレしてんじゃねぇよ。なんだその目と寝ぐせは。話しながら寝てんのかお前」

 例によって私は貴志くんを睨みつけた。彼は「し、失礼しました」と会釈して、そそくさと音楽室を出ていった。モテない男子代表の野次将軍め、やっと出ていったか。

「裕子ってね、こう見えて奥手でさぁ。なかなか壮太くんにアタックしなかったの。意外だよね」

 貴志くんに気を取られていて気づかなかったが、いつの間にか裕子の隣に藤川千秋(ふじかわちあき)が立っていた。

 千秋は背の低い小動物系の女の子。身長はおそらく百四十センチ強といったところか。しかも童顔で、見た目は完全に小学生だ。制服さえ来ていなければ、小人料金でバスに乗れてしまうだろう。
 彼女とは今は違うクラスだけど、一年生の頃は同じクラスだったので知っている。その小柄な見た目とは裏腹に、かなりイケイケな性格で、のんびり屋の裕子と馬が合うのか、二人は大の仲良しだ。
 ちなみに、千秋の担当楽器はユーフォニアム。中低音を担う金管楽器で、柔らかくて丸みのある音色が特徴だ。

「裕子ってば、彼の前だとウジウジしちゃってさ。なかなか恋愛に発展しないから、見かねた私がサポートしてあげたんだよ」
「えへへ。千秋には感謝してもしきれないよぅ」
「何幸せそうな顔してんのよ。ムカつくなぁもう」

 千秋は肘で裕子のわき腹を突いた。ムカつくと言いつつ、千秋の表情は柔らかい。二人の仲の良さがうかがえる。

「裕子ちゃん、すごいねぇ。部長だし、後輩からの信頼も厚いし、勉強もできるし、恋愛まで上手くいくなんて」

 静香ちゃんが尊敬のまなざしを裕子に向けた。
 ……え? この子、こんなにのんびりしているのに部長だったの? しかも勉強できたの? 全然知らなかった。

「そんなことないよぅ。恋愛は完全に千秋のおかげだし」
「すごいなぁ。千秋ちゃん、恋愛マスターなんだぁ」

 今度は千秋にキラキラしたまなざしを送る静香ちゃん。視線を受けた千秋は「いや、私自身は経験ないんだけどね……ほら、私って見た目ガキだし」と困ったように笑った。

「千秋ちゃん、裕子ちゃん。今度またガールズトークしようね」

 静香ちゃんはギターケースを背負って、二人に手を振った。私と大輔くんも彼女に習って手を振り、退室した。


 ◆


 翌日の放課後、私たち軽音楽部は下校せず、朝から降っていた雨が弱まるのを待っていた。
 しかし、雨は勢いを増すばかりで、弱まる気配はない。私たちはあきらめて帰ることにした。

「雨、全然やまなかったな」

 大輔くんが苦笑する。

「しかも、雷まで落ちたし。静香、超怖がってたよな? 俺、雷の音よりも静香の悲鳴に驚いたぜ」

 静香ちゃんが悲鳴を上げたのは、さっき教室で駄弁っていたときのことだ。急に窓の外が光ったと思ったら、すぐに雷が鳴った。轟く爆音に、静香ちゃんは「きゃああ!」と悲鳴を上げ、耳を塞いだのだ。よほど怖かったのだろう。しばらく震えていたくらいだし。

「だって、すごい音だったんだもん。かなり近かったし、怖かったよぅ」

 静香ちゃんは恥ずかしそうに笑い、「もう。からかわないでってば」と大輔くんに優しく抗議し、彼の肩をぽんと叩く。ああ、もう。静香ちゃんの一挙手一投足が可愛いすぎて辛い。私が男だったら、絶対に惚れている。

「昔から雷は苦手だなぁ。もう落ちないといいんだけど……大輔くんは雷が怖くないの?」

 静香ちゃんが尋ねると、大輔くんは決まりが悪そうに後頭部をかいた。

「静香のことをからかっておいてなんだけど、さっきの雷は俺もさすがにビビったよ」
「だよな。お前、その後トイレ行ったし。もしかして、お漏らししたの?」

 また貴志くんが余計なことを言った。いつものようにキッと睨むと、貴志くんもまた、いつものように鼻歌を口ずさんで誤魔化した。

 私たちは雷の話題で盛り上がりつつ、教室を出た。

 渡り廊下を歩いていると、雨音が聞こえてきた。
 窓の外を見る。灰色の重たい空が、大きな雨粒を際限なく吐き出していた。雨粒は勢いよくアスファルトに降り注ぎ、ノイズのようにざぁざぁと音を刻む。通り雨のような優しい雨音とは違う、耳障りな音だ。

「相変わらず強い雨だな。ま、俺は濡れないけど」

 貴志くんは得意気にそう言った。

 その隣で静香ちゃんは「はぁ。これだけ雨が強いと、湿気もすごいよねぇ。嫌だなぁ」とため息混じりに愚痴をこぼしている。それには同感だ。湿気で髪の毛にクセがでてしまうし、楽器の音色や喉の調子も微妙に変わる。私も雨は嫌いだ。

 今日は木曜日。音楽室を使用できない日だ。これほどの大雨では、どこかで遊ぶ気にもならない。今日は大人しく家に帰って自主練でもしよう。

「あ。そういえば、千秋ちゃんがね、五限の授業の途中で具合が悪くなって、保健室に行ったんだって。五限が終わっても帰ってこなかったみたい。熱でもあるのかなぁ?」

 千秋が保健室に?
 それは知らなかった。高熱だったなら、早退しただろうけど……今はもう回復したのだろうか。

「学校出る前に、保健室に寄ってみる?」

 そう提案すると、静香ちゃんは「そうしよう。大丈夫かなぁ、千秋ちゃん」と心配そうに言った。やっぱり静香ちゃんは優しいなぁ。

「じゃあ、その後はゲーセンでも行くか。ひさしぶりにダンスゲームやりたい」

 大輔くんが能天気な発言をしたので、私は彼を半眼で見た。

「大輔くん。遊ぶのもいいけど、ちゃんと練習もするのよ?」
「冗談だよ。わかってるって……文化祭ライブは、俺たちにとって意味のあるもんだからな。絶対に成功させたい。それはみんな同じ気持ちだよ。なぁ静香?」
「そうだね。頑張らないと、だね……」

 静香ちゃんの声は、雨音にかき消されそうなほど小さく、頼りなかった。
 大輔くんの言うとおりだ。文化祭ライブで失敗することは許されない。

 何故なら、次の文化祭ライブは――。

「な、なんだこれは! 楽器が……美しくなぁぁぁぁい!」

 遠くで響く叫び声が、私の思考をぶった切った。
 この声。そして「美しくない」という言葉選びのセンス。おそらく声の主は勘九郎くんだ。

「おい! 今、楽器って言ったな? 第二音楽室に急ぐぞ!」

 貴志くんが弾けたように飛び出し、先陣を切って廊下を進む。慌てて私も後を追うと、大輔くんと静香ちゃんも続いた。
 渡り廊下を駆け抜け、第二音楽室に到着。入り口のドアは開いていた。
 音楽室に入ると、見知らぬ女の子と勘九郎くんが横に並んで立っていた。

「勘九郎くん。大きな声で叫んでいたけど、どうかした――」

 言いかけて、彼が美しくないと叫んだ理由をすぐに理解した。

 目の前に置かれていたのは、大きな弦楽器――コントラバス。

 その楽器はネックが豪快に折れていて、美しくない状態で壁に立てかけられていたのだった。
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