第7話 アウェイ① 素人と天才とベテラン

文字数 3,484文字

 東ヶ丘での合宿は終了した。日本代表はこのあとシンガポールで合宿をは
り、それから一次予選の前半戦三試合が行われるオマーンに乗り込む。もち
ろん錠もだ。もうしばらく自分の部屋には戻れない。いまだ相容れない代表
選手たちと長期間寝食をともにすることになる。
 出発前夜、錠は長かった髪を切り落とした。そしてそのあと、渋谷へ向か
った。
 この街を訪れるのは久しぶりのことだ。一人で来るのはいつ以来だろう。
平日にもかかわらず、相変わらずの人の多さだ。
 街行く若者たちは、今日も精一杯のファッションで着飾っている。カップ
ルも多い。錠はしばしそのなかに紛れて過ごした。少なからずあるこの街で
の思い出や、いまだ揺れ動く思いを引きずりながら、ただ徘徊した。
 人々の会話が耳障りに思え、肩が触れるたびに心を尖らせる。軽めとはい
え、普段やらないトレーニングのせいで足も張っていた。錠は疲れを感じ、
駅に足を向けた。
 交差点でふと見上げた夜空は、今日も街の色に染まっていた。ネオンの色
が変わるたび、空も違う表情を見せる。
 信号が青になった。錠の思いなどおかまいなしに街は流れていく。
 この日、まだ誰も〝流本錠〟を知らなかった。

