第9話

文字数 7,264文字

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 【かりそめ】の出現は前触れだったのかもしれない。あれ以来、都内で活動している偽首輪切断魔……もう、偽物というには大衆化され過ぎたのだから、首輪切断魔と一括りにしてもよかろう……首輪切断魔を目にする機会が増えた。
 その所為で、スーパーマーケットやコンビニで犬とじゃれている連中を見ると、どうしても同業者かと疑ってしまう。女子高生が犬に接近するのを胡散臭そうに凝視していたときには、その視線に気づかれてしまい、きもっ、と吐き捨てられたことがある。
 ついこのあいだまでは、動画サイト内で広がっていく首輪切断魔たちを、誇らしくも、妬ましくも、いずれにせよ、直接的な関わりのない、ただ肌感覚の存在だと思っていたのに、気がつけば現実世界に実体化した商売敵として、目の前をちらつきだしたのだ。動画の再生回数を稼ぐどころの前に、犬の首輪を切断することじたいが難しくなってきた。
 そういう意識のもと首輪切断魔たちを見てしまうと、以前、【かりそめ】と思しき人物を前にしたときには感じなかった脅威(酷く俗物的な意味での)が、ぼくを恐れさせる。個人の活動には秘匿性がつきものだと信じていただけに、ふだん自分たちが演じている役割をそっくりそのまま真似しているのを、ただ突っ立って眺めていると、晴れ渡った日にも関わらず、指先でつまめるくらいの氷の塊を背中に入れられたような薄寒さを感じてしまう。
 首輪切断魔が犬の首輪に手を触れているのを見計らって、 女はなにを考えたのか自分から近づいていく。あまりに突拍子もない行動だけに、固唾を吞むしかない。
 「あたしも首輪切断魔なんだ」
 日常挨拶のように話しかけられたので、相手(男だ)のほうは気まずさに耐えられなかったのか、それとも自分の罪に罰を与えられると思ったのか、顔面蒼白になり、ひと言も返さず、逃げ出してしまう。
 功労者を悪く言う人間はあまりいないどころか、身内になればなるほど、褒め殺そうとする傾向にあり、その弊害としては、勘違いを引き起こしやすい。良きパートナーでいるためには、たしなめることも必要だと思い、口をうるさくしたのだが、女は不機嫌面になるわけでもなく、唇だけ動く色のない表情になってしまう。
 「なんか、つまんない」
 反省のそぶりがなかった。共有した時間が長いと、相手への依存が強くなるのだろうか、それとも、稼ぎの少なくなってきたことへの苛立ちが積もっていたのだろうか、ぼくともあろう者がつい、感情の高ぶりをやさしさでカモフラージュできず、声を荒げてしまった。
 「きみ、自分の立場がわかっているのか。稼ぎ頭のきみがちゃんとやってくれなきゃ、ふたりして首輪切断魔を廃業しなきゃならんのだぜ。さっきみたいに、加害者が自分の悪事を告白して喜んでいる姿は関心できないな。逃げ出したあいつが首輪切断魔もどきだったとしても、商売敵であることに違いはないんだ。それに、いまさっき会ったような奴を信用できるわけがないだろ。首輪切断魔はあくまでも個人主義なのだから、仲良くなれるなんて幻想は抱いちゃいけないよ。あいつがぼくたちを通報する可能性だって見逃せないし……」
 自分でも驚いてしまう、溢れる言葉。どうしてこう、女が他の誰かに関わろうすると、苛々してしまうのか。
 「あなたに首輪されてるみたい」
 「違う、そういうのじゃ……」
 謝りたい気持ちが先行しすぎてしまう。最初のひと言が女に届かず、空中で跳ね返ってくると、ぼくの胸のあたりにまとわりつく。何度もこの目で見てきた、死人のような色のない表情が、正面からぼくをずっと、ただ眺めていた。その瞳のなかで、ぼくはどのように映っているのか……あなたがいないと困るから、また、そう言われることを待ち望むのが、この場を収める最適解なのだと、ただ空気に溶けていく秒数のなかで、希望的観測にしかすがりつけない締めつけられるように高まっていく緊張感。周りの風景が雑音だらけになって、ぼくから女を遠ざける。
 道路のほうから、癇癪を起こしたクラクションが鳴り響いてくるのが聞こえ、ふたたび街の喧騒が蘇る。同時にそれは合図だった。待つ言葉をひと言も聞くことが叶わず、女はぼくのことなど忘れてしまったみたいに、音もなく横を通り過ぎていく。
 「ちょっと、お姉さん」
 追いかけようと動きはじめる足首へ、声のロープが輪になって引っかかる。
 「なにしてるの? あなた、まさか……」
 買い物を終えたばかりの奥様が、腕いっぱいの買い物袋を抱えて、皺をよせた剣幕で、ぼくを睨んでいた。そうか、犬のことをすっかり忘れていた。奥様が犬の首輪に触れようとする。ぼくのポシェットのなかには電工ハサミが入っている。言い逃れはできない。万事休すか。しかし、首輪は外れなかった。どうやら、さっきの奴は首輪を切断する前に逃げ出してしまったらしい。
 「あら、ごめんなさいね、あなたみたいなお嬢様がそんなわけないわよね。なんでもないのよ。ほほほ」
 奥様と犬はいってしまう。いや、そんなことはどうでもいい。女はどこへいったのか……もういない。

 ……
 連絡を入れても女からの返信はなかった。もう、二週間経過する。一方的な通知を送りつけられ、うんざりしているかもしれない。だけど、これで終わりなんてことはないはずだ。女にはぼくが必要なのだから。たまにはひとりになって、考えこみたいこともあるだろう。
 ……なにを?
