第4話 代表、就活、元カノ

文字数 2,869文字

合宿前日、錠はいまだサッカー協会に連絡を入れずにいた。あちらからの
電話は毎日のようにあったが、出なかった。
 この日もかかってきたが、いつものように受話器は取らず、録音されるメ
ッセージをそばで聞いていた。
「いるのか、いないのかわからんが、とにかく聞いてくれ。これが最後や。
勝手にこんなことして迷惑かけたと思ってる。けど、どうや、全日本でやっ
てみんか。フリーキックだけでいいんや。そのキック貸してくれんか。とに
かく東ヶ丘で待ってる――」
 錠は電話機を見つめながらしばしたたずんた。
 しばらくして、もう一度電話が鳴った。応答メッセージが再び流れる。相
手は構わず話しはじめた。
「おい錠、俺だよ。出ろよ。いるんだろ」
 錠は受話器を取った。
「ああ、なんだ竹内か」
「あ、やっぱりいた。錠、今晩飲もうぜ」
 錠はちょうどいい気分転換だと思い、誘いにのった。場所はいきつけの居
酒屋だ。
 そこには、なじみの面々が集っていた。竹内の他に二人、前田に大木だ。
彼らに会うのは先月の後期試験以来のことだ。
「おう、久しぶりだな。お前、また髪伸びたなあ」
 錠が店に入るのを見るなり、すでに赤ら顔の前田が大きな声を出した。大
学の仲間である彼らは皆スーツを着ている。
「なんだ、お前らそんな格好で」
「何言ってる、当然だろ。そっちこそ」
 銀縁メガネの大木が、座ろうとする錠の姿を上から下まで眺めてそう言っ
た。
「セミナーの帰りなんだ。今日はたまたまみんな一緒でな」
 竹内がわざわざ説明する。前田が隣に座った錠の肩に手を掛けた。
「気楽でいいなあ、錠は」
「どういう意味だ」
「日本代表でそれどころじゃないもんな」
 大木が、すかさずたたみかける。彼らは錠の数少ない友人だが、いつも互
いに辛口だ。錠は口を尖らせた。
「関係ねえよ」
「どうすんだ、合宿。明日だっけ」
「行かねえよ」
 竹内の問いに、錠は険しい顔で答えた。
「なに、代表入るのやめんの? どうせ暇だろうに」
 前田の言葉には反応を示さない。
「代表に行ったら、憧れのあの選手に会えんじゃないの。ボンバのエースに
さ」
「いや、もうボンバの選手じゃないから。だよな、錠」
 サッカーについての話題に、錠は口を閉ざした。そこへ、大木が別のタマ
を蹴り込んだ。
「就職はどうすんだ」
 錠は顔をそらし、眉間にしわを寄せながら口を開いた。
「するさ当然。するしかないだろ」
「あんまり乗り気じゃなさそうだなあ、相変わらずさあ」
 前田が相変わらずの大きな声で返した。
「面倒じゃん」
「ほんと相変わらずだよなあ」
 竹内が笑って言う。
「それですめばいいんだけどよ」
 大木は真顔だ。
「まあなあ……。そりゃあ、そうだ」
 竹内からも笑みがひいていく。
やがて話題はその日のセミナーの件になり、錠はとり残されていった。た
だ耳に入ってくる言葉をさかなに、黙ってひとり飲み続けた。
「やっぱ、厳しいよな」
「不景気かあ」
「なんでこんな時代に就職活動なんだろ」
 皆、出るのは愚痴ばかりだ。錠は就職活動について深く考えるのが嫌だっ
た。周りが就職就職というのもわずらわしかった。
「上島ゼミの土田。あいつのおじさん、オオタ商事の専務だって」
「なんだ、じゃあ決まったようなもんじゃん」
 なかにはコネをひけらかし得意になっている者もいて、余計にうんざりし
た。
「オオタ商事かあ、いいなあ」
「俺は今度、川島電工のセミナーに潜り込もうと思ってる」
「マジかよ。じゃ、俺も一流どころ当たってみようかな」
 どうせ俺たち三流大じゃあな、そう心で笑って錠はジョッキを大きく傾け
