第9話

文字数 3,622文字

「……もうすぐ三月も終わりですねぇ、そしてこの放送も来週でラストになります。みんな、泣いちゃだめだよぉ。え?四月からは、若くて可愛いパーソナリティに代わるから大丈夫ですって?ええ、どうせわたしは姥桜よ、うぇぇん、て、泣く訳ありませんわよ。さてさて、冗談はさておき、今夜も最後の曲になってしまいました。今夜お届けする曲は、ちょっぴり懐かしい曲ですよ。シンさん、メメさん、リクエストありがとう、、この季節にピッタリ。ジョー・コッカー&ジョニファー・ウォーンズで『愛と青春の旅立ち』リチャード・ギアさまぁ……」
 マイクのスイッチが切られ、ヘッドフォンを外し立ち上がった千晶に、若いADが声を掛ける。
「千晶さん、最近なんかキャラ変わりましたよね」
「そうかなぁ、わたしは意識してないけど」
「確かに変わったぜ」
 大越もブースに入って来て同じ事を言った。
「今のちぃもなかなかいい感じだな」
「ダイさんまで。まあ、そんなに変わったとおっしゃるんでしたら、どの辺が変わったのか、この後詳しくレクチャーして下さりません事?」
「滅多に無いお誘いか?」
「おねえちゃんが付かないお店でね」
「またおでん屋か?」
「今夜はお好み焼き屋さん。美味しいとこ見付けたの」
「何か色気の無い店ばっかだなあ。口説くに口説けない」
「あぁら、本気で口説いた事なんて一度も無いくせに」
「鉄のパンツ履いた女は口説かない主義でね」
「悪いけど、今夜はシルクです」
 こんな冗談のやり取りが交わせるのもあと僅か。ほんの少しばかり、感傷的になる千晶だった。

『拝啓。
 舎房の窓から見える桜の木に、淡いピンクの色が付き始めました。今日は天気が余り良くなく、雨が降ったり止んだりで、せっかくの花びらが散りはしないかと心配です。満開に咲いている時間が短いのですから、開く前には散らせたくないものですね。先週、掛けて下さった曲、今日、別な番組でも流れてました。何だか、たったそれだけの事なのに、すごく嬉しい気分になれたのです。春という季節のせいもあるかも知れませんね。いや、やはり貴女様から頂く温かい言葉のお陰なのでしょう。こうしてお手紙を頂戴し、その返事を書く。ラジオからは、貴女様の優しげな肉声を受け取り、私の中にこれまでは無かった、物を愛でる心が生まれたからなのでしょう。こんなにも時間を大切に過ごさせて頂けて、私は幸せな気分です。千晶様、新しい職場でも、変わらぬお声で沢山の人に優しさを届けて上げて下さいませ。
         敬具       梶谷耕三
麻宮千晶様     』

『前略。
 久し振りに本を手にしました。随分前に買い求めておきながら、ずっと本棚に立て掛けたままになっていたんです。今日一日で、やっと三分の一を読んだところ。少し少女趣味的な内容ですが、ちょっとだけ笑えて、ちょっとだけ泣ける、そんな物語です。わたしから、いろいろなものを受け止めて頂いたと書かれてましたが、それは、わたしの方こそなんですよ。わたしの方が、より大きいものを頂きました。それを言葉として表現出来ないのが、ものすごく残念です。言葉を伝える仕事に就いているのに、まだまだ勉強不足ですね。春雨にしては強い雨が、今日は降っています。昨日はあんなに晴れていたのに。咲き掛けた桜が、一休みしちゃってます。いよいよ来週いっぱいで放送も終わり。次からは、リクエストにもお応え出来なくなり、本当に残念です。
 来週最後の水曜日は、桜は七分か八分咲きになるでしょうか。
        かしこ         千晶
梶谷耕三様へ    』

