第1話 プロローグ

文字数 3,046文字

 
 その男は地方の空港にいた。
 スーツの上着を左手に抱え、ハンカチで汗をぬぐいながら、ある人物を待ち構えていた。
 いつにも増して暑い日だった。男の体は湿ったワイシャツに重くまとわり付かれていた。曇り空がさらに蒸し暑さを演出する。
 彼は少し離れた場所からゲートの向こうをうかがいながら、いつ現れるかわからない相手をひたすら待ち続けていた。ごう音が銀翼の降下を知らせるそのたびに、胸には複雑な思いが込み上げる。
 待ちわびてどれくらいたったろうか。見つめる先に現れた一団の中に、一人の青年を見つけて、男は汗をふく手を止めた。
 お目当ての相手は、Tシャツにジーンズというありきたりな出で立ちにサングラスをかけていたが、周りを歩く客たちが一様に彼を見て驚いている。
 青年はある意味、時の人だった。しかし声をかける者は誰もいない。彼はキャリーバッグとは別に、重すぎる荷物を引きずっていた。
 青年がゲートをくぐったところで、男は思いを固めた。
「おーい、沢野」
 男は笑顔をつくって歩み寄る。
 青年はサングラスごしに不意を突かれた顔をしたが、小さく会釈を返した。男はやはり笑顔で応じる。
「沢野、お疲れ」
「前崎部長、わざわざ出迎えに?」
「まあな。今日戻るのは聞いてたからな」
「すみません……。俺は何もできなかったのに」
 青年はサングラスに手をやり、消え入りそうな声でつぶやいた。
「何言ってんだ。俺たちを代表して戦ったんだ。ほんとにお疲れさんだよ」
 言葉は返ってこない。
 役職のわりに張りのある頬を汗が伝う。前崎は思い出したようにそれをぬぐった。
「表に迎えの車を待たせてるんだ、行こう」
 移動の際も、沢野の足取りは重かった。そんな沢野に、前崎は他愛のないことでもいちいち声をかけた。
「沢野、こっちだ」
 子供じゃあるまいにとは思うも、過去の記憶が男に気を使わせる。彼もまた、あれこれ思案しながら先を歩いた。
「こっちは成田よりは涼しいだろ。それでも近年で最も暑いんだってさ」
 返事がない。前崎が振り返ると、沢野はずっと後方を歩いていた。
 前崎は思わず二、三歩戻りかけて立ち止まった。
 答えはわかっている。ただ――。
 この距離を埋めるためにはどうアプローチすべきか、前崎は目には見えない自分の足跡をひとりさかのぼりはじめた。
 瞬く間に、頭の中をセピア色の映像が音を立てて駆けめぐる。
 この日と同じように暑い夏のシーンでコマ送りになった。不意にフィルムの焼けた臭いが鼻を刺す。
 前崎は我に返り、正面に目を転じた。沢野の動きはスローモーションのようだ。
 やがて、沢野はうつむいたまま前崎の前で停止した。前崎は促すように無言で再び歩き出す。
 沢野のペースに合わせて歩くことしばし、空港前のロータリー脇に横付けされた社用車が見えてきた。
「あれだ、あれ」
 前崎はわざわざ指を差した。沢野は顔を上げ、そして小さくため息を漏らした。
 運転席には、見慣れた顔が待ち構えていた。フロントガラスの向こうから笑顔で手を振っている。沢野は再び顔を伏せた。
 近くまで来ると、前崎は小走りに車のうしろに回り込み、トランクを開けた。
「沢野、荷物かせ」
「いや、自分で」
 沢野は車体の左側を通り過ぎ、トランクに荷物を入れはじめた。前崎は、それを思案顔で見つめる。
「疲れてるだろうけど、これからみんなに挨拶にな」
 沢野はトランクを閉めてから言葉を返した。
「すみません。まず部屋に。用事もあるんで」
「そうか?」
「挨拶はまた……」
「そうか、わかった」
 前崎は右から後部座席のドアを開け、運転席の男に語りかけた。
「山口、沢野の部屋に行ってくれ」
「ええ? スタジアムじゃないんですか。みんな待ってますよ部長。この時間なら、ちょうど選手や監督も一段落して――」
