第4話

文字数 5,247文字

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 撮影初日、土曜日の昼頃。あれから六日経過している。女と連絡先を交換したが、そのあいだ、一切、通知なし。昨晩、今日の待ちあわせ場所と時刻を指定されたばかり。ぼくを手懐けたあの媚態からは考えられない、随分と殺風景な文面だった。怒っているのだろうか。こちらから連絡してみるかと思ったが、あちらを調子づかせる可能性だってあり得る。それにまた、不用意な行動で、女に警戒でもされたらと、二の足を踏んでしまったのである。
 繁華街の駅付近にある、人間の顔を溶解させたようなオブジェの前で落ちあうことになった。雑踏から少し離れた場所にあり、ひとが動きもしないで密集しているような場所が嫌いだという、女からの指定だ。
 オブジェの視線の先で人々が行き交い、背後には駅の外壁がそびえているため、西日が差し込んでこない。中途半端に茂っている草木も液体肥料で無理に育てられているからか緑は深すぎ、日陰よりも暗さが際立っている。いささか陰気臭い場所かもしれない。
 とはいえ、土曜日ともなれば、どこから沸いてくるのか、右から左、左から右へと、絶え間のないひとの流れ。まさか、こんな目立った場所で目的を遂行するわけにもいかないだろう。そもそも犬が散歩するには神経を逆なでされるような環境だ。集合時刻はとうに過ぎている。
 つい先ほど、女から連絡があった。地下鉄で人身事故があり、遅れてしまうという。交通情報を確認すると、ぼくが乗っていた電車の一本か二本前。嘘はついていない。タクシーに乗り、向かっているそうだ。
 暇つぶしにSNSを開き、適当に画面をスクロールしていく。著名人のコメントに対し、褒め称える返事の数々。賞賛も千は超えている。数年前であれば、文句のひとつや、みっつ、散見もされたが、目にすることはなくなった。あとは、なんでもない日常を綴っただけの投稿、企業の商品PR、怪しげな儲け話(AIの監視を潜り抜けるのだからたいしたものである)。目を通しているうちに新たな投稿が次々に流れてき、一瞬、もう仕事いやだ、という文面と泣いている顔の絵文字が目をかすっていったので、戻ってみると画面から消えていた。まるで断末魔の叫びである。
 スマホを閉じ、鞄のなかの電工ハサミを確認する。女の予備のものを貰った。行動に移すのはぼくではないので辞退したのだが、同じものを持っていれば、共犯者意識が芽生えるというので脅迫される。共犯者という言葉を使うときの、はにかんだ表情を見せられると、それも悪くないかとついつい受け取ってしまった。
 電工ハサミとして一番主流なスティックタイプ。蟹の手にも似た、短く分厚い刃。刃渡り四十ミリほど。刃の部分は研がれた包丁みたいに鋭く、見ているだけで、肌を切られたときの薄っすらとした痛みを思い出す。ニッパーみたいな形状をしているからグリップの握り心地はさぞ悪いだろうなと道具としての性能を疑っていたが、握ってみれば、手のひらにフィットし、重々しそうな外見とは反して、手首の自由がきくくらいには軽量で、刃先も自在に動かせた。試しに切ってみろというので、ファッション雑誌一冊を実験台にして、ちょきちょきやってみると、これがなかなかいい余興になってくれた。厚さ一センチはあろう紙の束が薄っぺらい千円札みたいに切れてしまうので、女を笑わせるつもりで、猫の輪郭を象ろうと、カーブを描く軌道に、刃先を動かしたが、どうやら直線に強いだけで、細かい動作には向いていないことがわかり、諦めてしまうと、不器用なんだね、などと真顔で言われてしまう。せっかく温まってきたばかりの関係性をいとも簡単にばっさりやるのだから、女という生き物の身勝手さにははなはだ嫌気がさした。
 共犯者であることを証明するため、わざわざ持ってきたはいいが、ひとが近くを通るたび、落ち着かない気分になってしまう。電工ハサミがカバンのなかにあるとはいえ、ひょんなことで誰かに見られでもしたら、あとあと面倒の種にならないとも限らない。それに、付近には交番もある。通報の叫びひとつでいとも簡単に、犯罪者の告知は伝播していくだろう。どうも度胸試しされているらしい。人身事故という偶発性がなかったとしても、遅れる理由などでっちあげれるのだから。