 翌日、錠は日本を発った。
 日本代表はシンガポールに着くと、まずホテルよりも先に練習場として借
りているスタジアムに入った。シンガポールはやはり暑く、しかも湿気が多
い。そのなかで体を動かす選手たちはいつもより大量に汗をかき、体力の消
耗も激しかった。錠はこれまで同様に別メニューを与えられたが、簡単なフ
ィジカルトレーニングさえもその体にはきつかった。
 やがて、錠はピッチの周りを囲む陸上トラックを走らされた。低いモチベ
ーションで二、三周回ったころだったろうか、ピッチからこぼれたボールが
汗に侵された視界の先を横切っていった。
「おい、錠」
 その声にピッチのほうを振り返ると、一人の選手が手を上げて立っていた。
茶色に染めた頭髪のサイドを刈り上げ、トップを立てたいでたちのその男
は、日本期待の若手、中羽浩之だった。
 俺にボールを取れってことか。
 ボールはトラックの端に引っかかり、錠の後方、すぐ近くにまだあった。
疲労と初めての相手に呼び捨てにされたのとでいい気はしなかったが、やむ
をえずボールを取りに戻り、手で放って返してやった。
 中羽はそれをトラップすると、何も言わず反対を向いてボールを蹴った。
その態度に、錠はひとり口を尖らせた。
 俺はタマ拾いじゃねえぞ。
 初日の練習を早めに切り上げた代表は、夕方前にホテルに入った。部屋は
二人一組で、錠の相手は中羽だった。
 中羽浩之、通称ヒロは、枡田らとともに五輪の代表からフル代表に上がっ
てきた選手で、まだ二十歳になったばかりだ。レギュラーをつかんではいな
いが、天才と呼ばれるゲームメーカーで、その言動はよく言えばはっきりも
のを言う、違う言い方をすれば生意気な印象の選手だった。
 部屋に入るとすぐに、中羽は衣類をキャリーバッグから出してロッカーに
移しはじめた。それを見た錠もあとで同じようにしようと、とりあえずベッ
ドの上でキャリーバッグを開けた。その音に中羽が振り返り、口を開いた。
「その服、自分の?」
「あん? 当たり前だろ」
 唐突な問いに対し、錠は無愛想に答えた。
「学生にしちゃ無理してんな」
 挑発とも取れる発言に、今度は言葉が出なかった。
「ところでさ、錠はいびきかく?」
 中羽はテレビで見たのと同じ、冷めた口調で続けてきた。
「さあ、自分じゃわかんねえよ」
 錠は余計に不愉快に思ったが、言葉は返した。
「あれ、なんか言われない? 彼女とかにさ」
「は?」
 思った以上になれなれしい相手に、錠の眉間のしわが寄る。
「あ、彼女いなかった? 大学生だよな」
「うるせえよ」
 錠は完全に機嫌を損ねて部屋を出た。
「なんだあいつ、ガキのくせに」
 あてもなく出た錠は、同じ階にあるラウンジで両隣が空いているソファを
見つけ、腰を下ろした。体はもうぐったりだ。
 周りはよその国の旅行客ばかりだった。異邦人にまぎれ、錠は別れた彼女
のことを思い浮かべた。
 パーティで知りあったその彼女は、お嬢様女子大に通う同学年で、家柄も
よく、いつもブランドで固めている子だった。初めのうちはそれに合わせて
錠もできるだけよいものを身につけ、プレゼントも高級品を贈った。そのた
めに初めてアルバイトもした。
 しかし、代表選手たちの服や持物を見るたびに、恥ずかしさを覚えた。
 自分が背伸びして買ったものも、あいつらから見れば安物なんだろう。き
っと大蔵省なんかも、いいもの持ってるんだろうな。
 そんなことを思いながら目を伏せた。
「よう」
 そこへ、野太い声とともにいかつい顔の大男が現れた。かと思うと、いき
なり隣に座り込んできた。
 一文字徹也、三十五歳のベテランフォワードだ。
 彼を見るなり、錠は固まった。一文字は東ヶ丘での合宿は不在だったが、
ここシンガポールで代表に合流していた。その体はメディアで見る以上に迫
力があり、まるで格闘家のようだった。
「どうだい、少しは慣れたか」
「……はあ、少しは」
 前を横切るブロンドヘアを無意識に目で追いながら、錠は口を尖らせ気味
に答えた。
「無愛想だとは聞いてたが、本当だな」
「い、いえ、そうじゃなくて」
「わっはっは、まあいいさ。加瀬さんがなんで呼んだか知らんが、みんなは
あの人を信頼している。心配はいらないさ。ただし、お前さんが結果を出さ
なければ話しは別だがな」
 そう言うと、一文字はまた笑った。
「あ、あの、一文字さんはいびきとか、かきますか?」
 何か話題を探していた錠は、くだらないことは承知で問いかけた。
「俺か? いや、俺はかかんらしいよ。ふむ、確かお前、ヒロとだったな」
「あ、はい」
「あいつのはうるさいって有名だからな。疲れてるときだけらしいけど」
 錠は中羽の問いかけの意図が解り、少し気が抜けた。
「お前、ヒロと合いそうにないな。あいつ、悪いやつじゃないけどクールな
顔してずけずけ言うからな」
「あ、年下のくせに呼び捨てにされましたよ」
「ん? ああ、それは仕方ないかもな」
 ここぞとばかりに会話を膨らませたが、思惑が外れた。
「俺も古いのかあまり感心せんが、今の若手連中はみんなそうだ。ヒロや枡
田、岡屋にしたって、近い世代は年齢に関係なく呼び捨てだ。まあ、試合中
は呼びやすいほうがいいんだけどな。連携のときとか特に」
 それは錠にもわかる気がした。
「ま、さすがに俺は誰からもテツさん、だけどな。わっはっは」
 勢いよく笑って一文字は立ち上がった。
「今の代表は仲良しだけど、おとなしいっていうか、人のいいやつばっかり
だ。プレーも気合よりテクニックでって感じだな。俺も大人になったし、元
気なのは南澤くらいだ」
 初めて間近に見た一文字は、豪快さはイメージどおりだが思ったよりよく
しゃべる。中羽にせよ、外から見るのとは意外に違うものだなと錠は感じた。
「ま、お前はまずみんなに打ち解けないとな。戦術の共通理解には不可欠じ
ゃないか」
 自分には必要ない、錠はそう思った。一文字に言いたいことは山ほどあっ
たが、会話はここまでだった。
 その夜、錠は中羽よりも先に寝ついた。他人のいびきを気にしている余裕
など、この日の錠にはなかった。
 翌朝は早くから起こされ、皆とともに食事の席についた。練習後も、入浴
や消灯の時間まで決められ、ゲーム機などここにはあろうはずもない。他人
の決めたスケジュールで動くことに慣れていない錠には、ことのほかつらか
った。
 その後も錠の練習メニューに変化はなかった。軽めとはいえ、錠にとって
はかつてないほどの運動量だ。不満は顔にありありと表れていたが、それを
口にすることはできない。そんな環境ではないのだ。
 皆のようにボールを使ってプレーしたほうが楽かもしれない。しかし、一
緒にプレーできるレベルではない。それを知られるわけにもいかない。逃げ
場もなく、錠はこの異国の地でただ言われたとおりに動くしかなかった。
 その苦しさから気を紛らわそうと、合間に選手たちのプレーに目をやるこ
ともあったが、やはり皆うまい。足を止めて見入ってしまうこともあった。
中羽のいびきで眠れない夜は、それをベッドで思い出しながらイメージして
みた。
「こいつ、こんなフェイントやってたな……。あの人は、あそこでこう……。
いや、どうでもいいや」
 自分には関係ない、そう言い聞かせると、不思議と眠りにつくことができ
た。
 その後、チームは地元クラブと練習試合を行ったが、錠の出番はもちろん
なかった。
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