 いつもと変わらぬ起床の音楽とチャイム。点検迄の慌ただしいひと時。布団の四隅を揃え、僅か畳二枚分の部屋を掃除する。
 そそくさと洗面を済ますと、刑務官の野太い声が、点検を告げる。
 慣れた日常の動作。
 正座をし、点検を待つ間、そういえば今日が最後の水曜日だと気付き、思いを馳せる。
 ふと、一本の髪の毛が落ちていたのに目に止まった。
 ちゃんと箒で掃いたのだが……。
 頭を刈って四週間、そろそろ刈って貰わないと、などと思い、二センチ程の髪の毛を摘む。
 よく見ると、その一本だけではなく、他にも何本か落ちていた。
 何故か私はそれが気になり、早く点検が終わらないかと気が急いて来た。
 点検終了の合図とともに、再び箒を手にした。
 今度は、掃き切れない小さな埃とかが気になりだし、朝食に目もくれず、雑巾掛けを始めた。
 いつの間にか大掃除となってしまい、私はお陰で時間の感覚を忘れていた。
 作業材料が入って来ない事も忘れていたのだ。
 窓に段ボールの目隠しがされた。
 私の五感が告げた。
 そうか、そういう事か……。
 畳んだ布団の四隅をもう一度揃え、私物と衣類を整頓する。
 見苦しくないな……。
 誰かに告げられた訳では無い。
 私自身の五感が告げて来たのだ。
 はっ、と思い出し、私は急いで下着を替えた。
 手付かずの真新しい下着を前々から一組だけ用意していた。
 迎えが来る前に間に合い、安心して扉の前に正座をする。
 鍵が差し込まれる音がした。
 はっきりと聞こえる。
 重々しく開けられる鉄の扉。
「梶谷……出なさい」
 普段は柔和な眼差しを見せる担当が、心無しか険しい目をし、声を震わせていた。
「ご苦労様です」
 両手を畳に揃え、一礼をし、スリッパを廊下にそっと置く。
 連行職員が私の身体を点検する。
「判ってるな……」
「はい。長い間お世話になりました」
「うん……」
 ゆっくりと、私を気遣うかのように歩く職員達。二度と戻らぬ廊下を踏みしめながら、私は彼らの後に着いて行く。
 幾つかの廊下を歩き、幾つかの階段を降り、その場所へと歩みを進めた。
 傍らの年配の職員が、
「梶谷、家族とかに何か伝える事があるなら、聞いておくぞ」
「私物篭に、まだ投函していない手紙があります。それを出しておいて頂けませんか」
「判った」
「ありがとうございます」
 初めて歩く廊下の先に、観音開きの扉があった。中に入ると、一ヶ月前に面会した教悔師が居た。その横には初めて見る職員。
 教悔師が話し始めたが、私の耳には殆ど入って来ない。
 私には、何度となく耳にした彼女の言葉だけが掛け巡っていた。教悔師の話が終わり、入って来た扉の反対側の扉が開いた。
 促されて歩き出す私。
 不思議な感覚だ。
 もう少し取り乱すかと思っていたが、自分でも驚く程に落ち着いている。
 四角い正方形の小さな部屋。リノリュームの床の中央部分だけが、同じ色の板になっている。その部分に立たされ、濃い灰色のツナギのような服を着せられた。
 手錠を掛けられ、準備が出来ると、
「済まんな、規則なんだ」
 と、申し訳なさそうに若い刑務官が言う。
 すうっと頭から袋のような物を被せられた。
 何も見えない。
 少し息苦しい感じがする。
 首に何かが巻かれた。
 太いロープだ。
 達夫、多恵子、そして千晶さん…ありがとう。
 床が、失くなった……。


 三月最終金曜日。やっぱり特別な思いが湧いて来た。見慣れたスタッフともお別れ。とは言っても同じ職場だから、何処かで顔は合わすだろう。最後の構成を考えていた千晶の所に、大越がやって来た。
「ちぃ……」
「あら、お別れのお涙頂戴ならまだ早いわよ。どうしたの?」
 無言で立ち尽くす大越の手には、一枚のニュース原稿があった。
「これ、この後の番組に差し込むニュースだ」
 何かを察した千晶は、引ったくるようにしてその原稿を取った。
『一昨日、全国三ヶ所の拘置所で死刑の執行が行われた。執行された死刑囚は北海道で一名、東京で二名、名古屋で一名の計四名で、昨年11月から僅か四ヶ月という短い間に執行が行われたのは、異例の事である。なお、法務省からの発表による執行された死刑囚の氏名は……』
 その名前はあった。少し震える手で、千晶は原稿を返した。受け取った大越は、替わりに一通の封書を差し出した。差出人の名前を見なくとも判っている。封も切らず、机の中にしまった。
「いつかは……ね。いつかはこういう日が……」
「どう言って上げたらいい?」
「なあんにも……。さて、ダイさん何ボォーっとしてんの。そろそろ時間でしょ」
「千晶……」
「何?」
「一人でしょい込み過ぎんな。二人なら、多少は軽くなるぞ……」
「……バカ、口説くんならもうちょっとロマンチックな場所でしてよ」
 千晶の言葉が言い終わらないうちに、大越は背中を向けスタジオに向かっていた。

『……最後の最後になりましたね。外の桜は明日か明後日が満開になるでしょうか。桜の花がひらひらと舞い散る中、新しい道を歩く……季節ですね。桜と言えば、サクラのK・Kさん、いつもありがとうございました。弟さんに、ちゃんと忘れずに渡して下さいね。途中で落とすといけませんから、もう一度プレゼントしますね。エディット・ピアフで……』
 儚げな声が、緩やかな旋律とともに千晶の最後の言葉を優しく包んだ。
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