海の家2【わたしを知らないあなたに逢いに】たけうちりうと

文字数 4,771文字



 わたしを知らないあなたに逢いに


       たけうちりうと








「見えてる?」


と彼女が笑った。




うん。見えてる。


たぶん、わたしにだけ。




——そこ陽当たってるし砂熱いでしょ。


陽射し避けてもっと中へ来たら——




そう呼びかけたのは、彼女の姿が見えるから。


他の人には見えていないとわかってるから。




彼女は微笑んだ。


そして消えた。


ああ、また。とわたしは立ち尽くす。




ほんのひとことかふたこと交わすだけ。


彼女はすぐに消えてしまう。


彼女が座っていた席を見つめても追いかけられないもどかしさだけが残る昼下がり。




彼女。


幻影なのだと勝手にわたしは思ってる。




色はなくほのかに甘いシャーベットのように。


透けていながら薄い闇を背負っていて。


真夏の真昼に束の間現れては消えるひと。


彼女の存在に気付いて三日め。




今日、初めて言葉を交わした。


でも現れてから消えるまでの彼女の時間はとても短い。


計ったことないけれど、たぶん十秒くらい。




浅いルーフの端に立てかけられた葦簀を透かして差し入る光。


波の音は砂の色を濃く薄く染め直しながら打ち寄せてくる。


飽きるほど同じなのに呆れるほど同じではない光と波たち。


繰り返し、繰り返し。






彼女が消えた数秒後、女性客がきてその椅子に腰掛けた。


「メニューお願いします」


と言われて、はい、と返事をする。カウンターへ向かう。




海の家の屋根の下、潮の匂いと喧噪が支配する午後。


海から、砂浜から、背後の道路から、人の声と音楽とが波音と一緒に襲ってくる。


勝手気ままに混ざりあうノイズたちがうんざりするほど暑い。




「淡雪みっつ二番。なあさっきお前、誰に話しかけてた」


 店長がグラスをカウンターに置きながら聞いてくる。


「ひとりごと」


 適当に答えて、かき氷をトレーに載せて二番テーブルへ。


 すぐに戻ってメニューをシェード下のテーブルについたお客様へ。




「ねえ、これ忘れ物じゃないかな。メモ、テーブルに載ってたんだけど」


 メニューを渡そうとしたわたしに、お客様が紙片を差し出してきた。


「あ、さっきのお客様の」


 と答えながら、内心かなり焦る。


 紙を受け取って、その場でしげしげ見るのも何か違う気がして、急いでポケットに入れた。


 カウンター前を素通りして葦簀の陰に入ってから紙を取り出す。


 白い紙に薄青いインクで書かれていたのは、この浜辺からそう遠くはない街の住所だった。




 彼女の書いたメモ。


 何を報せようとしているのだろう。


 行ってみようか。


 待って、でも。








 知りたい気持ちと戸惑いが寄せて返して落ちつかないまま夜になった。


 気がついたときにはわたしはもう、紙片に書かれた住所の近くまで来ていた。


 この近くに彼女が住んでいるのだとしたら?


