第9話 開戦!!

文字数 3,613文字

 初戦にして一次予選最大の山場、オマーン戦を控えた前日。日本代表の練
習はメディアには非公開となった。今回はセットプレーなどの確認のためだ。
 練習後、監督は他の選手たちを引き上げさせたあとも錠をスタジアムに残
した。照明のもと、今ピッチにいるのはカルロスを含め三人だけだ。
「例のモノ、見せてくれ」
 スカウトして以来、監督はここまで例のモノを見せろとは一度も言わなか
った。錠も東ヶ丘でカルロスに見せて以来、蹴っていない。錠の背筋を一瞬、
何かがかすめる。
 加瀬は錠にいろいろな位置から蹴らせた。錠のシュートはすべて指示どお
りのコースを飛び、ゴールをとらえた。錠はどうだと思った。確かに加瀬も
驚いた。しかし、
「ふむ、距離はそう長くないな。ゴール枠に飛べばええいうもんやないから
な」
 ゴールマウスを見ながら、きつい言葉を吐いた。
「よし、わかった。今夜はよく寝とけ。あと、それにネーミングしとけや」
「ネーミング?」
 錠が聞き返すより先に、加瀬はカルロスのほうをうかがっていた。
「まあ、あとはわしらや。ほんまに大変なのは交代のタイミング、手続きや
らなんやら」
 想定される錠の出番は、味方がファウルで倒されたとき、すなわち直接フ
リーキックの場面でだ。いや、そのときをおいて他にはないといってもよか
った。
 スタジアムの照明が落とされたころ、他の選手たちはすでにホテルで疲れ
を癒していた。
「シロウトはまだ帰ってねえのか」
「そうみたいだけど」
「加瀬さんも一緒になってよう」
「何やってんだか」
 その夜、錠はなかなか眠ることができなかった。入浴が遅かったせいか、
軽く火照っている。
 オマーン入りしてからずっとうるさかった中羽のいびきは、いつもの時間
になっても聞こえなかった。錠は眠れぬついでに、例のモノのネーミングを
なんとするか考えて過ごした。やがて、ようやくいびきが響きはじめたころ、
錠も眠りについた。
 目を覚ますと決戦の日の朝を迎えていた。
 錠は寝るには寝たが、寝覚めはよくなかった。どうにも頭が重い。中羽は
早めに朝食に行ったのだろう、すでにいなかった。今朝の食事の時間は、各
自の調整のため多少の前後は許されていた。錠は目いっぱい睡眠に当てた格
好だ。用を足すと、錠もさえない気分のまま食堂に向かった。
 寝ぼけ眼で食堂に入るやいなやだ。食事をすませて出ていく南澤と強めに
接触した。
「いてっ。気を付けろ!」
 南澤は険しい顔で錠を怒鳴りつけた。去って行くそのうしろ姿をにらみつ
けることしかできなかった錠は、憤まんやるかたない思いのまま席に着いた。
 すぐさまカルロスが隣に座ってくる。
「やあ錠、寝られたか? 気分はどうだ」
「最悪に決まってんだろ」
「気にするな。みんな気合入ってるからね」
「けっ。子供の運動会かっての」
 食事を終えて部屋に戻る際、ラウンジのそばを通ると、そこで何人かの選
手が体を動かしていた。普段、ホテルでは見ない光景だ。
「へ、なに張り切ってんだよ」
 錠はわいてきた苛立ちをもてあましながら部屋へ戻った。
 日本代表は、夜の試合に備えて昼過ぎから調整を行った。いつも以上に気
合の入った選手たちを見るほどに、錠の心には冷めた言葉が浮かんでくる。
「ま、俺には関係ねえや。せいぜい頑張りやがれ」
 太陽が沈みかけても依然衰えぬ蒸し暑さのなか、日本代表はアウェイのス
タジアムに乗り込んだ。ミーティングのあと、錠は他の選手たちに続いてピ
ッチに出たが、そこでとてつもない光景に出くわした。
 スタンドを埋め尽くした敵のサポーターの声が、高波のように上から襲い
かかる。こんな大観衆に見下ろされるのはもちろん初めてだ。あまりのごう
音に錠は平衡感覚を失いかけた。物理的に揺られる体に合わせるように、精
神的にも揺さぶられていく。
「うう、こんななかで球蹴るのかよ」
 心の準備もないまま見舞われた出来事に、錠は思わず弱音を漏らした。立
ちすくむ錠の背後で声がする。
「いつものことさ」
 錠は反射的に振り返った。
「五輪予選の韓国戦なんてこんなもんじゃなかった」
 中羽だ。てめえサブのくせに、錠はそう思ったが声が出ない。中羽は錠の
反応には興味を示さず、スタンドの一部に向かって両手を上げ、軽く拍手の
パフォーマンスを取った。その先には、やや遠めだが日本のユニフォームを
着た青い一団が見える。わずかながらも日本サポーターも敵地に陣取り、声
を張り上げていた。
 やがて他のメンバーたちが動き出し、アップを始めた。それを見て錠は改
