第2話

文字数 5,263文字

 2

 結局、女のことが頭から離れず、貴重な日曜日もまたこうして、スーパーマーケットのベンチに座りながら待っている。なにを待っているのか……来る予定もない女に勝手な期待を抱き、まだか、まだかと、喜びにも怒りにも様変わりする、少年時代に感じたっきりの屈託のない心情に、どう向きあえばいいのか、自分でもよくわからず、ただ、待っていた。
 昨日の帰り道、わざわざスマホを最新機種に買い換えたのだって、彼女を出来うる限り、ほんものの魅力を存分に引き出したいからだ。画素数が少なければ少ないほど、被写体は現実から乖離されていき、ぼやけた輪郭だけが残ってしまう。おかげさまで、給料の大半を注ぎ込んでしまったが、後悔はない。
 昨日の警備員がいないので、スマホを見るふりをしながら、悠々としていられる。おおかたのことは予想がつく。女の目撃情報はないかと、SNSでこの地区のことや、スーパーマーケットのことを検索していると、警備員がぼくに、肩でぶつかってくる様子が写真つきで投稿されていた。どうせ、親もとの会社が発見し、処罰でも受けたがために、姿をくらませてしまったに違いない。代わりに配属されている警備員はといえば、ぼくよりも年齢の若そうな兄ちゃんである。帰属意識の希薄な、ことながれ主義者らしく、一時間もいるぼくのことなどまるで眼中にない。それどころか、客足がまばらなのをいいことに、防犯カメラの死角で背をもたれ、スマホをいじっている様子さえ垣間見られた。
 中型のスーパーマーケットということもあるが、昼過ぎでも客足は途絶えることなく、数分にひとりの割合で入店している。そのなかに、女が紛れているかどうか、人数を数えるように、ひとり、またひとりと、注視する。なかには、視線に気がつき、嫌悪感を隠そうともしない中年のおばはんなどもいたが、勘違いも甚だしい。
 犬連れの客もたまにいて、駐輪場やその辺のフェンスにリードを結んでいた。格好のシチュエーションではないかと、女の到来を予感させてくれる。犬のほうでも、ぼくの視線に気がついているのか、やや不機嫌面を浮かべ、見返してくるのだ。意思疎通できるわけでもないのに、暇つぶしに、そうやって見つめあっていると、視線の横を風が吹き抜けるみたいに、目を惹く繊細でしなやかな背中が通り過ぎていく。見間違いようのない天使の輪っかを浮かべたボブヘアー。女だ。買い物をしたばかりらしく、手にはエコバッグが握られている。
 迂闊だった、このスーパーマーケットには北口と東口があり、駐輪場が隣接する北口ばかりに意識が向いてしまっていた。東口から入り、北口から出てきたのだ。女が犬に接近するので、軽い興奮をおぼえる。なにより、挑発的すぎるショートパンツの後ろ姿に、目が釘づけになってしまう。裸よりも鮮明に浮かび上がる臀部の膨らみと、部屋に飾りたいマネキンのような美脚は、肉感を目で味わう楽しみを与えてくれる。股のあたりでペニスが疼いてしまう。こんな日に限って、生地の薄いスリム体型のズボンを履いてきてしまった。テントを張られては困るので、急場凌ぎにさりげなさを装って足を組む。
 女が犬に接近する距離が縮まっていく。撮り逃がすまいと、スマホを構え、動画撮影の予備動作に入る。大枚をはたいただけの見返りを待っていた。しかし、女は犬の頭を軽くなでただけで、すぐその場から離れてしまったのだ。どこにでもいる女となんら変わりない裏切り行為。勘ぐりすぎたのだろうか。肩のちからが抜け、垂れ下がった腕の先で、スマホは地面を向いていた。ペニスだって、すっかり萎えている。
 女の姿が遠くなっていくので、居ても立っても居られず、ついつい尾行を開始してしまう。まだ、疑念を払拭してくれたわけではないのだ。考えすぎでなければ、エコバッグのなかに、買い物をした商品に紛れて電工ハサミが潜んでいるのではないか。
 尾行には自信があった。むかし読んだ小説で、探偵の作法は学んでいる。住宅街ということもあり、ふだんはたいしてひと通りはないのだが、休日が幸いし、身を潜める程度の足並みはあった。ただ、意外に女の歩く速度がはやく、高校生以来、まともなトレーニングを受けてこなかった骨ばかり目立つ肉体は、息を弾ませるだけの運動量を強要された。その勢いもあってか、感づかれる危険がないことを見積もり、つい三メートルと離れない距離まで詰めてしまう。