 ……いや、よそう。最悪の状況を想定すればするほど、ピースの揃わないジグソーパズルと延々に睨めっこしなければならない。
 「ちょっと、聞いてんのか、峰岸くん」
 上司の前に立たされ、ぼくはなにをしていたんだっけ。
 「あ、はい、すみません」
 「先方がさ、一週間前に受注した商品がまだ届いていないっていうんだよ。きみの担当だよな、どうなってんだ」
 「急いで、どうにかします……」
 どうやら客からの注文を受理し忘れてしまったらしい。どうも心ここにあらず、といった感じである。そう自分を客観視したところで、その心境から脱却できるわけではないのに……
 車を走らせ、客のもとへ商品を渡しにいく。車窓の向こう側で犬とじゃれている人間がいると、女ではないかと目を見張る。後方から、はやくいけと催促のクラクション。信号は赤から青になり、進行を促してくる。
 担当先の客がキレる声に頭を下げながら、道々で見かける首輪切断魔たちのなかに女はいなかっただろうかと、記憶をたどらせる。いるはずがない。平日の昼間に犬とじゃれているわけがない。事務的な口調で謝罪だけし、ふたたび車に乗り、来た道を帰る。もう夕刻を過ぎている。会社に戻れば、残業組がいるかもしれない。入社したての頃は飲みに誘われもしていたが、ぼくが個人主義に傾いていることを匂わせているうちに、誘われることはなくなった。
 夕日は地平線の彼方に消えつつあるが、周囲はまだ日中の明るさを残している。初夏に入ろうとする前の暑さが、シャツの下からじっとりとした汗を呼び出してくる。退勤しても、まっすぐ自分の部屋へ帰ろうとは思わなかった。繁華街をぶらつき、見たくもない映画を見る。よく目にするような勧善懲悪のアクション映画だった。案外、面白い内容で、少しばかり晴れた気持ちになれる。映画館を出た頃には、空は夜のカーテンに閉ざされ、街のネオンがさみしがり屋たちを照らしていた。返事のこないことを承知で、女に映画の感想を送る。送ることだけが、女に示せるぼくの忠誠心なのだ。
 酔ってもいないのに、ぼくの足取りは自分の意思をもたず、さっさと家へ帰ればいいのに、ただなんとなく、街をふらついていた。街の片隅に追いやられつつある風俗街へ出向いてしまう。いかがわしげなピンク色の看板は明滅して、朝よりも明るい。どこへ入店しようというわけじゃない。この人工的な光のなか、雑踏をかき分けて宛てもなく歩いてさえいれば、自分がひとりだということを忘れさせてくれるのだ。
 目に入る、親近感の湧く看板。【わんわん倶楽部】と店名が表記され、犬の格好をした女性の姿がプリントしてある。リラクゼーション専門店。店から出てくる男女。看板の陰に隠れ、道を譲ってやる。向こうはぼくのことなど気がついていない。男のほうは、七三の髪型に細めのジャケットを羽織った、如何にも秀才臭をさせる色白の優男で、女のほうは……女のほうは、ぼくが誰よりも知っているボブヘアーの女だ。ぼくはうつむき加減に、看板へ視線を向けたまま、ふたりをやり過ごす。向こうは、ぼくに気がついていない。おかしい、女の察知能力なら、すぐにでもばれそうなのに。そんなことより、なぜ、女がわんわん倶楽部から出てきたのか。男性向けの店なのは間違いない、女が客として来店したわけではなさそうだ。夜は、わんわん倶楽部の店員を兼務しているといったところか。犬の格好をした女の姿。羽振りの良さも合点がいく。
 すると、連れ立って歩いていくあの優男は客であるらしい。女は、ぼくを風景の一部と見間違うほどに、新しい犬がお気に入りなのだ。どうせ、同伴システムの一環だろうと、ひとりあがいてみせようが、確かめずにはいられない。永遠に感じられた会えない時間を取り戻したくて、ぼくはあとを追ってしまう。
 金曜日の夜とあって、蛾のようにネオンへたむろしてくる人々。ふたりを見失わないことをなにより恐れ、目を離さないでいるにはいささか困難が生じた。まるで人間を跳ね除けられる物であるかのように、集団と化した一個の動物たちが次から次へと肩にぶつかっていく。酔ってはしゃぐ声のなかに、ぼくの姿はない。
