第1話

文字数 9,262文字

『それでは最後の曲をお送りして、今日はお別れです。来週も皆様のお耳に……』
 彼女の声を今週も聴けた。いつ聴いても心が安らぐ。
 少し少女っぽい声質で鼻に掛かった感じだが、話し方は落ち着いている。
 毎週水曜日の夕方6時。ラジオから流れる彼女の声を私は心待ちにしている。
 彼女が選曲する曲は、殆どが私の知らない曲ばかりだが、センスの良さは判る。彼女の声を初めて聴いたのは五年前になる。
 私は、彼女のゆっくりと、語り掛けて来る言葉に惹かれていた。十七年、私は此処で生活をしている。いや、させられている。
 毎日決まった時間に起床し、定められた動作をし、ただひたすらその時を待つ。
 私の視界に入る現実世界は、鉄格子と鉄の扉、そして、四角く切り取られた代わり映えのしない空。
 風呂までの距離は、歩数にして僅か三十三歩。前後しても五歩とは狂わない。入浴日以外の晴れた日は、運動場で三十分ばかり日光浴が出来る。風呂場へ行くよりは遠出だが、それでも階段をフロア一つ分下がるだけだ。
 私から誰かに話し掛るような事は滅多に無い。たまに話し掛けられる事はあるが、相手は職員と、雑用をしている者が事務的な事で声を掛けて来る程度。通常のコミュニケーションなど、此処には存在しない。だから、僅か十分にも満たない面会があった日は、その時間の早さが、普段の何倍も早く感じる。面会での話の内容に関係無くである。
 私は、六年前に死刑が確定した死刑囚である。裁判が結審する迄、十年ちょっと掛かった。自分の意思からではないが、最高裁まで上告した。そして予想通り却下され、弁護士や死刑制度に反対する支援団体の再審活動を自ら断り、私の死刑は確定した。
 それから六年。
 未だ、私は生かされている。
 昔は、死刑の執行日というものが毎週何曜日と決まっていたらしく、その日の朝を迎えると死刑囚の舎房からは、読経が聞こえて来たという。現在は、死刑執行日は定められてはいない。
 ある日、突然にやって来る。私の被害者達のように、この私にも、突然、死の宣告は下されるのだ。
 私達死刑囚は、その処遇が他の未決囚や、受刑者達とは少し違っている。扱いは、未決と同じ。だから、収容される施設は、刑務所ではなく、拘置所になる。
 生活動作も未決囚と同様だが、大きく違う点は、希望すると房内で簡単な作業をさせて貰えることだ。ちゃんと、給料も出る。ただ、その安さを知ったら驚く。
 一ヶ月の受給額は、一般受刑者と同様に一定期間で上がって行くが、一般受刑者の場合は様々な手当が加味されるのに対し、私達には基本額でしか算定されない。
 以前は、作業賞与金と言っていたが、今は作業報賞金と名称が変わった。変わったと言っても、内実は昔のままだ。時給で換算されるのだが、ランクが見習工から一等工までの十段階で時給が上がって行く。特に問題も起こさず、真面目にやっていれば三年半程から四年で一等工に昇給出来る。だが雀の涙にはかわりない。
 私達のような、もう二度と社会に戻れない人間ならいざ知らず、更生資金として手にして社会復帰する者には、余りにも少なさ過ぎる気がする。見習工の時給など、五円ちょっとだ。一番上の一等工でも三十円ちょっと。
 私は、房内での作業をするようになって四年近くになるから、一等工にはなっているけれど、一ヶ月に手にする作業報賞金は五千円前後だ。手にしたその報賞金を、私は毎月弟に送っている。最初、ある程度貯まった時点で、被害者へ送金した。びびたる額ではあったが、私が命を奪った被害者に、幼い子供が居た事を知り、贖罪の意味もあってそうしたのだが、送金した金は、受け取りを拒否されてしまった。
 事件当時、まだ四、五歳だった遺児も、送金した頃には高校生になっていたし、今はもう社会人になっている。
 受け取りを拒否されたその金を私は唯一の肉親である弟に渡し、何とか遺されたお子さんの為に使って貰いたかったのだが……。

 麻宮千晶が今の放送局に入社して既に十三年になる。元々、報道指向が強かったが、放送局全社に面接応募した結果、FM局一社だけが採用となり入社した。入社八年目に『ちあきのお耳にひと時』という冠番組を受け持たされた。入社当初からの希望であった報道の仕事は、思っていた程なく、定時音楽番組のパーソナリティの仕事ばかりが続いた。