 住宅が建ち並ぶ中通りを抜けると、商店でにぎわうY通りへ出る。すると、女の動きが止まり、カフェの看板を眺めているので、慌てて、近くのアパートへ身をよせ、ポストを探るふりをしながら横目に様子をのぞきこむ。間もなくして、女がカフェのなかへ入ってしまうので、ぼくもそれに続き、入店する。この土地で暮らし、数年は経つがはじめて入った店だった。
 欧州人らしき店主が媚びない挨拶で来店を歓迎する。店内を見渡しつつ、女の座席を探し、そしらぬふりをしながら、ふたつ離れた席につく。女は紅茶をすすりながら、雑誌を読んでいた。店員が注文をとりに来たので、適当にメニューへ目を通し、一番値段の安い珈琲を頼む。待つあいだ、スマホをいじりながら、女の一挙一動に注意する。ひと目のある場所だけに考えにくいが、電工ハサミのメンテナンスに取り掛かる可能性だってあり得る。
 それにしても春には不釣り合いなほどに冷房が効いている。ちょうど頭上にエアコンが設置され、肌寒い風がこちらへ向かって吹きかかってきていた。席を変えようかと迷ったが、変に目立った行動をすれば、女に怪しまれる危険があった。しかたなくそのままでいると、下腹部のあたりがそわそわしだし、猛烈にトイレへ駆け込みたくなる。女のことが気がかりだったが、入店して十分も経過していないのだから、いなくなる心配はなかろうと、席を立ち、トイレへ急いだ。放尿している時間も惜しいくらいだったが、すべて出し切ると、途切れていた集中力がふたたび研ぎ覚まされていく。トイレから出て、ちょうど店員が珈琲を運んできたところに遭遇し、ふたつ前の席に視線を移すと、女のいないことに心臓が高鳴りだす。両の目がレーダーとなり、忙しなく探索を開始しはじめた。なんてことはない。女はレジで会計を済ませ、店から出ていくところだった。窓を通して、見逃さないようにその後ろ姿を目で追いつつ、ぼくも店から出ようとしたが、突然、ちからづよさに身動きを止められたので、なにごとかと険しい目つきを向けてしまう。
 「お客さん、勘定」
 流暢な日本語。標的を捉えたような目つきと、胸板の厚い屈強な肉体に跳ね返され、ぼくの険しさなど簡単に明後日の方角へ逸らされてしまう。うっかりしていた恥じらいを隠したくて、照れ笑いで誤魔化しながら、勘定を済ませ、ようやくカフェを出ると、女が歩いていった方角を目指す。
 商店の並びが遠のいていき、ひとの歩く姿もまばらになってきた。時すでに遅かったか……もうあの後ろ姿は見あたらず、絶望に似た目眩が襲ってくるので、堪らず、電信柱に手からよりかかり、そのまま根っこを張ったみたいに諦めてしまおうとしていた、そのときだ。
 すぐそこの小さなパン屋から女が出てくるのを目にする。どうやら、サンドイッチを買ったらしく、丁寧に包装されているのを、エコバッグのなかへ放り込んでいた。立ち止まったのが幸いしてか、女との距離がいっきに縮まり、もう逃しはしないぞと、危険を承知でさらに接近を試みる。このまま進めば、先にあるのは犬連れでにぎわう公園だ。やはり、そうなのか。サンドイッチ片手に、標的となる犬の候補を品定めするつもりでいるのかもしれない。
 ところが、女が道を左へ曲がってしまうので、途端に視界から消えてしまった。すぐに続いたが、なんの変哲もない一本道には前方から通行人が数人、通り過ぎていくだけだった。狐につままれた気分になっていると、不意に電信柱のほうから地面を蹴る音が聞こえ、冷んやりとした刃物の感触が現れる。喉ぼとけに沿って左右に感じられる死の宣告は、それまでの興奮を消しとばし、急速的に現実味を帯びさせた。
 「あなた、誰? ずっとついてきてるよね」
 はじめて聞く声でも誰だか、瞬時にわかってしまう。人質になってしまったぼくを脅かす刃物だって、電工ハサミに違いないのだ。ずっと、とは、どこからぼくの存在を意識していたのか、油断していたつもりはないが、隙のない相手らしい。
 「ぼくは、きみの……ファンです」
 悪気があって言ったのではない。かすかに刃物の感触が、喉ぼとけに食い込んでくる。それでも、言葉を口にしたことで、隔たりのある相手との関係が狭まってくれる気がした。
