第13話 スター、日常、元カノ②

文字数 4,590文字

その夜、彼らはいつもの居酒屋に入った。席に着くとすぐに前田がメニューをテーブルに広げた。
「あ、そうか。消費税五パーセントの表示になってる」
「なんか、へこむな」
「でも税込みの表示でよかったよ。今日は大木いないからな」
「しかし、三パーセントよりも計算楽なんじゃないか」
「いつか十パーとかになるのかな。そうすりゃもっと楽そう。八パーとかだったら面倒だけど」
「いや、でも金額でいったら二パーの差って、言うよりでかいぞ」
 ここで、錠がのんきな声で口を挟んだ。
「っていうか、増税って今月からだっけ」
 日本代表からの何気ない問いに、前田は手で顔を覆った。
「あああ、国民的スターが何言ってんだ。民を失望させるなよ」
「へん。五だの十だのって、ちっちゃいこと言ってんじゃないよ」
「さすがスターは違うな。器でかいよな。ゴール決定率百パーセントだもんな。そりゃちっちゃいわ」
「はあん? 相変わらずわけのわかんねえ」
 前田の話術に、錠はしばしばついていけなかった。
「しかしジョーフィーバー、もう社会現象だぞ」
 竹内の言葉に、錠は黙って鼻を鳴らした。
 ずっと敵だと思っていた世間の反応に、帰国直後こそ戸惑いを感じたが、その熱狂ぶりを実感するうち、やがて世間は俺になびいたのだ、そう思うようになった。
「でもあれだな。竹内のおかげだよな」
 前田が、話を膨らませにかかる。
「ん?」
「竹内に誘われなかったら監督の目にとまってなかったんだろ」
 前田の言葉に錠は何かしら反論したくなったが、他でサッカーボールを蹴ることなどないわけだから確かにそうだ。
「まあ、レポートの見返りに何かするって約束してたからな」
「でも錠、前半は遅刻だからな。また今度、残りの半分を出てもらおうか」
 あの日、夜型の錠は案の定寝坊をしてしまった。マンションから慌てて歩道に出たところで、幼い子供にぶつかった。泣き止まない子供に手を焼き、そのため試合の前半に間に合わなかった。
「しょうがないだろ。近所のガキのせいなんだよ」
 錠はいつもの口ぶりで自己を正当化した。
 店に入ってから結構な時間が過ぎ、おのおの酒がまわってきた。
「ところで、竹内はレインボーのこと知ってて錠を誘ったのか?」
「ああ、一年のとき入ってた今とは別のサークルで、一回だけ見たことあった。あれも冬だったかな」
「そういやあ一時期、お前ら二人で出かけてたな。竹内、錠のことあんまりうまくないって言ってたよな」
「俺そんなこと言ったか?」
 錠は黙って眉をひそめる。
 入学してからしばらく、竹内は時間をもてあます錠を気にかけていた。そのうち錠がサッカー経験者だと知り、それならとサークルに引き入れた。錠は竹内の誘いをすぐには受け入れなかったが、はっきりと断ることもせず、気付けばいつの間にか入会していた。思えば、ちょうど玲子と付き合いはじめのころだった。
 しかしサークルと言っても本格的で、錠のレベルでは練習についていくのは困難だった。慣れればそのうち追いつけると思ったが、何回か出ただけでは差は埋まらなかった。ボールに触れるたびにあざ笑われ、惨めな思いをするだけだった。
 しかし、やめようと思っていた矢先、これまた人数合わせで試合に出るチャンスがまわってくる。