 ハンドルに手をかけ、山口は落ち着きなくまくし立てた。
「いいから、いいから」
 前崎は慣れた扱いでいなし、そのまま山口のうしろに座り込んだ。沢野は逆側から後部座席に乗り込む。
「よおっ、沢野。ご苦労だったな」
 山口はネクタイを直しながら、大きな声を出した。沢野はシートベルトを締め、サングラスをかけたまま押し黙る。
「マスコミはいなかったろ。情報入れてないからな。成田に着いたときにうんざりだったろ」
 山口は、しゃべりながら車を出した。
 同い年の二人は、立場は違えど同僚同然の仲だった。会えばいつも互いに茶化し合って笑い合う。だがこの日は山口が普段どおりを装うも、沢野は乗ってこない。逆に話しかけるなとばかりに、きつい言葉を吐いた。
「ほんとは誰にも会いたくなかった……。特にお前には」
「うわ、そんなこと言うなよ」
 戸惑いとおどけで山口の表情は複雑にゆがんだ。
 沢野の横顔をちらと見て、前崎が言葉を挟む。
「気持ちはわからないでもないが、山口の思いもわかってやれ。誰よりも気にかけてたんだぞ。パブリックビューイングのときなんて、試合前から泣きそうになってたからな」
「な、何言ってんすか。大げさな。いくつだと思ってんすか」
 山口の大声が車内を占拠する。
「いや、でもな沢野、パブリックビューイングな、夜遅いのにリーグ戦と同じくらいすごい人数だったんだ。大盛況だったよ。お金取りたかったくらい。ね、部長」
「ははは。でもそれは言うなって言ったろ」
 前崎は軽く笑ったあと、ちょっと厳しい口調で言ってみた。
「すみません。日ごろのお返しでしたね。クラブ運営がうまくいってるのは地域のおかげ、ですよね」
「そう。サポーターが愛してくれるからクラブが成り立つんだ。それも選手やスタッフが地域に貢献してこそだ」
 そう言って前崎は軽く身を乗り出した。
「言ってみりゃ山口やスタッフのおかげ……なんだけど、試合中も働かせちゃったな。受付やらグッズ配りやらでほとんど見れなかったろ」
「いや、僕はうれしいんですよ。こんな仕事できて」
「そうか、山口もそう思うか」
 前崎はうれしそうに笑った。
「けどグッズとかサポーターのレプリカのユニフォーム、いつもと違う色だから不思議な感じだったなあ」
「ああ、山口は初めてだったな。日韓大会では実際に試合が行われたからね。人もグッズももっとすごかった」
「へえ。でもまあ、そうでしょうねえ」
 それぞれの脳裏に満員のスタジアムが浮かび上がる。
「部長、目の前で見たら自分もプレーしたくなったんじゃないですか」
「いやいや、俺には無理だよ。それよりも……」
 前崎はさらに遠くの記憶をたぐりよせた。
「うん、そうだ、初めてフランスに行ったときのことを思い出したなあ。一人で道に迷ってね」
「フランス? それってひょっとして」
 前崎は山口の背後で小さくうなずいた。
「不安で焦ってたからなんだろうな。見知らぬ街で尋ねた相手とコミュニケーション取れなくていらついたり、迷うのも街並みのせいだとか思ったり。標識もわかりにくいし、地図も複雑に思えた。世界一のイベントなんだからもっと工夫しとけよってね」
 前崎は興奮気味に笑った。
「それが今の仕事に活きてるわけですね」
「ああ、そうだな」
 山口の言葉にもう一度うなずき、前崎は外を見た。一面どんより厚い雲に覆われている。向こうに見える山の頂は霞み、空に溶け込むかのようだ。
 そう、確かにそうだ。あのときの経験がなかったら……。
 会話のなかで断片的に浮かび上がってきたシーンがつながれていく。それに引き込まれるかのように、前崎は一気に時を巻き戻した。
 誰もが、まだ見ぬ世界を目指したあのころに――。
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