第5話 代表合宿!①

文字数 3,059文字

 合宿当日の朝が訪れた。
 珍しく夜のうちに寝つき、外からの明かりで目を覚ました錠は、横になっ
たまま壁を眺めていた。その先にはボンバ大船のカレンダーが、忘れられた
ように掛けられていた。とうに過ぎた月日が並ぶその上のスペースをある男
のユニフォーム姿が占めていた。その勇姿は日々差し込む日の光を受け、段
階的に色あせていた。
 部屋はいつものようにゴミに埋もれていたが、その上には国家公務員試験
のガイドブックとサッカーの教習本が無造作に放られていた。
 やがて起き上がった錠は着替えを始めた。
「近いし……」
 最寄り駅から東ヶ丘球技場までは三十分ほどしかかからない。集合は午後
一時だ。まだ三時間もあった。
 靴をはき、スポーツバッグを背負った錠は、ドアの前でいったん立ち止ま
った。振り返ると、昨晩クローゼットから引っ張り出したものの、目を通す
ことさえしなかった試験のガイドブックが目に入った。錠はすぐに顔を背け、
ドアを開けた。
 外には出たはいいが、まだ球技場に向かうには早すぎる。とりあえずはこの
時間から開いている食堂を探した。丼チェーンやファストフードではいけな
い。大衆食堂だ。駅の向こうにようやくそれを見つけた錠は、のれんをくぐ
るとまずスポーツ新聞を探した。しかしどれも皆、他の客が読んでいる。錠
はひとまず席に着き、注文をした。
 いらつく錠にお構いなく、誰もスポーツ紙を手放さぬまま、カツ丼が来た。
食べながらのんびり待とうと決めた矢先のことだ。
 カウンター席にいる客の一人が新聞をいっぱいに広げながら、手の空いた
店の者に語りかける。
「店長。これ、日本代表のさ、この難しい名前の素人のこと、何か知ってる
?」
 錠はセットでついてきたとん汁をすすりながら、思わず焦った。不自然に
見られまいと、飲むペースを維持するよう努めた。
「あれでしょ。素人っていうか、学生ね」
「ああそう、プロじゃないからつい。まあ、きっとすごいんだろうねえ」
「ユキヤの代わりだもんなあ」
 とたん、お約束のように喉を詰まらせた錠は顔をそらして咳き込んだ。
「謎のシンデレラボーイついにお披露目、だってさ」
 錠はカツ丼をひたすらかき込み、金を置いて外へ出た。
 時計を見ると、十一時前だった。まだ二時間以上ある。錠はイヤホンを耳
に駅前のCDショップや本屋をめぐって歩いた。
 すれ違う若者たちが、代表の話題を口にしている。
「今日だよね、秘密兵器の正体わかるの」
「ああ、そうそう」
 イヤホンから高周波を漏らしながら歩く錠の耳には届かない。
 一時まで三十分を切ってから、彼はようやく駅に向かった。
 電車を乗り継ぎ、東ヶ丘球技場の最寄り駅に降り立った錠は、まず周辺案
内図で場所を確認した。このとき、すでに一時を二十分過ぎていた。
 案内図の示すほうに向かってとろとろと歩いていると、やがてそれらしき
ものが見えてきた。
「あれかあ」
 目の前まで来て錠は一度立ち止まった。そして、ふうと一息ついてから門
を越えた。敷地に入ってすぐ左手に、球技場そのものがうかがえた。
「選手はどっから入るんだろう」
 錠はとりあえず、入口の警備員に尋ねた。
「マスコミじゃないね、どういった関係の人?」
 警備員はいぶかしそうに錠を見やった。錠は紅潮した顔をそらしながら答
えた。
「あの、一応代表に呼ばれて来たんですけど」
「はあ? あ、もしかして。身分証明見せてもらえます」
 錠は財布から学生証を取り出した。それを見るや、警備員はトランシーバ
ーでどこかへ連絡をし、やがて錠を球技場内の更衣室まで案内した。
「ここでしばらくお待ちください」
 更衣室は思ったより広く、整頓されていた。
 周りをロッカーに囲まれ、錠はひとり突っ立つより仕方なかった。閉ざさ
れた空間の真ん中で、とりあえず自分のバッグを開けた。