 フォワードとして出場した錠は、いつものようにボールを受けるたびにミスして失い、チームメイトにも呆れられるばかりだった。当時のキャプテンはあからさまにいらついていた。
 だが、相手のファウルで無様に倒された直後だった。錠は屈辱に満ちた顔で起き上がると、味方をも出し抜き、あのフリーキックを敵のゴールに叩き込んだ。とっさの行動だった。
「いやあ、あのキックは……、錠はすごかったよ。みんな驚いてた」
「でもキャプテンはさ、なんか感じ悪かったけどな。それからずっと」
「うーん。きっと錠のこと、手に負えないモンスターに見えたんだろうな」
 キャプテンに冷遇され、そこに錠の居場所はなくなった。
「きっと後悔してんだろな、あの人も」
 ここで酔っ払いがまたあの話に触れた。
「いやあ、玲子ちゃんも後悔してんじゃないかなあ」
 前田節の直撃に、錠は動きを止めた。が、すぐに口元を緩めて見せた。
「へっ、関係ねえよ」
 それでも前田節は止まらない。
「東大大蔵省と代表のスターって、どっちがすごいかな」
「まあそりゃあ、代表のほうがかっこいいよな」
 竹内がフォローか本音かわからぬ調子で応じる。
「俺の周りでさ、東大入ったやつは中学の同級生にいたけど、ついに出ちゃったよ。日本代表が」
 しつこい前田に対し、錠はいつものように無関心を装ったが、東大大蔵省のネームバリューに心中は乱れた。
 あのゴールを決めたあと、興奮が覚めてから真っ先に浮かんだのは玲子の顔だ。その後も、ことあるごとに錠の脳裏をかすめていく。
 玲子は見ただろうか。レインボーを決めたときのあの勇姿を。それ以前にどこで知っただろうか、自分の元彼氏が日本代表に選ばれたことを。まさか全く――。
 玲子を思い出すたびに、錠のなかで認めさせたであろう自負と不安が入り混じる。
「代表は竹内、彼女はこの俺のおかげだよな」
 調子にのり続ける前田をちらと見て、錠は目を尖らせた。
 確かに、交際のきっかけは前田だった。
 元彼女、玲子とは前田がよその連中と企画したダンスパーティで出会った。竹内と大木は都合がつかず、錠は半ば強引に連れていかれた。これも講義のレポートを見せてもらった見返りだ。
 ダンスなど興味もない錠は、ごった返すフロアでただアルコールを口に運んでいた。人波を避けて漂ううち、ふと気付くと一人の女性と並んで立っていた。さりげなく見たその横顔はどこか寂しげだった。
 二人は言葉もなく、目の前で乱舞する男女の群れをただ眺めていた。
 そこへ前田がやってきた。
「おっ、錠。やるな、お前。いい子見つけたじゃん」
 前田の勘違いから接点が生まれ、そのお調子者の悪のりで連絡先を交換することになった。
 あれからいろんなことがあった。今は、このざまだ。戻らない過去を思い、錠は胸が焦げるような感覚をおぼえた。
 ――前田のおかげじゃない。前田のせいだ。
 険しい顔でうつむく錠を前にして、前田節はさらに続いた。
「スターっていやあ、やっぱユキヤだよな」
 普段から話題を膨らませるのはお手の物だ。これに合いの手をいれるのは竹内の役目だ。
「ああそう、ユキヤな。いつも、ここってところで点取ってくれるよな」
「俺、アジアカップの中国戦、鳥肌立ったわ」
「そういやあ、錠はユキヤの代わりに入ったわけだ」
「そうか。ユキヤの代役ってめっちゃ名誉じゃん」
 この言葉に、錠は下を向いたまま眉間のしわを深くした。
 いまだに俺がユキヤの代役だって?