めて気付いた。
「そういや、俺もサブだったか」
 まさに試合直前となり、スターティングメンバーはピッチ上に整列し、国
歌斉唱となった。
 日本の斉唱時は敵側のサポーターも静粛になり、このときばかりはスタジ
アムも平穏を取り戻した。
 錠は皆に合わせてベンチ前に並んで立ったが、ともに歌うわけでもなく、
ただ国歌を耳にスタジアムを見渡していた。聴覚の落ち着きとは逆に、一斉
にたかれるフラッシュが視覚を刺激する。スタンドだけでなく、ピッチ周り
の陸上トラックからも、まばゆい光が選手たちに浴びせられていた。
 フラッシュの挟間にテレビカメラを見つけ、錠は日本でも皆が見ているで
あろうことを実感した。
 通常のプレーが赤子同然の錠の出番は、一度のチャンスだけだ。そのとき
はいつやってくるのだろう。試合前のミーティングで、監督は一点勝負だと
言った。だとすると、例のモノを放つチャンスとみるや、すぐに出番かもし
れない。
 次第に鼓動が高鳴っていく。
 どこか他人事だったこの一戦が、受け止められずにいた現実が、目前に迫
っていることを突きつけられたとき、錠はかつてない息苦しさに襲われた。
 やがて斉唱が終わり、再びごう音が響きわたった。独特なリズムが、こわ
ばった錠の体を断続的に突き刺す。
「う、うう」 
 大歓声のなか、選手たちがピッチ上に散った。錠の動揺などお構いなく、
高らかに笛が鳴り響く。ついに始まった。
 日本はこの試合、ユキヤを軸としたときのツートップではなく、フォワー
ドを一人だけ置くワントップの形で臨んだ。ユキヤの離脱以降、ポストプレ
ーヤーの高村と組む若手のフォワードを何人か試してきたが、ユキヤの代わ
りはまだ務まらなかった。
 そこで加瀬はミッドフィールダーを増やし、中盤を厚くすることを選択し
た。合宿中から取り組んできたが、実戦は初めてだ。
 試合のほうは立ち上がりは静かだった。どちらも相手の様子をうかがって
いた。とはいえ、ホームのオマーンは、ランク的に上とされる日本が相手で
も守備重視の布陣を敷いてはいなかった。ホームのこの試合で、なんとして
も勝利を挙げたいことの表れといえた。
 やがてそのオマーンが攻勢に出ようとしたとき、中盤のプレスが効いて南
澤がボールを奪った。そして一人かわすと、前に出た枡田にパス。
 枡田はミッドフィルダーの中でも最も攻撃的な役割を担っている。司令塔
としてゲームメイクをする一方、自ら積極的に個人技でゴールを狙う。
 枡田は薄くなった相手守備の隙をついてドリブル突破を計る。それに対し、
相手ディフェンダーが身体ごと止めにかかった。転がる枡田。相手の身体
能力は高い。
 しかしファウルをもらった。ペナルティエリア左隅より五、六メートルう
しろだ。錠は思わず監督を見る。が、動かない。
 錠はふうと息を吐き出した。まだ交代用紙も書かれていないのだから出番
はあるはずもないのだが、それだけ舞い上がっていた。
 日本のフリーキック。キッカーは枡田だ。ゴール前にはオマーンの選手が
ゴールを隠すように並んで壁をつくる。それをかく乱させようと日本の選手
たちも壁に割り込んでいく。駆け引きは蹴る前からだ。高さでは相手が勝っ
ていた。
 枡田は直接ゴールを狙った。が、ボールは人壁に当たり、こぼれ球は相手
に蹴り出された。
 これを機に試合は俄然白熱し、ボールの動きが激しくなっていく。
 その後、両者攻め合うも相譲らず、一進一退が続いた。フリーキックの機
会は何度かあったが、監督は動かない。ファウルのたびに錠は胸を詰まらせ、
そしてなでおろした。キックの名手、枡田がその都度得点を狙うもゴール
を奪うには至らなかった。フリーで蹴るとはいえ、そうそう決まるものでは
ない。
 やがて両者無得点のまま前半は終了。イレブンは汗だくで控え室に消えて
いった。
 ベンチから立ち上がり、錠は大きく息をついた。試合開始から続いたプレ
ッシャーからようやく解放され、しばしの安息を得た。
 ハーフタイム中、サブのメンバーはピッチに出てボールに触り、体を動か
した。しかし錠は観衆の前でボールを蹴るなと言われている。ひとりベンチ
に座り、腕組みのままスタジアムを眺めていた。
 それを見た日本サポーターの一部から、非難の声が上がりはじめる。
「おい、なんだよあいつ、流本」
「ああ、何やってんだ」
「あいつ、いい気になってんだよ、なあカト」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み