第6話 代表合宿!②

文字数 3,798文字

「カルロス」
 加瀬はひげのブラジル人を呼ぶと、錠を任せて選手たちのほうへ行った。
「やあ錠、僕はブラジルから来たカルロスだ。日本チームのコーチをしてい
る」
 カルロスに握手を求められ、錠もとりあえず手を出した。
「初めてで戸惑うこともあるだろうけど、素直な心でみんなと接してほしい。
僕も日本に来たときには緊張したもんだよ」
 カルロスの言葉に見透かされたような気がした錠は、余計に眉間のしわを
深くした。
「あ、今日はいろいろ説明するから、とにかく聞いてくれ」
 それから錠は皆から離れ、協会やチームのこと、日程のこと、練習メニュ
ーのことなどを聞かされた。
 今回、日本代表は来年行われるフランスワールドカップの、その一次予選
のために招集された。予選は一次予選と最終予選に分けて行われる。
 まず、一次予選は三、もしくは四ヶ国ずつの十のグループに分かれて戦う。
各グループはそのうちの二ヶ国のみを舞台に二回戦総当りでリーグ戦を戦
い、一位になった国だけが最終予選に進めるのである。
 日本はまず三月に敵地オマーンで、オマーンをはじめとする三ヶ国と戦い、
六月に日本でもう一度その三ヶ国と対戦する。実際、一次予選でライバル
といえるのはオマーンだけだ。他の二つは格下と見られ、実質オマーンとの
一騎討ちとみてよかった。
 日本は一度もワールドカップに出たことがない。四年前、あと一歩と迫り
ながら、最終戦のロスタイムで涙を飲んだ。そのときのことは今もドーハの
悲劇として語られている。それだけに選手も協会も、いや日本中が今回はな
んとしてもという思いに満ちていた。
 代表はこの東ヶ丘で数日間の調整を行ったあと、シンガポールへ渡り、本
格的な合宿に入る。そして、そこからオマーンに乗り込んで一次予選を迎え
る予定になっている。
 ピッチではマスコミもシャットアウトされ、片面だけでミニゲームが行わ
れていた。このチームで言うミニゲームは、二つのチームに別れたうえで、
攻撃側、守備側を固定して戦う実戦刑式の練習だ。
 錠は空いているほうのピッチの脇に腰を下ろし、ゲームに合わせてカルロ
スから戦術の解説を受けた。
 今の代表チームのフォーメーションは最前線にフォワードを二人並べるツ
ートップの布陣だ。体を張ってボールをキープし周りの選手を活かす、いわ
ゆるポストプレーヤーには大型の高村を置き、高村のキープしたボールを受
け取って得点を決めるゴールゲッターをユキヤが務める。
「今のが、左または右から崩して、高村のポストプレーを活かす基本パター
ンだ」
 カルロスはボールを手に持ち、大きなアクションで説明をした。ひとしき
りおおまかな点を話したあと、錠を呼ぶ原因となったユキヤの負傷と、それ
による戦術の修正についても付け加えた。
「フィニッシュを決めるのが攻撃的ミッドフィールダー、いわゆる二列めの
選手たちと、ツートップのもう一人なんだが……。よく言われることだけど、
そもそもこのチームは得点力が足りない。そのなかで、チーム得点の七割
を挙げているユキヤがいないのは非常に苦しい」
 そう言ってカルロスは錠を見た。
「そこでだ。君のフリーキックが必要になったんだ」
 錠はピッチのほうを向いたまま、再び顔をこわばらせた。
「だけど我々のうち、あれを見たのは監督と僕だけだし、しかも一度しか見
ていない。あれが本当に狙って蹴ったものなのか、またどのくらいの確率で
決められるのか、それを聞かせてほしい」
 しばらく間をおいて、錠は逆に聞き返した。
「もし、あれがまぐれだったらどうする」
 カルロスは答えづらそうだったがそれが答だった。
 しばし沈黙が流れたあと、カルロスが言った。
「サッカーは実力の世界だ。わかるだろう」
 あちらのピッチでは激しいなかにも活気に満ちた声が飛び交っていた。ポ
ールには日の丸が掲げられ、はためいている。
 やがて錠も口を開いた。
「あれは俺の唯一の……。百発百中に決まってる」
 そう言うと立ち上がり、カルロスの手からボールを取った。そして、空い
ているほうのゴールを見やり、ボールをタッチライン際にちょんと蹴り出し
た。
「ちょっと遠いけど、まあいいか」
 あちら側のゴール前では、ちょうど監督がゲームを止めてコーチングをし
ている。皆それに注目していた。
 錠はそちらとは反対側のゴールに向かって、助走を始めた。あのとき見せ
たフォームから、その唯一が宙に舞う。
 うなる弾道。
「おおっ、これだ」
 距離的にはちょっと足りなかったが、ボールは勢いよく弧を描き、強くピ
ッチに跳ねたあと、数回バウンドしてネットを揺らした。
「わかった、本物だ。こんなのブラジルでもそうは見れない」
 錠はこの日、初めて笑顔を見せた。
「監督はあのときから見抜いていたんだ。蹴り方でわかるって言ってた」
 それは独特な蹴り方だった。ボールよりかなり前に軸足を踏み込む。そし
て蹴り足は体の後方でボールをとらえ、そこから打ち上げるように一気に振
り抜くのだが、このフォームにはちょっと見ただけではわからない錠なりの
理論が詰まっていた。
「よく考えてるってさ」
 錠はさらに相好を崩したが、すぐに表情を消した。
 ピッチでは監督がコーチングで声を張り上げ、隅から隅まで小太りなボデ
ィで動き回っていた。
「僕が君についていろいろ任されている。よろしく頼むよ」
 カルロスの言葉に、錠は小さくうなずいた。