 確かに錠はユキヤの代役として代表に呼ばれた。相手は日本スポーツ界のスーパースターだ。エースともキングとも言われている。その代役ならば光栄なことだ。しかし、今の錠には事情が違った。
「なんか声かけてもらってないの、よくやったとかさ」
 そうだ、代わりだというなら礼の一言ぐらいあってもいいだろ。
 そんなセリフが錠の頭をよぎった。よくよく思えばいまだ何の接点もない。
「でも代役だからさ、ユキヤが戻ったら錠はいらないんじゃない」
 これにはさすがの錠も、ジョッキを見つめる目を思わず見開いた。
 ユキヤがそんなにすごいか? 俺のレインボーは百発百中だぞ。
 すぐにその目が鋭く尖る。
 が、前田節には遠慮という詞はなかった。
「ユキヤなら金も持ってるから玲子ちゃんもイチコロなんじゃない」
 酔っ払いの暴走ぎみの発言に、竹内が喉を詰まらせながら前田と錠を交互に見やる。
 錠は真っすぐにジョッキを見つめていた。話はまだ聞こえてはいるが、そろそろ自分だけの世界に浸る準備に入っていた。
「玲子ちゃん、見た目からお金好きそうだったもんなあ」
 前田の口から垂れ流される言葉から、錠は玲子のシルエットを思い浮かべた。
 お嬢様の玲子が身につけているのはブランド品ばかりだった。ゆえに、錠のプレゼントも相応のものでなくてはならなかった。
 錠は無理をしてでも高級品を贈ったが、その甲斐あってか、玲子はいつも喜んでくれた。
 錠のプレゼントのなかで、玲子の最もお気に入りはハンドバッグだった。錠にはその価値がよくわかっていなかったが、会うたび彼女は必ず肩に下げてきた。嬉しそうなその顔を見るたび、錠はえもいわれぬ幸せを感じた。
 錠はジョッキの中に漂う自分を見ながら、次第によき日の思い出に深く身を沈めていった。
「でもあれだろ、玲子ちゃんは錠のファッションにもうるさいんだろ。お前、よくうざいってグチこぼしてたもんな。よかったんだよ。そんな女、東大大蔵省にくれてやれ。一流同士お似合いだ」
「おいっ」
 竹内がまた前田に警告を出す。だが、錠のほうは反応しない。
「あ、また無視か。さっきから黙ってさ。都合悪い話だとすぐ聞こえないフリするよな」
 前田の言葉を受け、竹内がそっと錠の顔をのぞき込む。錠はジョッキに目をとめたまま動かない。
「いや、この顔、完全に自分の世界に入ってるパターンだな」
「逃げ込みやがったか。フリよりひどいぜ」
「当分、帰ってこないな」
 竹内はどこかほっとした表情を見せた。前田は不満そうだ。
 彼らの飲みはいつも、錠が逃げ込むか、前田がつぶれるか、どっちが早いかという展開になるが、今日の前田は酔ってはいるものの、増税のせいでいつもほどではなかった。
「にしてもさあ、この男は普段何やってんだろ?」
 前田が呆れた口調で言った。
「そりゃ、ゲームだろ。錠は」
「そうなの? ほとんど外出しないんだろ。ゲームってそんなにずっとするもんかね」
「するやつはするんじゃない。ロールプレイングなんて何日もかかるから」
「俺たちがちっちゃいときは、テレビゲームなんてまだなかったようなもんだからな。俺はハマらなくてよかったわ。これからの子供はみんなそんなになるのかね」
「いや、すでに多いみたいだぞ。ゲームに限らず、閉じこもりっきりの若者」
「俺たちが外に誘わなかったら、どうなんのかな」
「誰か言ってくれなきゃ、ずっとやっちゃうんじゃない」
 竹内は錠の表情をうかがいながらそう言った。
「そういや錠の部屋、とうぶん行ってないなあ。彼女できてからかなあ」
「そう、呼んでくれなくなったよな。一回だけ、レポートもっていってやったけど」
 竹内が去年のことを言った。
「別れる前?」
「いや、そのあとだな。近所のレストランで待ち合わせしてたのに来ないから行ったんだ。玄関から見ただけなんだけど、えらいことになってた」
えらいこと?」
「中はゴミだらけで足の踏み場なんてない感じ」
 竹内は思い出し笑いで答えた。
「手伝おうかって言ったら、困ってないって。俺の城だからほっとけって」
「や、こいつは言うわ、そういうこと。でも俺の城って、流本城ってか。響きからしてダメそう」
「たぶんそのころやってたゲームで城を守ってたんだろうな。もっと前は勇者だの、救世主だのってよく言ってただろ。あれはゲームの影響だな」
 ここで錠がいきなりジョッキを口に運んだ。
「うおっ」
 錠は二度ほど喉を鳴らすと、それをテーブルに戻し、また上から見下ろした。
「驚いたあ。無意識だな、今のは」
 二人はその後も錠を観察して楽しんだ。
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