 それにしても、先ほどからふたりの距離感が気になってしかたがなかった。もはや、腕と腕が接触している。指先が触れあうのも、さして問題ではなさそうだ。サービスに違いないのだ、ぼくはなにを焦っているのだ。見るからに、おしゃれを体現した優男が向かう先……たかだか知れている。どこぞの小洒落たバーにでも入って、女をくどくつもりでいるのだ。一夜の出来事でしかない。しかし、優男がわんわん倶楽部の常連だって可能性もある。甘い夢を何度も見させられては、あの死者の仮面を被った女でさえ、どう転んでしまうかわかったものではない。
 その懸念は杞憂に終わりそうだ。スクランブル交差点の大波を抜け、駅へと入っていく。そこで別れるに違いない。だが、ふたりして地下鉄へと降りていく。嫌な予感がした。別れるどころか、ふたりして同じ路線の電車に乗ってしまった。その路線はぼくも、女も、毎日、出勤のために利用している。そう、向かう先は……もういい、決着をつければいいのだ。心の準備もできていないままなにを言えばのいいか。幸いなことに、車内は混みあっている。接近して指先を突きつけるような真似だけは自制できそうだ。窓に映り込むふたり。ドアにもたれかかっている。休日前にはお似合いのツーショットだ。動向に気をつけたくても、つい目を逸らしたくなる。じつに愉快そうだ。優男がつまらないジョークのひとつか、ふたつでも言っているのだろう、女のほうでは大げさに肩を上下へ揺すぶりながら笑っている。いつ以来だろう、あんな顔を見るのは……
 降車した先は、やはり女が暮らす町だった。もう疑いようがない。殺意なんて物騒な黒い衝動を抱いたことなんてないのに、鞄のなかの電工ハサミがぼくに語りかけてくる。女と会うことがなくなってからも常備していた、思い出の品。いつだって共犯者意識がふたりを結んでいたのだ。いたのに……
 降車客が改札を抜け、左へ右へと分散されていく。ふたりはマンションのある方角へ進んでいった。ひとの姿がまばらに、やがて暗がりの道には女と優男、十メートル後方を歩くぼくだけしか見あたらなくなる。
 いつもの曲がり角をまがるので、一瞬、ふたりを見失ってしまう。少しだけ駆け足に追う。曲がり角をまがったとき、意表を突かれ、まばゆい光が視界を奪った。瞳のなかで白と黒が明滅する。片手で光を遮りながら、人影が立っているのを確かめる。逆光は人影の後ろから半円を描き、横へ移動していく。
 「なにしてるの?」
 まぶしさになれてきた視界が夜を捉え直し、そこに誰がいるのか改めさせた。はじめて会ったとき(一方的に見ていただけだが)のミニスカートを履いている。ぼくと女に真横から光をあてているのは、優男だった。スマホを構え、どうやら撮影でもしているらしい。
 「きみこそ、なにしてるんだ。誰なんだそいつは」
 ふるえる唇で、わななきそうになる言葉をどうにか吐き出した。
 「わんわん倶楽部のところからついてきてたんでしょ。学習しないなあ。このひと、わんわん倶楽部の常連さん。あたしたち……っていうか、元祖首輪切断魔のファンなんだって。すごく褒めてくれたから、あたしだよって、教えてあげたら、撮影させてほしいってお願いされちゃって、断る理由もないから、あたしからもお願いしちゃったんだ。だからね、今度から、あたしとそのひとで首輪切断魔やるから」
 会話を聞きながら、スマホのレンズの向こう側で優男が薄笑いを浮かべている気がした。
 「ぼくはどうなるんだよ」
 憐れみすらこもらない氷の視線がぼくを刺す。
 「だって、あなたと首輪切断魔やっててもおもしろくないんだもん。実際に首輪を切断しているあたしが怒られてばっかりだし。何様って感じよね」
 「それは……ぼくが悪かった、認めるよ。だけど、ぼくといっしょにやってきたからこその元祖だろ。忘れているんじゃないのかい……」
 過去にすがるしかない。だけど、事実だ。
 「一週間前の晩ごはんのことっておぼえてる? 美味しかったんだろうけど、もう味わえないよね」
 「きみがそのつもりでも、首輪切断魔のアカウントは、ぼくが握っているんだぜ。数が減っているとはいえ、まだまだ充分な実績を保っているよ。みすみす、手渡すとでも思っているのか?」
