【また来年】こむらさき
湿り気を帯びた風が頬を撫でるように吹き抜けていく。
もうこの海辺を見るのは最後かもしれないなんて感傷に浸りながら入り江になった浜辺の入り口を通り抜けた。
頭上に輝く太陽に掌を掲げて、透かしてみる。
ジリジリと体を焼くような熱とサラサラとした砂の感触を確かめるようにして、私は真っ白な砂浜をズンズンと目的地に向かって歩いていく。
今年こそはちゃんと思ってることを言わなきゃ…。
固く決意を固めながら、私はビーチの喧騒を背にして、岩場近くの波打ち際へと辿り着いた。
洞窟のようになっている岩場のゴツゴツとした足場を転ばないように気をつけて歩く。
きっとここにいるはず…と毎年来る度に思うけれど、実際に会うまではどうしても不安で胸がいっぱいになってしまう。
「アープ、今年もいた!」
見覚えのある小麦色をした広い背中が目に入ってホッとした私は声をかける。
水に濡れて深みを増した深い緑色をした長い髪を、後頭部の高い位置でひとつにまとめている最中にも拘らず、私に名前を呼ばれた彼はこちらを振り返った。
「ん…。君がまた来年って言っていたからね」
「まあ、それはそうだけどさ」
彫りの深い顔立ちでキリッとしていると話しかけにくい雰囲気なのに、笑うと切れ長の大きな瞳が優しい光を帯びる。
ふ…と軽く息を漏らしながら、厚い唇の両端を持ち上げて笑ったアープを見ながら、私は波打ち際に腰を下ろした。
砂浜とは違って、少しひんやりとした水に足先を浸してピチャピチャばたつかせていると、髪の毛を括り終わった彼が私の隣まで泳いでくる。
「最近はどうだい?学び舎も来年で卒業だろう?」
ポニーテールのようにまとめられて、前に垂らされた深緑色の髪からは雫が落ちる。
アープの肩から厚い胸板やたくましい腕をつつーっと流れていく雫を横目で盗み見るようにしながら、私は質問の答えを考えながら水面を見続けた。
「ミナにもそろそろ恋人とやらが出来るんじゃないか?」
私が小さな頃…両親と一緒にこの海に何度も訪れていた頃から彼のことを知っている。でも、彼は、私が小さな頃からずっと見た目が変わらない。
もう10年以上も毎年会っている私とアープは、いつのまにか同じくらいの見た目になってしまった。
「…だよ」
アープが海から上がって私の隣に腰を下ろす。
彼の体から撥ねた飛沫が私のキャミソールをわずかに濡らして、言葉が海の音に掻き消されてしまったみたい。
隣で首を傾げているアープにかばんの中に入れていたタオルを差し出して、手渡す。
大きな節くれだった指がタオルを優しく掴むのを見ながら、私は息を吸い込む。
「私が好きなのは、貴方だから」
「それじゃあさ、君を助けた意味がないでしょ?」
タオルを自らの方に引き寄せようとした彼の日に焼けた腕を掴むと、彼はちょっと呆れたような、困ったような顔をして笑った。
「ぜんぜん違うもん」
「まいったな…」
頬を膨らませてそういうわたしを見た彼は、自らの鼻の頭をポリポリと掻いてため息を吐く。
わたしと彼の出会いは、この海。
私達一家が乗っていたゴムボートが大きな波に攫われて沖合でひっくり返ってしまったときだった。
ライフジャケットを身につけていたにも拘らず、私はなにかにひっぱられていくようにグングン水の底に沈んでいったのだと、母が何度も話していたのを覚えている。
太陽の光が蒼く差し込む水面がどんどん遠くなっていったのを私もなんとなく覚えている。
でも、その思い出は私にとっては怖いものなんかじゃない。
ぐんぐんと遠ざかる蒼い水面を見ていたら少し苦しくなってきて、手を伸ばしたときだった。
サァっと目の前に鮮やかな緑色をした絹色のようなものが広がって、綺麗だなって驚いている私の手を、大きな手が包むように握ってくれた。それが、今目の前にいる彼との出会いだ。
私をしっかりとたくましい腕で抱きしめながら、グングンと泳いで水面まであっという間に送り届けた彼はニコっと笑っただけで再び海の底へと消えてしまった。
両親から「沈んだと思った海凪がいつのまにかボートに縁に掴まって笑っていた」という話を聞くたびに、小さかった私は自分を助けてくれた誰かに感謝していた。
そんな記憶も薄れて、あの時見たきれいな緑色の髪をした人は怖がった自分が混乱と恐怖の中で生み出したイマジナリーフレンドのようなものだと思い始めたときに、やっと出会えたのだ。