 自分から撮影の申入れをしたとはいえ、少しだけ後悔しはじめている。動画撮影して小遣い稼ぎするったって、他に方法はいくらでもあるのだ。よりにもよって、犬の首輪を切断するなんて、失敗すれば手錠は免れない。それに女が裏切る可能性を考慮しておく必要がある。あの小動物のような顔で、脅されて、なんてでまかせでも言われようものなら、女に飢えた警官などは疑うそぶりなく、すべての罪をぼくに着せることだろう。それに、スマホに保存されている乗馬マシンに跨る女の姿……動かぬ証拠を、まだ消せずにいる。
 その場から離れようとしたとき、シャツ越しに、肋骨のあたりで鋭い先端かなにかが、ちくりと突いてくる。大勢のなかにいて、ぼくだけ孤立しているみたいに時が止まってしまった。
 「どこいくの」
 声に釣られ、ふり返る。視線を下ろせば、女の小さな微笑み。恋人の距離感には痛みが伴っている。左手に握られた電工ハサミは、ぼくの身体に遮られ、端からは見えないだろう。確か、右利きだったはずである。ここを指定されたのは計算されてのことか。いっそのこと、助けを呼ぶべきか。いや、平気で血の雨を降らせようとした女だ。不利を覆せるだけの根拠がない。
 「いや、ちょっと、トイレに、ね」
 ぎこちなく微笑み返す。
 「済ましてくる?」
 股間を管理されるむずがゆさ。
 「いや、止まったみたいだから」
 女は電工ハサミをポシェットに放り込むと、それじゃあいこうかと、どこへ向かうのかも告げられないまま、ふたりして歩きはじめた。横に並んで歩く距離が近く、たまに指先と指先が当たってしまう。
 「手、つなぎたい?」
 なにを考えているのか、男を惑わせる虚言にいちいちふり回されていては、理性を保つのにもカロリーを消費してしまうので、女の顔を見もせずに、ついつい(また!)、強がってしまい、
 「これからビジネスの時間なんだ。浮ついてる場合じゃないだろ」
 などと、もっともらしいことを言って、女の意思を跳ね除けてしまうのだから、まったく、もう少し、図々しくなれないものかと自分を責めてしまう有様だ。
 女は、
 「あ、そう」
 ……と、ぼくの真摯な態度になんの興味もないらしく、むしろ、機嫌でも損ねてしまったのか、数歩先、前を歩くようになってしまった。無言のままエスカレーターに乗り、昇ったところにある高架駅で、ようやく進む方向の検討がつく。
 郊外と繁華街を結ぶ路線であるため、上りの電車は激しく混みあうが、下りの電車は時間が遅くなければ空いている。女はわざとらしく、ぼくとは反対側の席につき、車窓から景色を眺めていた。乗車客がまばらなのを見計らって、スマホを構えると、画面のなかに女を収める。靴のつま先から脚へと、そして、以前とは色違いのショートパンツ、狭間を念入りに、だらりと垂れた両腕、胸もとを通り、女の横顔をアップする。生気の抜けた死人一歩手前の白雪姫。画面のなかで表示される秒数、囲われた世界は撮影しきれない外の世界よりも、スローモーションに映っていた。
 「ちょっと、お兄さん。なに撮ってんの」
 画面に割って入るノイズ。中年の、平日はサラリーマンをやっているであろう、おやじが正義感をふりかざし、前に立ちはだかる。
 「いえ、別に……」
 視線もあわせず、スマホを触りながら、ぼそっと言ってやる。態度が気に入らなかったのか、吊り革を手にした位置からまた一歩手前、こちらへよってくる。埃を焼いて燻ったような臭いのズボンが、スマホにあたるので、仕方なしに顔を見てやった。
 「こっちが質問してんだよ。別にじゃ、答えになってないだろ。お前、社会しってのか。盗撮だろ、それ、盗撮だろ!」
 車内がざわつきはじめている。狂乱気味のおやじと、盗撮の容疑をかけられるぼくと、どちらが注目されているのか。それとも、どちらともか。おやじは気づいてもいないのか、尚もぼくに絡みつき、離れようとしない。少し離れた隣席に座っていたひとが立ち上がって、あっちへいってしまう。それはそうだろう、春の陽気な土曜日の静かな車中で、トラブルに関わって過ごしたくはない、気持ちは同じだ。女は変わらず、車窓からの景色に魂を奪われている。
