第10話 虹

文字数 3,861文字

 オマーン対日本。
 後半は選手交代があった。しかし錠ではない。Jリーグの人気者、代表最
年少の友近智也だ。日本サポーターから歓声が起こる。
「おお、トモだ」
「日本も本格的な攻撃態勢に入ったぜ」
 友近は弱冠十九才にして代表入りした攻撃の選手だ。スタメンに名を連ね
るにはまだ至らないが、ポストユキヤの一番手と見られている。見た目はい
かにも子供っぽいが、ドリブルのキレには定評があり、その突破力に期待が
集まった。
 友近の投入によって日本はツートップに変更、より攻撃的な布陣となった。
 しかし後半になっても、さして守備的とは言えないオマーン相手に日本は
攻めあぐねた。友近にもなかなかボールが渡らない。フリーキックのチャン
スにも監督は動かず、依然として錠の出番もなかった。
 ゲームはこう着状態のなか、〇対〇のまま後半も三十分がたったころ、ほ
とんど動かなかった監督が立ち上がった。
「トモ、もっとアタックせい、どんどんいけ」
 さかんに友近に声をかけた。そしてカルロスに何かの指示を出した。それ
を受け、カルロスは第四審判のところへ向かう。錠は硬直した状態でそれを
見つめた。
 いよいよか――。
 戻ったカルロスが、錠に近くで待機するよう指示する。錠は再び始まった
息苦しさに呼吸を乱しながら、その時が訪れるのを待った。
 それからのち、中盤から友近が再三突破を計り、相手の疲れもあって攻め
立てた。そして三十五分、ドリブルで切り込んだ友近がペナルティエリアの
やや外側で倒された。ファウルだ。
 腰を下ろしていた加瀬が立つ。
 だが、また座った。
 気付くと、第四審判が錠に向かって何やらさかんに言っている。
が、ここはカルロスが間に入って収まった。
「な、なんなんだよ」
 錠はめまいを感じ、トラックに片膝をついた。
 ピッチでは、倒れていた友近がベンチをうかがいながら立ち上がった。友
近は交代で入るにあたり、監督から言われたことがあった。一つはドリブル
で積極的に仕掛けること。もう一つはファウルで倒されたらしばらく立つな
ということだ。
 この場面も、枡田が打ったフリーキックはゴールバーを越え、またも得点
ならず。
 あと二分。日本側は選手もサポーターも、敵地で引き分けならよしという
雰囲気になっていた。
 しかし、ここでまた友近が倒された。先ほどとほぼ同じ、ペナルティエリ
アの外側五、六メートル位うしろのところだが、もう少し右サイドに寄って
いた。
 このときだ。監督が勢いよく立ち上がった。
「ここやっ、錠っ!」
 加瀬が叫んだ。錠もその言葉に思わず立ち上がったが、目の前はまっ白に
なっていた。
「よし、行ってこいっ」
 カルロスが激しく背を叩く。その衝撃で我に返った錠は押されるように戦
場へ足を向けた。
 錠は目線も定まらぬまま、タッチライン際に立った。足元には果てしなく
引かれた白い境界線。焼けるような熱気が襲う。
「選手交代だと」
「ええっ、トモとかよ」
「誰だ、あいつ」
「二十三番? ああっ、流本だ」
 観衆も、マスコミも、テレビの前の日本人も、そして選手たちも驚いた。
 交代に戻ってきた友近と入れ代わり、錠はついに境界の向こうに足を踏み
入れた。
「なんだって今ごろ」
「もう試合が見えたから、慣れさせるんだろう」
 誰もがそう思った。
「アウェイで引き分けならまあいいか。といっても、次も不安だよな。攻撃
陣」
 そんな声も聞かれた。
 スタジアムのヒートアップの真っ只中、錠は平衡をなんとか保ちながら現
場へと近づいていく。
 ピッチの右サイド、ゴールまで二十メートルほどの地点では、枡田がボー
ルをセットし、フリーキックの準備に集中していた。歓声のなか、加瀬がゼ
スチャーを交えて叫ぶ。そこへ走っていく錠を指差している。
 枡田のそばで南澤が顔をしかめた。
「なんだって? まさかあいつにってんじゃねえだろうな」
 ベテランは枡田を代弁するかのように吐き捨てた。
 錠は自分を見た枡田に、なんと言ってよいかわからなかった。が、枡田は
監督の指示どおり、錠に場所を譲った。
「……頼むぜ。なあにブーイングなんていつものことさ。いつものな」
 枡田は目を合わせずに錠の肩を叩き、相手のつくる壁に紛れた。
「おいおい、あいつが蹴るのか」
 日本のサポーターからも疑問の声が上がる。
 スタジアムを包んだ大ブーイングのなか、錠は膝をついてボールをもう一
度セットし直した。さらに増すごう音。
 敵意の集中砲火にさらされ、錠は揺れる体を保とうと芝をつかみ、己を保
つために言葉を吐いた。
「うるせえんだよ、ちくしょうども」
 普段の鋭い目つきで前を見やる。
 いつものこと――。
 そうだ。こんなことは今に始まったことじゃない。ずっと一人だった。い
つも周りは敵、そうやって生きてきたんだ――。
