【思いの形】 シズム
それはある夏の日の事だ。
今年も一人淋しく人気のないビーチへと足を運び、例年通り趣味のサーフィンをしようとしていたところ、波打ち際で奇妙な生物を見つけた。
『ア、ァ……ウ……』
その生き物はうつ伏せで砂浜に顔を埋めており、背丈は俺の腰あたり、大体一mほどだった。肌はねずみ色でどうやら鱗で覆われているらしく、さらに手には水かきがあり、頭から背中にかけて薄ピンク色の背びれが生えていた。
「魚……?」
恐る恐る魚のような生物をひっくり返してみると、ぎょろりとした大きな瞳と目が合い、思わずわっと短い悲鳴を上げた。
「魚人的な? 海に帰した方がいいのか?」
一人でうんうんと目の前で弱っている魚人の処遇を考えていると、ぐぅぅぅっと腹の虫が鳴った。俺ではなく、魚人の腹から。
「……飯、食うか?」
『ウゥン』
言葉が通じているかは分からないが、俺はその魚人の呻き声をイエスと受け取り、魚人の小柄だがひどく重い体を担ぎ上げて海の家へ向かった。
「ヘイお待ち!」
ガタイのいい海の家の店主が注文した品を二つ、俺と魚人の前にドンッと置く。俺のは海老やタコなどの海鮮が食べやすい大きさで刻み入れてある、魚介系スープのシーフードラーメンで、魚人には子どもも食べやすい甘口のカレーライス。最初は同じものにしようとも思ったが、流石に共食いみたいな光景になるので止めた。
「いただきます」
『……イアアイアウ』
俺がそう言ってシーフードラーメンを一口啜ると、魚人も真似をしてカレーライスを食べ始めた。プラスチックのスプーンを不器用そうに握り、口周りに米粒を付けながらあくせくとカレーライスを口の中にかっ込んでいった。
「そんな焦んなくても誰も取りゃしねーぞ」
『ヴァ―』
「絶対俺の言ってること理解してねぇなこりゃ……」
魚人の豪快な食べっぷりを眺めながら、俺も箸を進めていく。食べ進めながらふと、そういえばどうしてこの海の家の店主も店員も魚人を驚かないのか、俺もどうしてこんなに冷静でいられるのか、首元に鰓があるのに地上でも呼吸ができるってことは肺も持っているのかハイスペック生物ずるいとか色々な思考を巡らせたが、満足そうにカレーライスを平らげる魚人の顔を見ているとまぁ、いいかという気持ちになった。
やがて魚人の方もカレーライスを食べ終え、満腹なのか椅子の背もたれに身を預けていた。
「腹いっぱいか?」
『ア~ア~』
「めっちゃビブラートかけるじゃん。ま、腹いっぱいならそれで良しっと」
スマートフォンの時計を確認すると、もう十八時を回っていた。そろそろ帰ろうかと立ち上がると、不思議そうな顔で魚人がこちらを見上げていた。
『ウワァー』
「ん? どうした?」
しばらく沈黙が流れるが、相変わらず魚人は俺の方を見上げるばかりだった。痺れを切らした俺は、魚人に「もう食い倒れんなよ~」と言い残して海の家を出ようとした。
だが、その行く手を魚人が阻んだ。先ほどまでのろのろと歩いていたとは思えないほどその動きは軽快で、俺が躱そうとフェイントを入れてもすぐに飛び跳ねてまた俺の前に立つ。
「あぁもう何なんだよ!? しつこいぞ……何かまだ食い足りないのか?」
俺が大声で怒ったせいか、魚人は俯いてその場に立ち尽くしてしまった。そのことに若干の罪悪感を抱きつつも、どうしても日が沈む前には帰りたい俺は魚人の横を通り抜ける。
すると、服の裾を魚人に捕まれた。あれだけ重量のある生物なのだから、本当はもっと力があるというのに、俺でも簡単に振りほどけそうなほどその手は弱々しかった。
『ウ……』
発せられた魚人の声が少し震えていたような気がして、俺は振り返って魚人と目線が合うようにしゃがみ込んだ。
「ひょっとしてお前……寂しいのか?」
『ウ、ウ』
「仲間はいるのか? 家族は?」
『イウ』
「あ、言葉理解してんのな。じゃあそいつらのとこに帰れば寂しくないだろ?」
『ヴヴヴヴ』
「お前の家族はきっと今頃心配してるぞ」
『ウゥ……』
「俺にも帰らないといけない家があるんだ。生活もある。だからこの手、放してくれるな?」
諭すように説得すると、魚人は分かってくれたのか、ようやく手を放してくれた。
「ありがと。それじゃ……」
『……ア』
「ん? 何か言ったか?」
『ア、マ……タ……』
魚人は今日初めて母音以外の音を発した。何かを必死に伝えようとしているようで、俺は聞き逃さないように耳を澄ませ、魚人の言葉を待った。魚人は俺の左手を取り、ゆっくり、ゆっくり言葉を紡いでいく。
『マ……タ、キテ……ク、レル……?』
不器用に発せられた言葉の意味を理解した俺は、少し声を出して笑ってしまった。
「はは、もちろんまた来るって! 何たってこの海水浴場は俺のお気に入りだからな。来年にはなるかもだけど、必ずまた来る。約束する」
そう断言すると、魚人はほっとしたように微笑み、俺の手をそっと放した。そしてゆっくりと海へ向かって歩いていった。魚人は水面下に消える前、一度だけこっちを振り返って手を振ってくれた。俺も手を振り返し、見えなくなるまで魚人を見送った。
ひとしきり手を振った後、俺は夕陽で色付く海を眺めた。夕方とはいえ鮮やかなオレンジ色の太陽は存外眩しく、反射的に目元を左手で覆う。
「ん?」
ふと、薬指の付け根が太陽光を反射した。手元が見やすいように太陽に背を向け薬指を確認すれば、そこには昼の海とまったく同じ、澄んだマリンブルーの色をしたリングが付けられていた。
魚人と別れる前に左手を取られていたことを思い出し、俺は思わず笑みをこぼした。もうすでに魚人は海へと消えていったが、俺は海中まで届けと言わんばかりに声を張り上げた。
「次はちゃんと名前、聞くし教えるからさ! またな!」
じゃぶん、と海面が不自然に波打った。
それを見届けた俺は乗って来た車に戻り、海を横目に車を走らせた。窓から見える海は、燃えるような赤に染まっていた。