 「ことと次第によっては、どうなるかくらい、わかるよね」
 殺人予告とも捉えられる、蔑みを隠そうとしない声色。女の意思ひとつで、ほんの少し手を握れば、閉じられたふたつの刃がぼくの柔らかい喉ぼとけを真っ二つにしてしまうだろう。昨日、見た、犬の首輪のようにちょっきりと。
 「きみが昨日、スーパーマーケットの駐輪場で犬と戯れているのを見たんだ」
 刃先が微かに動き、首を突く。いきなり確信をつかれ、動揺したのか。
 「恥ずかしい話、小遣い稼ぎにでもと、撮影した動画を投稿したかったんだ。きみと犬との組みあわせなら、いい商売になると思ってね……」
 「堂々と盗撮宣言するなんて、いい度胸しているじゃない」
 「盗撮だなんて……そんなつもりは……」
 そんなつもりは、なんなのか。犯罪者の常套句に自分で苦笑し、言葉を詰まらせてしまう。だけど、殺意ある女の行為だって、ぼくを被害者に仕立てているのは見逃せないのだ。
 「……これだって、過剰防衛じゃないか。下手したら、一方的な加害者になる可能性だって、否定できないんだぜ」
 「開き直るつもりなんて、ちょっと神経疑っちゃうな。状況、わかってる?」
 また少し、刃先が食い込む。
 「わかっていたら、なんだっていうんだ。こんな、道のど真ん中で、血の雨でも降らそうっていうのかい。声からわかるけど、まだ若いんだろ。はやまったこと、しちゃいけないよ」
 女がどれだけ脅迫してこようが、本気ではないことくらいわかっている。分はこちらにあるだろうと踏んでいた。女の小さなため息が頸にかかり、くすぐったさでたじろいでしまう。ほんの少し前に見出した心の余裕を揺るがせかねない。
 「面倒臭いな。若いから、歳とった連中より、人格が劣っているって言いたいのかな。分別ある大人を演じているひとって、気持ち悪い」
 触れてはいけない琴線に触れてしまったのか、ちくりと、聞こえたわけでもないのに、首の一部が熱を浴び、首もとから液体の流れていくのがわかった。どうやら、本気らしい。
 「謝るよ。自分の行動と言葉が一致していないことくらい重々承知さ」
 一応は頭を冷やしてくれたらしく、刃先が数ミリ遠のいてくれた。そこでいきなり、ぼくと女よりも後ろのほうから、中年女らしいしわがれた粘り気のある声が聞こえてくる。
 「最近の若いのは……!」
 後ろから見れば、人質にとられるぼくと人質をとる女の接近は、密着しすぎる恋人の様相を醸し出しているのだろう。中年女が必要以上にこちらへ来てくれさえすれば、真相が明らかになり、不利な状況に陥るのは女のほうだ。
 さすがに女も察知したのか、ぼくの拘束を解いてから、手をつなぎ、素知らぬ様子で前方へ進みはじめた。中年女はおもしろくないのか、早足にぼくたちを抜いていき、姿が遠のくまで、横顔から陰湿な視線を送り続けてくる。
 女の温もりを素直に喜べないのは、手を握るふりをしながら、そのなかには電工ハサミが構えられているからで、刃先が手首に触れ、妙な行動でも起こせば、血管の一本くらい切断してやるぞと、読まれなくてもわかる脅迫状が速達で届いたからだ。
 「血、出てる。目立つから」
 もう片方の手がハンカチを持ち、ぼくの首もとまで伸びている。ハンカチ越しに指先の感触が触れると、強張っていた肩をほぐされながら、親密の情が瞳に宿り、束の間の平和を愛するように、女の横顔を見てしまう。だからといって、なにか芽生えるわけではないらしく、自分で持てと言いたげに、ぐいぐい押し込んでくる。
 それにしても、どこへいこうというのか、死神の鎌がぶら下がる二人三脚につきあわされ、見えないゴールに向かって進んでいく。このまま牽制しあっていても埒が明かない。もう、いっそのこと、告白してしまうべきだ。
 「知っているんだ。犬の首輪、切断したんだろ、その、ハサミで」
 確証があるわけではない。状況証拠だけのはったりだ。それが功を奏したらしく、握られた手にちからが入り、触れていた刃先がさっきよりも深く手首へ吸いよせられていく。無言で歩きながら数分。握られていた手が離され(残念に思う)、女はぼくに視線をよこすと、死人のように色のない表情で口を開いた。
 「いいよ、撮らせてあげる」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み