第3話

文字数 4,281文字

 3

 画面に収まる女は乗馬マシンに跨り、まっすぐ、スマホのレンズを睨んでいた。上下に揺さぶられながら、身体を安定させるために挟まれた太ももが微かに振動し、ただ立っているだけよりも生々しい。それに、そのあいだで食い込んでいるショートパンツはいつまでも見飽きない。画面越しからじゃあ、罪悪感も薄れる。部屋の窓は締め切られ、乗馬マシンの揺れる音がふたりのあいだに流れる沈黙を助長させていた。
 電車に乗り(使用している路線が同じ)、数軒離れた駅で降り案内された、マンションの一室。表札には【狭山】の文字。1LDKのひとりで暮らすには広すぎる部屋。読んだばかりなのか、そのまま床に捨てられている雑誌。テーブルに置かれていた、オレンジジュースが半分ほど注がれているグラス。中身のなくなった菓子の袋や惣菜パックの溜まったゴミ箱。乗馬マシンなんて大層なもの……そんなにも欲しかったのだろうか。羽振りは悪くなさそうだ。
 「それにしても、きみ。あまりに無防備じゃないか。ひとり暮らしの部屋に、正体もわからない男を連れこむなんて……それとも、ぼくが無害だとでも」
 「有害だったら、どうするわけ」
 まるで獲物を捕まえるときの猫の目だ。ぼくの尾行にも気がつき、背後に回り込んでくる敏捷さ。ソファになんとなく投げ出された電工ハサミにだって、乗馬マシンから飛び移って、手にすることくらいなんでもなさそうだ。護身術のひとつは学んでいるのかもしれない。リビングから玄関までの距離を測り、いつでも逃げだせるように身体の重心は落としておく。
 「いや……他意はないよ。それに、こんなことも、別に撮りたいわけじゃないんだ。きみから進んで被写体になってくれたのに悪いんだけど……もう、降りてくれたって構わないさ」
 言われるがままに撮影した乗馬姿の動画。消しはしない。女は乗馬マシンの電源をオフにし降りてしまうと、疲れてしまったのか、落下するみたいに尻からソファへ沈み込んだ。降ろさせたのは失敗だったかもしれない。手もとに近づく電工ハサミ。途端に、部屋全体が死の領域となる。
 「あたしをゼニの種にするんじゃなかったの」
 「そのつもりだったよ。もう少しだけ健全な方向でね。それに人間単体で撮ったって、物好きでもなけりゃ(ぼくのことだ)見てくれないよ」
 女の顔が少しムッとする。見られたい願望でもあったのか。それとも自信があるのか。最後の言葉は嘘だ。乗馬マシンに跨る女が向けてきた、あの目つき。他に真似できるもんか。
 「じゃあ、どうしてほしいの」
 まだあどけなさが優っている頬の膨らみが悪戯っぽく小さく笑い、気圧されてしまう。差し出される悪魔の手を握らずにいられるだろうか。
 「からかわないでくれ。女としてのきみに興味なんてないんだ。めぼしい被写体が他にいなかっただけだよ」
 「強がってばかりで、はっきり物を言わないのって卑怯だな。どうしてほしいの。犬の代わりになりたいなら、そう言いなよ」
 まったく女の言うとおりだ。犬の代わりになれるのならそれもいいが……いや、そうじゃない。
 「気になったんだ。犬の首輪を切断したのが。なんで、あんなこと。撮影どころじゃなかったな」
 また言ってはいけないことでも口走ったのか、女はうつむき加減に黙り込んでしまう。そうやっておとなしくしている姿は、ずっと幼く見える。壁にかけられた時計の秒針が静かに刻まれ、沈黙はより沈黙らしく部屋に充満していた。隣に座ってやろうか。
 少ししてから顔をあげた女の瞳にきらきらした潤いがあり、それまでのナイフみたいな危うさのある顔つきから変貌している。心臓をわしづかみにされてしまうような神秘的な穏やかさが浮かんでいた。
 「教えてあげようか?」
 聞かれたかったとでも言いたげに表情の隅々にまで弾む気配。女の口を開けてしまえば、もう戻れない気がした。そもそも進んでいるのかどうかさえわかってはいない。犬の首輪ひとつで、考えすぎか……
 「聞かせてくれるかな」
 気をよくした女が、自分の隣をぽんぽんと何度か手で叩き、おいでと誘ってくる。躊躇うことなく誘いに応じたいが(犬の心理)、女の太ももの側で切っ先をのぞかせている電工ハサミのアンバランスさが、その穏やかさにトゲを忍び込ませていた。だけど、遠慮をして、また機嫌を損なうのは得策ではない。警報装置のセンサーを軽微に再調整し、隣へ着席する。腰がソファに沈んだときの勢いで、女の小指に触れてしまい気まずさを感じたが、相手はなんでもなさそうだ。
 「あたし、派遣やってるんだけどね、やっぱ会社で嫌なことってあるじゃない。集団生活って苦手だし。高校生くらいのときまではSNSなんかに書き込めたけど、ルール、変わったでしょ。変なこと書き込むと、すぐ削除されるようになって」
 ひとを蔑むことになれきった口調からいっぺんして、まるで小動物と接しているような楽しさ。それにしても、意外な側面を垣間見た。どちらがほんとうの顔なのか。
 「ぼくは他人のコメントを読む専門だな。書き込んだりしないけど、それって、重要なこと? もやもやを書き殴りたいなら、日記でもいいんじゃないの」
 「わかってないなぁ、誰かに届いてほしい声ってあるんだよ」
 女は立ちあがり、棚に向かい、先ほど食べたサンドイッチの包装袋を手で払うと、飾っている写真を取り、ぼくに渡してくる。写真に映ったSNSのコメント欄。女が投稿したものらしい。アカウント名【鳥のなり損ない】。投稿された日付から計算すると、女がまだ中学生頃のものと推定。