 そのときだ。勢いよくドアが開いた。
「お待ちしていました」
 スーツ姿の男が慌てた様子で現れた。
「協会の有働です」
「ああ、流本です……」
 有働は錠を上から下まで見たあと、袋から何やら取り出した。
「これが君のユニフォームです」
 自分が持ってきたジャージを出そうとしていた錠は慌ててバッグにしまっ
た。そして有働からそれを受け取り、思っていた以上の青さに目を奪われた。
「さ、着替えて」
 言われるままに袖を通し、首を出した錠は胸に手を当てた。正面真ん中に
大きく二十三番。背中だけでなく、前面にもゼッケンがあしらわれている。
そして弾む鼓動の上には八咫烏のエンブレム。紛れもない、日本代表のユニ
フォームだ。
 錠は有働に連れられ、スタンドの下の通路を通ってピッチに向かった。薄
暗いその先からかすかに注ぐ光が次第に強くなり、やがて目の前に現れた光
景を前に、錠は足を止めた。
 そこは今まで錠が立ったことのあるサッカーグラウンドとはまるで違って
いた。冬の日差しを受けてやわらかに輝く芝の上に、あの選手たちがいた。
 前回の予選からの主力であるキャプテン小原、南澤が先頭に立ってランニ
ングをしている。同じくベテランの大型フォワード高村もいる。さらに日本
の次期エース枡田を筆頭に才能ある若手たち。そうそうたる顔ぶれだ。
 身動きできぬかのごとく立ち尽くしていた錠は、やがて思い出したように
一人の男を探しはじめた。が、なかなか見つけられずにいるうちに、マスコ
ミから一斉にカメラを向けられた。
「おっ、あれ。あれが流本か!」
「おお、ついに現れたな」
 球技場全体がざわめきに包まれる。
「背丈は百七十ちょっとか」
「細いなあ。あれで出れんの」
 カメラマンたちは口々に勝手な批評をしながら、錠をフレームに収めた。
 練習中はインタビューはできない。にもかかわらず、一人の記者が近寄り
質問を投げかけた。
「遅かったね、今までどこ行ってたの」
 錠は少し険しい顔で黙っていた。記者と同じ腕章を付けたカメラマンが、
髪で隠れ気味の顔を撮ろうと前に回り込む。
「困るよ、ニッスポさん」
 ここはそばにいた有働が制した。
 やがてランニングが終わり、選手たちは二人一組で柔軟を始めた。
「さあ、監督に挨拶に行こうか」
 有働はそう言って錠を加瀬のもとに連れていった。
「おお、来たか、待っとったで」
 それは電話と同じ声だったが、ちょっと偉そうに感じられた。錠は憮然と
した表情で軽く会釈を返した。
 アップがすべて終わり、選手たちは監督の元に集合しはじめた。
 錠は監督の斜めうしろに隠れるように立った。まぶしい芝の上をやってく
る選手たちは皆、汗を光らせながら錠を興味深く見ている。錠の鼓動は次第
に高鳴っていった。
 今回初代表は錠だけだ。
「よーし、みんな紹介する。今度加わった流本錠だ。お前らと違ってプロじ
ゃない。いろいろあると思うが、こいつのことはわしを信じて見守ってほし
い。以上」
 加瀬の言葉に、錠の顔はあっという間に赤くなった。実際、そう言われて
も当然の実力だ。むしろ監督は気を使ったのだが、錠のプライドの高さまで
計算に入れる由もない。
「さ、挨拶して」
 有働が肩を軽く押す。
 押し潰されそうな胸の内は行き場を失い、やがて外に向かって逆流した。
「……訪欧大学三年、流本錠。まだ参加すると決めたわけじゃない」
 思わず出た言葉に、和やかな歓迎ムードが一変した。
「なんだ、こいつ」
 ベテラン南澤が吐き捨てる。
「まあまあ、こいつはわしが勝手に呼んだんや。すまんが時間をくれ」
 加瀬は苦笑いしながら、そう言ってフォローした。
 加瀬の合図で、選手たちは険しい顔でうつむく錠を残し、本格的な練習に
入っていった。
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