た。
 なんて不愉快なんだ。不景気ってなんだよ。バブルって誰のせいだ。なん
で政治とか経済に俺が振り回されなきゃいけないんだよ――。
 そんな気分のとき、日本代表という響きは錠を魅了した。しかしそれも束
の間で、実際に自分がピッチに立ったときに何ができるのか、そう考えたら
同じだった。
 フリーキックだけでいい、か……。
 やがて周囲の声も耳に入らなくなり、店の喧騒のなか、錠はひとり思いに
ふけった。
「でも面接って緊張するよなあ」
「ま、数こなして慣らさないとな」
「多分こいつなんてさ、また恐い顔して印象悪くするんだぜ」
 竹内が、ジョッキを上から見つめている錠を小さく指して笑った。
「そうそう。ま、こいつの場合、シャイの裏返しみたいなとこもあるけどな」
「緊張すると、すぐ赤くなるのな」
「あとさあ、不満なときとかさあ、すぐ眉間にしわ寄せるじゃん、こーんな
ふうにさあ」
 ろれつの回らなくなった前田が錠の顔まねでおちゃらける。
「そうそう。なんで俺が、みたいな」
「で、口尖らせてな」
「普段から目つきよくないのに余計おっかないよな」
 気付かない錠をネタに三人は盛り上がった。
「やっぱ、錠は向いてないかもな」
「別にいいんじゃん、就職なんて興味ないんじゃん」
「さすがにそんなことはないだろ」
「そうなの? 興味はあんの?」
 もうすっかりできあがった前田が、自分の世界に浸る錠にとぼけた口調で
問いかけた。錠は反応しない。
「おい錠、どうなんだよ!」
 前田は、大声で錠を叩いた。錠は面食らったあと、いつも以上に鋭い目つ
きで前田をにらみつけた。竹内が慌てて酒を注ぐ。
「ああ、すまん、錠。俺たちばかり話して」
「呼んどいてほったらかしはねえよなあ」
 前田は他人事のように笑った。
「話題かえよう」
「じゃあ、女の話」
「前田が得意な分野だな」
「へへ、いいのが来てたよな、今日も」
「おい、今日の話はいいんだよ」
「ああ、そうか。ところで女っていやあ、彼女どうしたんだっけ、玲子ちゃ
ん」
 前田が吐いた言葉にその場が凍りついた。竹内と大木が、ともに錠の顔色
をうかがう。
「おい、前田っ」
 竹内が対面の前田の足を蹴ってけん制した。
「いいよ……。玲子は今、東大卒の大蔵省と付きあってるらしい」
 ずっと黙っていた錠が、ジョッキに視線を落としながら答えた。
「へえ……」
 気まずい雰囲気のなか、錠は立ち上がった。
「トイレ」
 錠が消えたあと、竹内は泥酔状態の前田にイエローカードを突きつけた。
「いいかげんにしろよ。お前な、玲子ちゃんとあいつのこと知らないわけじ
ゃないだろ」
「無駄だ、酔っぱらいに言ったって」
 呆れたように大木が言う。前田はもうほとんど寝ていた。
「でも、よかったよ。何事もなくて」
「基本的に喜怒哀楽激しいからな、錠は。なまけもののくせに」
「ははは。そういや入学当時、初めは近寄り難かったけど、話すと以外に明
るくてな」
「でもさ、あの件以来ずっと暗いような……」
「そういや、あれからか? 髪切らなくなったの」
「いや、一回だけ切った。そんときは吹っ切るつもりだったんだろう」
「うーん、しかし東大大蔵省が相手じゃなあ」
「あの娘、そういうタイプだったもんな」
 戻ってきた錠に向かって、前田が寝言のように叫んだ。
「やだやだ学歴社会、日本代表はそんなの無関係っ。実力で勝ち取れ、ワー
ルドカーップッ!」
「ふん、ほっとけよ」
 錠は冷めた笑いを浮かべてつぶやいた。その後はあまり酒が進まず、その
日のうちに引き上げた。
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