第7話

文字数 2,561文字

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 ▽なぜ都内に野良犬が現れたのか? その裏に暗躍する野良犬解放運動の影
 記事執筆者:猿田彦正義 ノンフィクションライター

 記事内容:筆者の記憶によれば、犬が一匹、町中を我が物顔で歩いている様子が見られたのは、数十年も前くらいのことだ。近年になっては、リールでつながれる飼い犬しか目にしなくなった。それが、二、三週間前、都内で車を走らせているとき、突然、車道に飛び出してきた一匹の犬がいた。急ブレーキを踏んだおかげで不幸な事故は防げた。監督不行届だと、怒鳴りつけたい気持ちで飼い主を探していたのだが、それらしき姿がない。飼い主とはぐれてしまったのかと疑問にも思う。視線を正面に戻し、いつまでも車の前から離れないでいる犬の異変に驚愕したのは、そのときだ。飼い犬の証明書でもある首輪がついていないことに気がつくと、幼少期の恐怖が蘇ってしまいパニックを起こしそうになった。
 低学年のとき、友人との下校時にいつも立ちよる空き地があった。そこを住処にしている野良犬がおり、学校の給食時間に支給されるパンを、こっそり持ち帰っては食べさせるのが楽しみだった。餌やりはいつも友人だった。友人ばかりが懐かれていた。筆者があげようとしても、知らん顔をするのだ。幼少期を言い訳にするなら、その日の筆者は虫の居所が悪かったのだと思う。犬にパンの切れ端をあげようとして、やはり、無視されてしまったあと、友人がパンをあげているとき、悔し紛れに自分の持っていたパンをまるごと、犬に投げつけてしまった。あたりどころが悪く、片目に直撃してしまい、それまで機嫌よく尻尾をふっていた犬が豹変し、恐ろしい唸り声をあげたのだ。友人がなだめようとしたが、少しばかりいい気になっていたのかもしれない。手懐けられると思っていたのだろう、友人が差し出した手を、犬がぱくりと噛んでしまう瞬間を、いまでも思い出すことができる。それも顎のちからいっぱいに、首を左右に何度もふり、食いちぎらんばかりの勢いでだ。
 友人の手の皮膚は裂け、溢れる血が、犬の口内を満たしていた。犬歯は赤く染まっていた。狂ったように泣き叫ぶ友人を前に幼い筆者は為す術もなく逃げ出してしまった。助けを呼び、駆けつけた大人がデッキブラシか何かで、犬を叩いて追い払ってくれなければ、友人はまるごと飲み込まれていたかもしれない。姿をくらませた野良犬はあとになって、保健所に捕獲され、殺処分となったと母親から聞かされた。友人の噛まれたほうの手はぼろ雑巾みたいになり、神経も傷ついていたとかで、しばらくは使い物にならなくなってしまった。後に、形成外科手術を受け、日常生活に支障をきたさないまでに回復している。
 友人はまだ運が良かった。運が悪ければその犬が狂犬病の持ち主で、噛まれた友人も狂犬病にかかっていたかもしれない。仮に、野良犬が、捨てられる以前に狂犬病防止のワクチン摂取を受けていたとしても、効能は一年しかない、何年、野良として生きているか定かではない。他の可能性として、身勝手な飼い主に捨てられた犬の繁殖によって生まれた子犬であったならば、成犬になるまでに狂犬病を発症している可能性も否めない。
 当時はそういう危険性を孕んだ野良犬が闊歩していた時代なのだ。狂犬病予防法第六条のもと、動物保護センターが野良犬を捕獲し、殺処分するようにしていたので、次第に、その勢力も消滅したと思われていたが……
 恐怖の記憶が蘇ってくるのを理性で抑えながら、スマホに登録しておいた保健所の電話番号に連絡を入れ、職員に場所を告げる。野良犬が妙な動きをしないように目を逸らさないでいると、また一匹、首輪のしていない野良犬が現れたのだ。どうやら、二匹はパートナーらしい。ふつうなら、祝福もしてやりたいが、犬の繁殖力は人間とは比べものにならない。一度の出産で十匹ほども生むのだ。それだけ狂犬病予備軍が地上を闊歩するとなると、おちおち散歩もしていられなくなる。
 そんな恐れをあざ笑いでもするのか、二匹は筆者の目もはばからず交尾をはじめたのである。辟易としたが、クラクションを鳴らしてやると、筆者の存在にはじめて気がついたといった様子でこちらを見て、恥ずかしげもなく挿入したものを引っ込める。二匹ともどこかへ去ってしまった。もし、筆者が見たあの二匹以外にも、野良犬がいるのであれば、昔のような惨劇がまた起きないとも限らない。いっそのこと、アクセルを踏み、轢き殺しておくべきだったかもしれない。
 どうして、この時代に、この国で、また野良犬が出現したのか。飼い主が捨てたのであれば、自ら私が捨てましたと白状するようなものだ。飼い主の個人情報を登録したマイクロチップが飼い犬に埋め込まれているのだから、飼ったおぼえはないなどとでまかせも言えない。
 そうすると、捨て犬説は薄れてしまう……
 そういえば、最近、某人気動画サイトに犬の首輪を切断するという動画が多く投稿されているのはご存知だろうか。自作自演のなにがおもしろいのかまったくわからない内容だ。投稿者たちは自らのことを首輪切断魔と名乗っており、組織化されているのかはわからないが、皆一様に同じ内容の動画を投稿している。なかには、首輪を切断したあと、野に放つという愚行を披露している動画も存在する。どうせ、舞台裏では飼い主(動画の投稿者)のもとに帰ってくる算段だろうと高を括っていたのだが、仮に、そのまま見送られたのであれば、筆者の前に現れた二匹の犬のことも合点がいく。しかし、何故、そのようなことを繰り返すのか。過激派動物愛護団体の一員かと疑いもしたが、目的が反してしまう。動物愛護団体の目的は保護であり、野放しにすることではない。
 考えられるふたつの線が消えると、野良犬が現れた原因として、首輪切断魔たちの手による、野良犬解放運動説が濃厚となってくる。目的はただ単に、飼い犬を、野良犬にしてしまうことなのか? それがなにを意味しているのか、常人である筆者には理解しがたい。そもそも犯罪行為なのだ。いますぐ辞めさせなければならない。もし、読者諸君が首輪切断魔を発見した際は、危険のない範囲でその蛮行を止めてもらいたい。ふたたび、野良犬が闊歩する時代がくれば、害を被るのは我々、人間なのだから。
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