 合宿2日め、錠は早めに部屋を出た。
 昨日はマスコミを避けてカルロスの車で帰宅した。今朝も協会の関係者が
車で迎えにやってきた。
 他の選手たちは東京近郊に在住の者も皆、同じホテルに泊まっている。練
習後も食事を含めたコンディションやフィジカルチェック、ミーティングな
どがあるからだ。錠だけは自宅から通うことを特別に許された形だ。
 錠は自分が各紙の一面を飾ったことなど知らぬまま、東ヶ丘に直行した。
 メディアに載ったその姿は、髪で顔はほとんど隠れ、本人のコメントも全
くない。依然として、謎だらけの存在であった。
 錠はキャップで顔を隠し、マスコミを無視しながら球技場入りした。
 ロッカールームのドアを開けると、選手たちはすでに到着して着替えを始
めていた。
 昨日の件もあって気まずいなか、錠はあえて堂々と入っていった。が、自
分に割り当てられたロッカーの前まで来て、顔をこわばらせた。隣は、昨年
行われたアトランタ五輪代表の十番を務めた枡田敏之だった。彼はフル代表
でもすでに中盤の司令塔として定位置をつかんでいる。
「よう、大学三年ってことは二十一歳?」
 サッカー界の若きスターであり、ファッションリーダーでもある枡田が話
しかけてきた。
「え? ああ、そう……」
 錠は枡田のほうを見ることができなかったが、言葉はなんとか返した。
「じゃあ、俺と同じだ。岡屋とかも」
「ああ……」
 枡田は以前に錠が無理して買ったブランドの、その最上級品を身にまとっ
ていた。それを軽やかに脱ぎながら、枡田は話を続けた。
「体育会じゃないらしいけど、どこでやってるんだ」
「あ、ああ、サークルで」
 錠は答に困りながらも、会話が途切れないように努めた。
「へえ。じゃあ高校は?」
「地方の無名校……」
「そうか、だから今まで選ばれなかったのか」
 これには言葉が出なかった。
 ここで、枡田の一つ向こうから声がした。
「枡田、そんなやつほっとけよ」
 その主は岡屋弘行だ。岡屋は最近代表に選ばれるようになったばかりだが、
Jリーグおよび代表一の快速を誇る。
 錠は普段のままの、それでいて鋭利な目つきでそちらを見やった。だが、
枡田の小柄ながらも思いのほか厚い身体にさえぎられ、見えたのは岡屋のト
レードマークである長髪だけだった。その髪は何ヶ月か切らなかっただけの
錠よりもさらに長く、ワイルドなうねりがギラツキを放っていた。
 枡田は岡屋の言葉をここは聞き流した。
「俺、いつもアップとかユキヤさんと組んでたんだ。今日から一緒にやろう
ぜ」
「え? あ、ああ……」
 ピッチに出ると、今日もマスコミが大勢来ていた。監督が時間ちょうどに
現れ、練習が始まった。
 錠は全体で行うランニングでは一番うしろをついて走った。
 目の前をいく枡田の異常に発達したふくらはぎに目がとまった。フィジカ
ルが課題といわれる枡田だが、さすがにプロだ。こんな脚は、錠の周りでは
見たことがない。
 その後の柔軟運動では誘われるままに枡田と組んだが、変な意味ではなく、
触れ合うだけで緊張が倍加した。そのあと、互いにボールを蹴り合ったが、
レベルの差は歴然だった。
「予想どおり、いやそれ以上や」
 加瀬は軽く笑ってそう言った。そのそばでカルロスは錠をじっと見つめて
いた。
 マスコミも初めてボールに触る秘密兵器に注目していたが、錠にはそれを
感じる余裕などなかった。ただひたすら慎重にトラップとキックを繰り返し
た。
 枡田がテンポを上げた。錠はとっさに反応できず、脇にボールをこぼした。
「緊張してんのか?」
「そりゃ、枡田相手じゃな」
 マスコミはそう受け止めた。
 監督が指示を出す。
「あんまり見せんほうがええな、もうやめさせろ」
 アップはそこまでとなり、チームは本格的な練習に入っていった。
「流本、お前はいい」
 加瀬が錠を呼び止めた。
「秘密兵器やからな」
 東ヶ丘での合宿の間、錠はカルロスのもと、ランニングや基本的なフィジ
カルトレーニングのみを課せられた。
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