 おやじの声の調子がヒートアップしてくる。絶滅しないのが不思議な破壊衝動の塊。周囲の恐怖、嘲笑、白けきった目つき。何駅走ったか、目にすることはあってもすぐ記憶の端から溶けていく名前の駅で停車すると、女がぼくの腕をとり、降りよと言ってきた。
 「友達なんです」
 盗撮犯から救ったはずのヒーローは、謝礼のひと言もかけてもらえず、偽善を指摘されてしまい、ドアが閉まったあとからでも、なにかわめき立てていた。電車は走り去っていく。
 降りた先は、閑静な住宅街が建ち並び、いかにも中産階級が犬を飼っていそうな地区だ。車内のことは別段、話題にもあがらないので、踏むことなく通り過ぎた犬の糞程度に考えようかと思ったが、どうもぼくは、ああいうのを相手にすると、頭にしこりを残してしまう質らしい。勤めている会社にもひとりか、ふたりいて、頭痛の種なのだ。
 仕事を前にひとりもやもやしていると、知らぬ間に、女がバスのロータリー向こうにあるコンビニにいて、外で繋がれた犬とじゃれあっているところだから、さっそく撮影にかからねばと、スマホを構え、小走りした。防犯カメラの位置を確かめ、死角からコンビニに近づきすぎないよう気をつけながら、ズームアップし撮影を開始する。
 女のほうでももちろん心得ていて、丸めた背を防犯カメラに向けていた。逃げ出したとしても、顔を捉えることはできない。こちら側からでは見えないが、左手に電工ハサミを構えているのだろう。コンビニのなかでは飼い主らしき奥様がレジで会計をはじめ、間もなく犬のもとへ戻ろうとしているから、身の危険を知らせてやりたいが、ここからでは距離が遠く、かと言って、大声で呼んでしまえば周囲の注目も引いてしまう恐れがあり、今後、この地区での仕事がやり辛くなってしまうのを懸念した。スマホで連絡しようにも、撮影の途中だ。女を信じ、撮影に専念する他ない。
 飼い主が買い物を済ませ、コンビニの出口へ向かっている。センサーが客を認識し、左右に開かれる自動ドア。飼い主の足が一歩、外へ出た。もう駄目だ……いや、同時に、女も立ち上がり、何食わぬ顔で商店街のほうへ歩いていく。切断したのか? 飼い主も女の存在には気がついていないらしく、飼い犬の頭を撫でてから、ガードレールに結んでいたリールを外し、先へいこうとした。やはり、首輪は切断されておらず、飼い主と犬は何事もなく散歩の続きに出てしまう。と……思っていた数秒後、飼い主と犬の歩行速度にずれが生じたのか、リールを引っ張るちからのほうが強く、自然、引っ張られるほうの首輪が犬から外れ、犬は見事に野良と区別がつかなくなってしまった。当然のことながら、飼い主は慌てふためき、接着されるはずもないのに、切断された首輪をまた犬にかけ、断面と断面をくっつけたり、離したりを繰り返している。
 遠くから見ていたぼくでさえ、女の早業を見落としてしまうのだから、相当な使い手と見て、間違いなさそうだ。こうしているあいだにも、次の標的を見つけ出しているかもしれない。これはうかうかしていられないと、女のあとを追う。R町商店街と書かれたアーチを通り、少なくもないが、繁華街のあとだけに、多くも見えないひと通りでにぎわう商店街。その片隅に、喫茶店があり、ショーケースに並んでいる料理の品々へ幸福そうな眼差しを向けながら立っている女を発見した。ぼくが声をかけると腹が減ったしぐさをし、店内へ入ることとなった。
 昭和の趣が残る薄暗い店内の一角に案内され、ふたりして着席する。女はイチゴ盛り沢山パフェを頼み、ぼくは珈琲だけ注文した。注文した品が運ばれてくるまでのあいだ、ぼくは隠しきれない興奮を言葉にし、女の業績を讃える。だが、女にとっては朝飯前の所業らしく、別に嬉しそうではなかった。会話も弾まらず、つまらなさそうにスマホをいじっている。だが、イチゴ盛り沢山パフェが運ばれてくると、それには大層、明るくふるまい、大喜びで口に頬張っていくのだから、珈琲をすすりながらその様子を見ていると、どこにでもいる女子だなと鼻で笑ってしまいたくなる。自分のスマホに目を移し、撮影したばかりの動画をチェックする。最新機種のスマホで撮影しただけに、一部始終が鮮明に映っており、つい先ほどのことが目の前で再現されてくるようで、熱を帯びて冷めない興奮に命令されるまま、何度も動画を再生してしまった。
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