 言い終えると、女は距離を縮めてきた。少し見下ろせば、上目遣いの女がぼくを見つめている。
 「お手」
 女に命令され、ついつい手を出しそうになる。わんと、言いそうになって、顎を食いしばった。
 「やっぱり、つまんないの。従順なわんちゃんだと思ってたのに。あれだ、待たせすぎちゃったのかな? ずっと待ってたんでしょ。だから、やきもきしてるんだ。いいよ、あげる」
 背伸びをした女の面が、目の前に飛び込んでくる、かと思うよりもはやく、見た目よりも生暖かい唇が、ぼくの唇に重なり、少しのあいだ、現実を忘れさせた。
 囃すような口笛が聞こえ、せっかくのムードが台無しになる。女が離れても、ぼくはなにも言えず、味わったばかりの夢にひと筋の期待がちらつき、まだしがみつこうとしている。言葉以上に、女をこの胸もとへ引きよせることが、許しを請う唯一の手段だと思った。両腕いっぱいに抱……いたのは、夜の空気。勢い余って自分を抱きしめていた。瞬間移動するみたいに後方へ下がってしまった女。つまりは……わかりやすい、拒絶反応だ。
 「じゃ、ばいばい」
 背中。いつも追いかけていた女の背中。もう追いかけることすらできない背中。ぼくはいま、どんな間抜け面をしているのか。空気の抜けた人形のように、背中が去っていくのを見送るしかない。優男のスマホが尚もぼくを撮り続けている。撮りながら女とともに去ろうとしている。
 「待て」
 言ったのは、ぼくだ。女はそれを挑戦状と受けて取ったのだろう。赤い雨をふらせようとしたあの日と同じ気配を漂わせ、立ち止まる。
 「きみには躾が必要なんだ。ぼくなしじゃ、首輪切断魔と名乗る資格なんてないことを教えてやる」
 鞄のなかから電工ハサミを抜き取る。女のため息が聞こえた。ふり返り、その手にも電工ハサミを握っている。
 「こりゃいいぞ、首輪切断魔と首輪切断魔の決闘だ!」
 撮影を止めない優男もどうやら興奮を隠せない様子だ。電工ハサミを握った手のひらが汗で濡れてきている。わざわざ引き止めたのは、勝算があるからに決まっている。ただ撮影をしてきたわけじゃない。女の無駄のない動きをこの目で、間近で、観察してきた。ぼくのひ弱な肉体でも、肉体のどの部位と部位を掛けあわせればより効率的な動きができるのかを計算すれば、瞬発的な動きが可能なのだ。
 鼻から深く息を吸い込み、口から静かに吐き出し……
    世界   
 が 
       スロー    
            モーションに 
         その場の     
   密度を     
        圧縮       
                    していく
 地面を蹴り、一足一刀の間合いへ女を引き込む。女は反応できていない。簡単に折れてしまいそうな首筋へ向けて、広げた刃を走らせる。もらった! ……閉ざした両の刃がつかんだのは、女の電工ハサミ。寸でのところで、切っ先を盾にされていた。そのまま、ちから任せに女から電工ハサミを引き離してやろうとした……矢先、急に、指先が軽くなり、そこにいたはずの女がいなくなっている。女は自ら電工ハサミを手放していた。素手になった女の平手打ちが、ぼくの頬を打つ。軽い脳しんとう、目の前がぼやける。そして、棒を叩きこむような的を絞った重量感が脇腹を襲った。蹴り込まれたときに、思わず、女の大腿をつかんでしまう。見かけの華奢さとは裏腹に、触りがいのある弾力的な肉つき。勢いでめくれあがったスカートの奥に白いパンティを見た。くの字に身体が丸くなり、大腿をつかんだ手は引き離され、ぼくは地面へ叩きのめされる。
 立ち上がれないぼくを見下ろすこともなく、踵を返すと、女はいってしまう。優男のスマホは、視界から見えなくなるまで、ぼくを撮影していた。アスファルトにうずくまり、涙がこぼれ、それから、気が済むまでそうしていた。ぼくはいつだって夢見がちなのだ……
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