 と、最初は考えた。


 でも、と心は問い返す。


 もしも彼女が幻影などではなくこの現実、この世界に生きているひとなら、浜辺に現れては消える、その理由がわからない。




 もうひとつ心配だったのは、これがホラーな筋書きに近いなにかだったら、わたしはこれ以上踏み込んじゃいけない、ということだ。


 怖いのは嫌い。


 けれどもそうして警戒線を引く一方で、真夏の海辺に涼やかに現れて微笑んでは消えてゆくあのひとがホラーがらみの存在とは思えない。と、考え直す自分もいたりする。




 紙片をポケットにしまい、しばらく佇む。


 昼の名残のけだるい熱がまだ路面に漂っていた。


 立ち止まるとけだるさがまとわりついてくる。


 周囲を見回して虚無がそっとわたしに触れた気がした。


 この場所に来れば彼女が誰なのか、あるいは何をわたしに伝えようとしているのか、知ることができると思っていた。


 でもここに立っただけでは何も、少しも、わからないのだ。




 彼女の何かを知ったとしてもそれが何になるというのだろう。


 彼女の名前をわたしは知らない。


 年齢も、境遇も、学生なのか社会人なのか、そもそもヒトであるのかどうか。




 明るい自販機の前で立ち止まる。


 水を買おうかとなと思ってから、あれ、と思った。


 プリペイドもアプリも使えない。


 ちょっと古い型の自販機なのかなと、財布から小銭を出そうとしたとき背後から足音が近づいてきて止まった。




 わたしが振り返ると、足音の主は立ち止まった。


 少女と目があった。


 小学生だろうか、たぶん高学年くらいの。


 手にしているのはガラケーだ。


 えっと、それアンテナ付き?


 今でも使えるものなのだろうか。


 自販機の光に照らされている彼女も、わたしをじっと見ている。




「あ、何か買うの? お先にどうぞ」


 声をかけて自販機前からちょっとだけ横に移動する。


 少女は立ち止まったままだ。


 そしてわたしをじっと見つめたきり。


 目を瞠って、唇をきゅっと結んで、古い携帯を両手で握りしめて。




 どうしたんだろう、この子。


 


「どうかしたの? 大丈夫?」


 つい、尋ねてしまう。




「二時間、待ってるの」


 突然の、脈絡のない言葉。


「待ってる……誰を?」


「まりかちゃん」


「って友達かな?」


「好きなの」




 えーと。


 それは好きな友達と待ち合わせして、相手が来なくて二時間ここで待ってるという意味かな。


「携帯でまりかちゃんに連絡した?」


「した」


「で?」


「今行くってまりかちゃんは言うの。でも来ないの。もう三回かけた。わたし、わたし」


 そう言って少女は泣いた。




 大好きな友達か、それとも淡い気持ちを抱いている相手と待ち合わせしたのかな。


 で、『まりかちゃん』が来ない。


 約束したのに来ない。


 三回、携帯から電話したのに来ない。


 ということなんだろう。


 可哀想に。


 


「あのね。ごめんね。余計なこと言うけど、その子、きっと来ないとお姉さんは思うな」


「やっぱり?」


 軽くしゃくりあげながら、少女はわたしを見上げてきた。




 あっ……。




 似てないかこの子。


 海の家のあの席に座って微笑んでは消えるあのひとに。




 え、でもあのひとはこの年齢の子どもがいる世代には見えないし、それに。




「ありがと、お姉さん」


 と少女が痛々しい笑みを浮かべながら言った。


「まりかちゃん、ときどきこういうことするの。約束して、来ない。電話すると今すぐ行くからもうちょっと待ってと言うんだけど、来ないの。でもわたしが帰っちゃうと、今から行くつもりだったのにどうして帰っちゃったのって言って怒るの。絶交だよって。謝ると許してくれるんだけど」




 それはまあ、振り回されてるってことなんだと思うな。




「約束したら必ず来てくれるひとと友達になったほうがいいよ」


「友達じゃない」


「はい?」


「好きなの」


「まりかちゃんのこと?」


「うん」


 


 ああ、そうなんだ。




「お姉さんも待ち合わせ?」


「ううん、違う。人を探してる」


「その平べったい板、何?」




 ひらべったい板……って、わたしが持っているスマホのことなんだろうか。


 あ、とそのとき気付いた。


 古めかしい自販機、少女の手の中の古い携帯電話。


 情報はふたつだけなんだけれど、これはたぶん。




「ねえ、今、西暦で何年?」


「えっ……1999年だけど」




 ああ、やっぱりね。


 二十年前に十歳前後だったこの少女が、成長してあのひとになるのね。


 そして彼女は海の家に来た。


 彼女を知らないわたしに会いに。


 けれども、実体にはなり得なくて。


 何故なら、わたしがこれから彼女と交わすかもしれない『約束』が、わたしたちの時間の中ではまだ始まっていないから。


 