「怖い海の魔物に食べられてしまうからこっちに来てはいけないよ…そう言って姿を見せてくれたのは貴方じゃない」
「せっかく助けた子供がまた海に落ちたら寝覚めが悪いだろ?」
「それから毎年会ってくれてるのはなんなの?それに…もう私は子供じゃないし」
唇を突き出して抗議の意を示す。
「そりゃ…俺だって君のことが好きだから、顔くらいは見たくなるさ」
「な…」
じゃあなんで…そういう前に、急にこっちを向いた彼に唇を奪われて、私が言うはずだった言葉は水平線の彼方へ飛んでいってしまった。
「…君は大人に近付くにつれて、どんどん綺麗になるし…連れて行ってしまおうかって…何度も悩んだけどさ。俺の都合で君をこっち側から引き離すのは良くないだろ?」
「私は、連れて行かれたいの!」
悲しげな顔の彼を見て、自分の心の中に少しだけ怒りの気持ちが湧いてくる。
こんなに好きとちゃんと伝えているのに、唇まで奪ったのに、彼はまだ私のことを子供扱いしている。
「だからさ、それじゃ親父の部下から君を助けた意味がないだろ?」
「ぜんぜん違うもん。無理矢理知らない人と結婚することと、ちゃんと自分で貴方を選ぶのは違うの」
頭を振って涙を零すわたしの肩に、彼の大きな手がそっと触れる。
長い指で涙を掬うように拭いながら、彼はうつむいた私の顔を見つめる。
「…ミナ。でも、いいの?友達にも家族にも会うのは難しくなるよ?」
「ちゃんと友達にも、家族にも好きな人がいて…その人と添い遂げるならなかなか会えなくなるって説明してあるもん」
諭すように優しい声で私に自分を諦めさせるように伝えてくる彼の胸を、軽く拳で叩く。
トンっと音がするけど、彼の体はびくともしない。
彼と出会って10年。私ももう23歳だ。彼に比べたらまだまだ子供だとしても、私なりに一生懸命考えたんだ。
友達も家族も大好きだけど、それでも、それでも私は彼を諦めて後悔をしたくないって。
「まいったな」
「こんなにハッキリ言っても…ダメなの?」
私のことを抱き竦めて、小さく呟く彼を上目遣いで見つめる。
これだけ思ってることを伝えても、彼は私を選んでくれないのか…と悲しみが溢れてきて涙が次から次に溢れてくる。
「いや、ダメ…じゃない」
「え…」
急に体を離されて、冷たい風が私と彼の間を通り抜ける。
ダメだと諭される覚悟をしていたのに、少し拍子抜けして固まっていると、真剣な表情をしている彼と目が合った。
「ミナ、君を連れていくよ。約束する」
「やったぁ」
彼に飛びつくように抱きついて、しっかりとした首に腕を回す。
背中に彼の腕が回って、見つめ合った私達は再び唇をそっと触れ合わせるキスをした。
お互いに抱き合ったまま額をくっつけて笑う。
何も持たなくても良い。書き置きは残してきた。だから、早く私をこのままさらって欲しい。
このまま水の中に入るかと思っていたら、私の背中から彼は腕を解いた。
「でも、今日じゃない。まずは親御さんと話をして…あ、それとドレスを仕立てないといけないね。あと料理と楽団と…」
「ええー」
両肩に手を置かれて、ドキドキしていたのに興ざめだ。
諭すような態度でそういったアープに精一杯の講義のつもりで残念そうな声を出すけれど、彼は動じてくれない。
「来年、この海で式をあげよう。そのためにも、この一年しっかりこれからのことを話していこう」
額にキスをされながら、そんなことを言われたら許してしまう。
かっこよく書き置きを残してきたのはちょっと気まずいけれど、彼の気持ちも尊重したいし、なにより彼もちゃんと私のことを思ってくれていたことがわかってうれしかった。
「わかった…じゃあ、またね」
波打ち際から飛び込んで遠ざかる彼に手をふると、鱗に覆われた下半身の先端にあるヒレを手の代わりに大きく振り返してくれた。
彼の下半身を覆う蒼く輝く鱗は、水面から出るとキラキラと輝いてとても綺麗だ。
彼が見えなくなるまで波打ち際で佇んでいた私は、鞄からスマホを取り出した。
「あんな書き置きを残したけど、今日はやっぱり帰ります…と」
海の家で何かを食べてから帰ろう。
私は、メッセージが家族のグループチャットに送信されたのを確認してスマホをそっと鞄にしまい込んだ。