 「ポジティブにふるまってばかりいるのって疲れる。たまには、死にたいって叫びたい」
 賞賛1
 返事なし

 「はじめて投稿したときのやつ。誰かが目にするんだろうなって思うと、ちょっとだけ緊張したのおぼえてる。見て、ひとりだけ賞賛してくれてるの。似たように感じているひとって、世の中にいるんだなって、感動したんだ。それから、なにか嫌なことがあるとね、SNSに投稿して、ストレス発散してたの。あ、でも、誰かに対して言葉の暴力なんてふるったことないから。それって卑怯じゃない。嫌な思いはさせたくなかったんだ」
 さっそく、スマホから女のアカウントを検索してみる。過去の投稿も含め、そこにはなにも投稿されていない。女の話ぶりからすると、SNSの運営側に削除されてもおかしくない内容には違いない。SNSによる他人への誹謗中傷を阻止しようと、運営側がAIによる監視体制を敷き、ネガティヴと思しきコメントは即刻削除されるようになっていた。
 「それと、犬の首輪と、どんな関係があるっていうんだい」
 「わんちゃん見てると、いまの自分と重ねちゃうところあるんだ。あの子たちって言いたいこといっぱいあると思うんだけど、飼い主に嫌われたくないから黙ってるだけなんじゃないかな。たまに吠えることあるじゃない。それでも、静かにしなさいって。首輪されてるのだって、一種の暗示みたいなものよね。こんな話、ふつう聞いてくれるひとっていないし、口にしちゃうと、ヤバイ奴扱いされる。だから、SNSって、心の拠りどころみたいな感じがあったんだ。それができないってなると、あたしも犬と同じだよ。見えない首輪で黙らされているからね。だから、首輪を切断してあげたら、ちょっとだけでも解放されないかしらって……」
 とんだ偽善者だ。そんなことをしたって、なにか変わるわけじゃない。仮に犬のほうから礼のひとつしてきたところで、自己満足を褒められるくらいの錯覚じゃないか。だけど、ぼくは次第に、女が発する磁力に引かれはじめている。ここで、指摘でもしてやれば、互いがS極とS極になって、もう二度、女と関わりあうことはないかもしれない。灰色のカンバスに、水彩画のような薄っすらとした色がひと筋、塗られたばかりなのに……
 「協力するよ」
 火遊びにほんの少し着火剤を足すくらい、なんてことないだろう。山火事が起きるような事態になるはずでもないし。
 「きみが首輪を切断する姿、ぼくが撮影する」
 返答はなかった。じっと、ぼくを見ているだけの女。一匹狼体質の人間にはいらぬお世話だったか。
 次の瞬間、身体の自由がきかなくなった。なにが起きたのか理解するのにゼロコンマ秒の時間では足りない。女に抱きしめられ、このまま殺されるのかと覚悟するのに、数秒を要する。吹き出しもしない冷や汗が玉粒になって額で溢れる。身動きしようにもできないでいるのは自分の意思が邪魔していたからだ。突き飛ばして、逃げ出すべきなのに、女の両腕はまるで親にすがる子どものようで、ぼくを必要としてちからづよい。全身の表面温度が骨ばった身体には心地よく、離れるには惜しい。ぼくの肩でうずめている顔を少し浮かせ、鼻の先ほどの距離から見つめてくる。微かな吐息が顎先にかかってくる。少しばかり半開きになった唇。ないちからに任せて、女をソファのほうへ押し倒し、形成逆転だと言わんばかりに見下ろしてやる。抱きしめられていた腕は、首筋にかけられたマフラーみたいになっていた。視線の端に映った掛け時計の時刻は夕暮れどきをさしていて、部屋にはちょうど、沈みかかる夕日の気怠げな光が差し込んできていた。秒針は聞こえない。心臓の鼓動が一秒、二秒、三秒。数えるよりもはやく、唇は緩やかに、女のほうへ迫っていった。いっしょに垂れ下がってくる女の手は、ぼくを誘引するクレーンのようにも見えていることだろう。考えなくともわかる、これから訪れるであろう夢のひととき。
 しかし、鼻先と鼻先がくっつくと、焦らされるように動きは止まってしまう。垂れ下がっていただけの両腕が、ぼくの首筋を軽く圧迫して、進行を止めていたのだ。それでも強引に進もうとすると、息苦しくなるくらいに締めつけられる。
 「待て」
 女のやさしい命令はぼくの理性を呼び戻す。身動きせずにいると、手が首筋から胸板のあたりまで指の感触を感じさせながら滑っていき、なんだかわけもわからないまま、押し返され、膠着状態は幕を閉じたのだった。
 「たくさん見てもらおうね」
 たくさんという数字は、ぼくと女のこれからの関係性を象徴しており、ぼくは犬が二足立ちしたときの忠誠を誓うような手のしぐさを真似、わんと、口に出した。それはまた同時に、待てのポーズでもあり、待つということは、なにか得られるものがあるから期待しているというポーズでもあるのだ。従順なふるまいの裏側にはいつだって、餌をねだる疚しい本音が潜んでいるのである。
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