 双方の選手が入り混じった壁をにらみつけながら、錠は立ち上がった。そ
して五歩下がり、大きく息を吐いた。壁の向こうを見渡し、狙いを定め、つ
ぶやく。
「この一発で吹き飛ばしてやる。こいつらも……、エリートも、高級ブラン
ドも、一流企業もだ」
 内から沸き上がる火照りを身にまとい、錠は助走に入った。
 ボールを大きく越えて勢いよく軸足を踏み込む。体のかなり後方で、ボー
ルをさらうようにとらえ、一気に蹴り抜いた。
 長いインパクトに大きく歪められたボールは、はじき出されるように夜空
に舞い上がった。
 大きい――。誰もがそう思った。が、またしても皆その目を疑うことにな
る。
「消えた?」
 その瞬間、加瀬は瞳孔を見ひらいたまま、ニヤリとした。
 大きくしなるネット。
 ボールはえぐるかのごとくゴールを捕らえていた。
 カルロスが拳を握って立ち上がる。笛の音に、静まり返っていた観衆が一
斉に沸いた。
「うおおおっ」
「すげえ、すげえよ」
「ああ、あいつやるよ」
「ほんとに秘密兵器だ」
 錠の前に無力だった敵の壁が、膝から崩れ落ちる。
 錠はしばらく瓦れきの向こうに転がるボールを見ていたが、大歓声に思わ
ず腕を大きく突き上げた。日本の選手たちが、駆け寄って抱きついてくる。
もみくちゃにされながら、錠も笑顔にならざるをえなかった。
 試合はすでにロスタイムに入っていた。その後すぐに再開されるも、敵に
はもう反撃に出る気力はなかった。錠は早々にディフェンスの選手と交代し
てベンチに戻ったが、興奮は収まらなかった。
 やがて笛が三度鳴り、タイムアップを告げた。日本は初戦を勝利で飾り、
見事第一関門を突破した。
 この試合のヒーローはもちろん錠だ。スタジアムに響くサポーターのコー
ルのなか、錠は日本のマスコミによるインタビューに呼ばれた。
「おめでとうございます、すごいゴールでした」
 錠にとってはこれまた初めての体験だ。表情はいつもと違い緩みっぱなし
だが、言葉は出てこない。
「いえ、まあ」
「あれはもう決勝点を狙って蹴ったんですか」
「あ、もちろん」
「秘密兵器と言われていて、今までベールに包まれていましたが」
「あ、はい……」
「……これからもチャンスになれば、あのキックで登場するんでしょうか」
「ああ、そうですね、たぶん」
 次第に慣れ、緊張もほどけてきた。しかし、インタビューはここまでだっ
た。
「それではこれからも頑張ってください。ありがとうございました」
「え、ああ、はい……」
 続いて加瀬のインタビューが始まった。
 錠はお立ち台から下りてそのあと、取材攻勢にあった。
「あれはどういうシュートなんでしょうか?」
「あれは普通の蹴り方じゃないよね」
「蹴り方にすごさの秘密があると思うんだけど」
 いろんな人間に一度に尋ねられたが、聞きたいことはすべて例のモノにつ
いてだった。
「原理は言えませんね、秘密兵器っすから」
 先ほどとは違い、錠の口もなめらかだ。
「じゃあ、いつ、誰に教わったんだい」
「あ、自分で。自分で編みだしたんすよ」
「ほう」
「名付けて、〝レインボーキャノン――虹をみたかい〟」
 決まった。錠は心中思った。が、
「なんちゃって」
 さすがに照れ臭くなっておちゃらけた。
「おお、いいねえ」
 取材陣も大喜びだ。
「君は秘密になってる部分が多いけどもういいでしょ、聞かせてよ」
「ああ、そうですね……」
 錠はちょっとためらったが、少しならいいかと思った。しかし、そこへイ
ンタビューを終えた加瀬が現れた。
「お前は、着替えろ」
 そう言って錠を人だかりから追い出した。
「あいてて。……ちえっ」
 錠が控え室に戻ると、他の選手たちはすでに着替えを始めていた。
 日本は勝つには勝ったが、攻撃面の課題は依然残る。皆、それを思うと手
放しでは喜べなかった。
 ピッチでは手厚いもてなしを受けた錠だが、ここでは誰も寄ってはこない。
そんななか、自ら錠に歩みより、声をかける者が一人いた。
「錠さん、すごいですね」
「ああ、友近か」
「あんなの見たことないですよ」
 今まで接点がなかったため会話するのは初めてだが、見た目どおりの無邪
気さで友近は話しかける。
「僕もファウルもらった甲斐がありましたよ」
「そういやあ、倒されたの、お前だったっけな」
 錠は友近の相手をしながら、静かに着替える選手たちを見て、どうだ、と
思った。
 俺は素人だ。でもプロのお前らが何分かけても取れなかった点を一人で、
たった一蹴りで取ったんだ。
 そう思った。
「また頼みますよ、錠さん」
「おう」
 日本はアウェイでの残り二試合を格下相手に圧勝し、錠の出番はなかった。
オマーンも同じく二試合に完勝し、日本が勝ち点で上回ってはいるが、得
失点差のリードはごくわずか。日本ラウンドが勝負となった。
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