「ねえ、いいかな。お姉さんからふたつ、お願いがあるんだけれど」


 わたしはすこしだけ身を屈めて、彼女を見つめた。




「お願いって?」


 怪訝そう。


 そうだよね。


 夜、自販機の前でぼうっと立ってる見知らぬおとなから突然お願いと言われてもね。


 しかもふたつ。




「お願い、聞いてくれる」


「叶えてあげられるかどうかわからないけれど、話、聞くだけなら」




「うん。じゃ、まずひとつ」


「はい」


「まりかちゃんと、夜に待ち合わせの約束するのはやめてほしい」


「うっ……」




 痛かったかな。


 好き、なんだものね。


 でも大学生のわたしの目線で見るとね。


 夜、こんなふうに少女がひとりで外に数時間もいるのはどうしても見過ごせない。


 まりかちゃんという子の言動も、正直、信用できるものではないと思うよ。




 数秒後、しきりにまばたきしながらも、彼女は頷いた。


「うん」




 よっし、頑張れ。




「もうひとつはね。あなたが成長して、たぶん三十歳くらいになったとき、わたしは海岸のそばの海の家にいて働いてる。もしもわたしを覚えていてくれたら、逢いにきて」


「え…二十年もあと」


「まあ、そう思うよね。あなたが生まれてから十年くらいだと思うから、今までの人生の倍も先のことで、わけわからないかな、ごめんね」


「お姉さん、ねえ、お姉さんってもしかして未来から来たの?」




 おおおっ。


 すごい、この柔軟さ。


 素敵。




「そうね。あなたに逢うために、二十年跳んだみたい。自覚なかったんだけど」


「すごい……」


 ふたりで一緒に笑ってしまう。


 笑顔の彼女はとても愛らしかった。




 彼女がこの先、どういう人生を歩んでくるのかわからない。


 けれども今は十歳の彼女が二十年後にわたしより十歳年長になるころ、わたしたちは再び逢える。


 わたしを知らない彼女に逢いにこの夜へ、刻を飛び越えてわたしは来た。


 その不思議を信じよう。




 しばらく考えたあとで、彼女はすっきりした顔で軽く頷いた。


「わかった。二十年後に、水族館の近くにある海の家ね」


「そう。行ったことある?」


「行ったことない。夏のあいだ混んでるし」


 ですよね。


 地元ならではことかな。




「海の家の名前は?」


「オフショア」


「オフショア……オフショア、オフショア。大丈夫、覚えた」


「もしも逢いにきてくれたら、ふわっふわでさらさらのかき氷をご馳走してあげる。必ず。約束するよ」


「かき氷がふわっふわって」




 そうね。二十年前のかき氷は砕いた氷だものね。




「そのかき氷はね。特別な作り方をするの。きらきらのグラスに入っている氷は粉雪のようにふんわりしていて、口に入れるとさーっと溶けて消えてしまうけれど、優しくてほのかに甘くて、それはもう気持ちよい冷たさで素敵なの」


「食べてみたい」


「うん。約束、必ず守ります」


「お姉さん、わたしも」


 そのとき彼女の手の中の携帯電話が鳴った。


 あ、と、言って電話の画面を見た彼女は、ちょっとだけ冷淡な顔をした。


 そして電話に出なかった。




 たぶん、まりかちゃんからの電話だったのだろう。


 この先、彼女とまりかちゃんのあいだに何が起きるのかわたしには知るよしもないけれども、どうか乗り越えてください。 


 と、軽く祈るような気持ち。




 少女の無垢と、一途さは二十年後の彼女の中にきっと残ってるはず。


 それを信じようと思った。




 彼女が立ち去るのを見送り、わたしも坂道を下っていった。


 家並が途切れた坂の途中、海岸線が見える。


 波音が聞こえるこの坂を、これからわたしは何度も通うことになるのだろう、そんな気がした。


 友達として。


 もしかしたら、好き、というフィールドに立って。


 甘さはふわふわの淡雪氷のよう。


 それもきっと素敵。


 


 


 明日逢う彼女はきっとわたしを知っている。




 



        終


 




riutot

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