 自分の名前を冠にした番組を持てるようになると、多少意識は変わったが、心の奥にはまだ報道畑への想いは残っている。この番組を任される事になった時、千晶は一つだけ番組ディレクターに注文を出した。
「リスナーのリクエストにも勿論応えるけど、基本は、私の自由選曲にさせて欲しいの」
 ディレクターは了承した。
「千晶のカラーを出せばいいよ」
 の一言が、彼女の気持ちを軽くした。番組は平日の夕方6時から7時迄。FM局らしく、メインは新旧のヒット曲が盛り沢山とイメージしていた局の番組編成関係者達は、実際に放送が始まると、予想が外れた事に幾分驚いた。
 時間帯からすれば、若い旬のアーティストをゲストに呼んだり、そういった曲を多く流した方が、ユーザー受けはする。
「大丈夫かい?」
 ディレクターの元に心配顔で編成部員達が言って来た。結果は、五年も続いて、もうすぐ六年目に突入する。
 千晶のスタイルは、ただコメントをして、曲を流すといったものではなく、その時々で構成を変えて来る。曲を一曲だけセレクトし、その曲にまつわる背景や、自らの思い入れを語る……。
 それが曲ではなくアーティストの場合もある。最初の頃は、リスナーの反応もそれ程ではなかったが、二年目の終わり位から寄せられる葉書や手紙に変化が表れ出した。
 深夜のリスナーを対象にしたような『ちあきのお耳にひと時』は、今ではAM局も含めた聴取率のトップを走っている。
 反響が広がるにつれ、千晶の番組に対するこだわりがより強くなって来た。最近では、千晶のその姿勢を快く思わない者も現れ始めている。
 彼女は一貫して、音楽を通じてその時々の様々な思いを生の声で伝えようとした。台本や番組進行表を無視する事など、日常茶飯事だ。それでも彼女の理解者であるディレクターは、それまでと同様好きにさせていた。時に、リスナーからの手紙や葉書に、彼女は必要以上に接してしまう部分があった。
『ちあきのお耳にひと時』のリスナーの年代層は、二十代前半から三十代後半の女性が多かったから、寄せられる手紙の内容の殆どが、恋愛にまつわる話が多い。たまに、ヘビィな人生相談的な内容のものが来たりすると、手紙や葉書を仕分けするADが、除けてしまったりする。
 番組には重過ぎると判断しての事なのだが、千晶は何度かそういった手紙や葉書を取り上げた事があった。
 六月の中頃に届いた一通の手紙の時も、それを番組で読み上げるかどうかで大揉めになった。
「さすがにこいつは電波に乗せられないぜ」
 番組の編成部だけでなく、普段なら千晶の好きにさせてくれていたディレクターの大越までもが異論を唱えた。
「リスナーへの影響を考えたか?」
「勿論」
「勿論て……あのな、公共の電波から何かしらのコメントを発信するって事は、その全てに責任を負うって事なんだぜ」
「それも判ってる」
「差出人の名前、きちんと調べたのか?」
「それもイエス」
 返す言葉を失ったとでも言いたげな大越は、
「新人の頃から絶対に自分の意見は曲げなかったからな……。好きにしろ」
「ありがとう、ダイさん。恩に着るわ」
「その囁きで、俺を何度篭絡させるんだ」
「お望みなら何度でも」
 苦笑いをしながら、大越は最後に念を押した。
「言っとくが、今回限り。次は無し」
「判った。サンキュー」
 千晶は手にしていたその封書を改めて見つめた。
 流れるような筆跡。麻宮千晶と書かれた自分の名前をこんなにも美しく書いて貰ったのは、初めてかも知れない。
 差出人名の下に、小さな花びらのスタンプがある。そのスタンプは、十数枚の便箋それぞれにも押されていた。花びらの形は、五弁の花びらで、一目で桜を象ったものと判る。その花びらの意味が何であるか、初め、千晶には判らなかった。それが何を意味するものかを教えてくれたのは、大越だった。
「これは、検閲のマークだ」
「検閲?」
「刑務所とかのな。ああいう所では、手紙は全て検閲されるんだ。その時に、OKならこういうスタンプが押される。書かれてる内容とか、便箋の枚数からすると、刑務所じゃなく拘置所だね」
「それ位は判るわよ。これでも報道目指してたんだから」
 手紙の内容はごく在り来りのもので、部分的に拘置所というものを窺わせるが、そのサクラのスタンプの意味さえ知らなければ、普通の手紙と同じだった。差出人の名前と、デスクの隅にあったプリントを見比べた。
 梶谷耕三。
 200X年死刑確定。
「死刑囚かぁ……。やっぱりヘビィだよねぇ……」
 独り言を呟き、プリントに書かれてある梶谷耕三が犯した事件の概要を改めて読んで行った。
 199X年の12月、クリスマスイブの深夜にその事件は起きた。盗みを働こうとして民家に侵入した梶谷は、その家の家人である夫婦と、その両親の一家四人を殺害し、現金五十万円余りを奪って逃げた。
 達筆な文字で書かれた事件の当事者の名前を改めて見返した千晶は、大きくふうと息を吐いた。
 傍らでその様子を眺めていた大越は、やれやれといった表情で千晶のデスクから離れた。
 最近は余程不景気なのだろう。我々が行う作業が極端に減って来た。
 私が作っているのは、惣菜を入れる紙袋。以前は、朝一番で舎房に入れて貰った材料が一日で終わるなどという事はなかったのだが、最近は半日分位の量しか回って来ない。
 ゆっくりやってくれと言われても、自然と手が動き、気が付けば終業の二時間前位には手持ち無沙汰になっている。
 そんな時は仕方ないから、刑務官の目を盗みながら、小机の下に忍ばせた本に手を伸ばしている。
 尤も、その現場を見られたとしても、死刑囚である私に注意をする刑務官などいない。今読んでいるのは、先月、弟が差し入れしてくれた物で、正直私には何が何だか判らない内容の小説だった。それでも、暇つぶし位にはなる。
 今日は朝から雨音がし、せっかくの運動時間も中止になってしまった。時折、窓の外に鳩が雨宿りをしに来ているが、あいにく今日は彼らに与える餌が無い。
 作業中の読書とは違い、さすがに鳩や猫に餌を与えているところを刑務官達に見付かれば、厳しく注意をされてしまうから、判らないようにしなければならない。厳しく注意はされないと判ってはいても、やはり刑務官の足音は気になる。時折通る刑務官の目を盗みながらする読書は、なかなか頭に入らない。
 難解な小説も残り三分の一となったところで、作業止めの時間になった。
 午後四時。
 夕食。
 今夜は中華風旨煮と冷えた焼売が二個。それと、お浸し。腹を膨らますには充分な量だ。
 食事時になると、収容者達が食事の残飯をくれたりするから、鳩がやたらと集まって来る。拘置所に居着いた猫も、雨に濡れながら窓の外でミャアミャア鳴いている。そっと窓を開け、鉄格子の間から、一握りの残飯を鳩にやろうとした。
「梶谷」
 声の方に振り返ると、担当が笑みを浮かべながら、駄目だぞと首を横に振る。
 私は苦笑いをし、頭を軽く下げた。私より一回り以上若い職員だが、今迄の担当の中では、彼が一番いい。何より、笑顔が刑務官らしくない。
 食事の片付けも終わり、夕点検が終了し、五時になると布団が敷ける。一日中座りっ放しだと腰に堪えるから、横になった瞬間が、ものすごく気持ちいい。
 そういえば、今日は水曜日だ。毎日彼女の放送を聞かせてくれれば嬉しいのだが、曜日毎に番組を決められているから仕方がない。
 週に一度の逢瀬か……
 などと、私は柄にもなく気持ちを少しだけ華やかにさせていた。
『こんばんは、麻宮千晶のお耳にひと時、今夜も素敵なお時間を過ごして頂けたら、嬉しいな……』
 ゆったりとしたBGMを、まるで自分の声の伴奏のように話す彼女。私の頭の中で、まだ見ぬ彼女の姿がはっきりと浮かび上がる。ラジオから聴こえて来る声に包まれ、私はこのひと時だけ、別世界に居る。
『今夜は、初めに一通のお便りをご紹介しますね。お名前は、イニシャルでお呼びします。東京のK・Kさんから頂いたお便りです。
拝啓。初めてお便り差し上げます……』
 いつものように、番組のファンからの手紙を読む彼女。私は瞼を閉じ、その滲み通る声音に心を浮遊させていた。
 彼女の読み上げる声が少しずつ、私の意識を覚醒させ始めた。
 こ、これは!?
 読み上げる文面に記憶があった。
 K・K……
 梶谷耕三?……
 彼女が読んでいた手紙は、私のものだった。
 布団から跳ね起き、立ち上がって背伸びをした。扉の上に埋め込まれたラジオのスピーカーに耳を近付ける。
 そんな事をしなくても、充分な音量なのだが、私はほんの少しも聴き逃したくない気持ちから、そんな事をした。
『……という事で、本当は毎日ちあきさんの放送を聴きたいのですが、いろいろ事情がありまして、水曜日しか聴けません。ちあきさんの声を来週も聴けるだろうかと、いつも思いながら、放送が聴ける水曜日は一言も聴き漏らさずに耳を傾けております。
 そうですか…土日以外の平日は毎晩放送してるんですけど、K・Kさんは、ちょっといろいろと事情があって水曜日しか聴けないという事なんですが…K・Kさん、お耳に届いてますか?
 今日は、その水曜日です。どんな音楽がお好きか、手紙にはリクエスト曲が書かれてなかったのですけど、今夜は、わたしから一曲プレゼントさせて頂きますね。便箋に花びらのスタンプ…サクラの季節は終わりましたけど、K・Kさんもいつかは満開の花を……』
 彼女の言葉が、そこで一瞬途切れた。
 間を置いて、彼女が私の為にと言ってくれた曲が流れて来た。昔、何処かで耳にしたような、そんな懐かしいメロディーだった。
 彼女があの後の言葉に詰まった意味を理解出来たのは、世界中で私だけだった。
 流れていた曲がゆっくりとしぼられ、代わりに彼女の声が私の頭の上から優しく降りて来た。
『……K・Kさんは、お便りの中でこんな事もおっしゃってます。
 私は、ただ生かされているだけの日々を送っていますが、その日が来る事を心安らかに受け入れられているのは、ほんのちょっとの喜びや、感動を素直に感じられるようになったからです。日常の僅かな変化や出来事の中に、私はそういうものを発見し、ああ、今日も一日過ごせたんだなと感じ取れてます。小雀が雨の中、気持ち良さ気に羽根をばたつかせているのを見て、水浴びをしてるみたいだと思う自分が居て、また、一杯のお茶の温もりをあったかいと感じる気持ちになり、窓辺に射す西陽を柔らかいと思う心があって、ああ、生きてるとこんなにも沢山、心を動かしてくれるものがあるんだなと、そう思える今なんです。尊いって、ひょっとしたら、こういう何でもないような瞬間にこそあるのかなと思いました。この番組もそうなんですよ。ちあきさんが語り掛ける言葉、そして聴く人の胸の奥にしまわれた記憶を呼び覚ます懐かしい曲。今日もまた、きっとちあきさんから、何かを頂けるのでしょう……』
 廊下を夜勤の刑務官が通った。私の舎房の前で靴音が消えた。
「梶谷、どうした?」
 ずっと立ったままでいる私を見て、若い刑務官は不思議そうな表情をしていた。
 無言で答えない私に、彼は
「用が無ければ、静かに横になってなさい」
 と注意をした。
「ラジオの音が聴き取れないんだ。もう少しこのまま聴かせてくれ。」
 彼は少し驚いた表情を見せた。めったな事で職員にはそういう態度を取った事がなかったから、意外に思われたのかも知れない。
 若い職員は、ぼそぼそと一言二言何かを言って、その場を立ち去って行った。ラジオから届く彼女の声に、私は再び気持ちを集中させていた。
『……なんでもない事を、こうして素直な心、感受性で受け止められる…そんなK・Kさんのように、わたしは果たしてこういう気持ちで日々を過ごせてるのかなぁと、わたしなりに考えさせられたお便りでした。K・Kさん、今夜は、どんなものが見えて、そして感じられますか?そして、明日はどんなものが見えるのでしょう……。』
 再び流れる音楽。 何故か、私の目は潤んでいた。感動とも少し違うもの。喜びと言うにはおこがましい、ささやかな感情の波が、私の心にゆっくりと波紋を作って行った。
 放送が終わってすぐ、私は布団を便器側に二つ折りにし、壁に寄せてあった小机を引き寄せた。私物が入れてある篭の中から便箋を取り出し、私は無我夢中でペンを走らせていた。それは、殆ど衝動的とも言える行動であった。
 消灯時間になれば、いやでも布団の中に入らねばならない。こっちの都合など一切関係無い場所。仕方ない。囚われの身なのだから。
 布団の中で、私は書きかけの手紙の続きを何時間も頭の中で綴っていた。書きたい事が、後から後から湧き出て来る。
 感謝の言葉をこれほど思い浮かべたのは、ひょっとしたら初めての事かも知れない。
 そうだ、今度は何か曲をリクエストしてみよう……
 演歌や歌謡曲じゃ、あの番組の雰囲気じゃないし、かと言って流行りの曲でいいなと思う曲なんて……
 そんな事を延々と考えているうちに、私は自然と眠りについていた。久し振りに、本当に久し振りに、私はあの夢を見ずに深く眠りの底に落ちる事が出来た。
 その日のオンエアを終えた麻宮千晶の元に、編成局の人間がやって来た。
「うちのような局で、ああいう手紙を読み上げるって、どんなもんかね」
 早速来たかと千晶は身構えた。相手の目が険しい。こういう事は、何年も番組を続けていればしょっちゅうだ。今では余り気にしないようにしている。いちいち聞く耳を持っていたら、自分のやりたい番組なんて作れない。
 千晶が言葉を返そうとすると、大越が近付いて来て、
「ちぃちゃん、良かったよ。早速リスナーから反響の問い合わせが来てる。上手く、差出人をぼかしたな」
 リスナーからの反響。この一言で相手の相好が変わった。
 現金なものだ。
「まあ、今回は上手く君が機転を利かせてくれたようだけど、判る人には、あの手紙の内容が刑務所から来たものだってすぐ判るからな。これからも、どういう人間から手紙や葉書が来るか判らないんだから、取り上げるやつには充分気をつけてくれ」
 予想通りの台詞を残し、彼は立ち去って行った。
「ねえダイさん、もうそんなに早くリスナーから反応あったの?」
「え!?ああ、まあね」
 彼の嘘はすぐばれる。
 千晶はくすっと笑い、
「サンキュー」
 とだけ言った。
「でも実際、塀の中からの手紙だってばればれの感じだったな。サクラのスタンプなんて、何故わざわざ喋ったの?」
「梶谷て人に、貴方からの手紙ですよって知らせたかったの。名前を読み上げる訳には行かなかったし、詳しい住所だって当然NGでしょ。自分が書いた手紙が読まれてますよって、わたしからのモールス信号のつもりだったの。かわいいスタンプって言ったところまでは良かったんだけど、貴方もいつか満開の花をって言い掛けた時は焦ったわ。調子に乗り過ぎたって思った瞬間、ダイさんが曲流し始めてくれたから、ホント、助かった」
「礼なんかよりも、俺のクビを飛ばさないでくれたら嬉しいよ」
 千晶は、悪戯を見付けられた子供がするような表情で、大越に両手を合わせてゴメンと何度も言った。

 ラジオから代わり映えのしない音楽が流れ、起床を告げる。
 慣れた動作で布団を畳み、手際良く洗面を済ます。
 起床から十分もすれば朝の点検。
 廊下の端から刑務官の野太い声が響き、そして点検が始まる。
 点検終了とともに朝食が配られる。
 私達に食事を配ってくれるのは、受刑者。
 拘置所で雑務を担当する受刑者の刑期は、平均して三年以内の者が多いようだ。
 そういった受刑者達が、私の前を何人も通り過ぎて行った。
 我々のような収容者の面倒をなにくれと見なくてはならないから、並の受刑者では務まらない。
 社会にいた頃の前歴を調べれば、まさかと思うような人間が少なくない。彼らは、仮釈放が比較的一般の受刑者より多く貰えるようで、刑期の三分の一近くを残して出所して行く者も居る。
 仮釈放が間近になった者は、髪の毛の長さを見ればすぐに判る。又、表情にも柔らかさが表れ、私などから見れば簡単に見分けられる。丁度、このフロアを担当している受刑者の一人が、まさしくそれだ。
 朝食を舎房の窓から入れながら、その柔和になった表情を見せ付けて行く。
 何だかんだと朝は慌ただしく時間が過ぎて行く。
 私の頭の中は、目の前の作り掛けの紙袋よりも、書きかけの手紙でいっぱいだった。
 何とか今日中に書き上げて、明日の朝には出したい……。
 もどかしい程に時間がゆっくりと刻まれて行く。昼の休憩時間など、ぎりぎり迄手紙を書いていた。
 いつも通り、決まった動作で夕方を迎える。いつもと少し違うのは、五時の仮就寝になっても布団を敷かない事だ。何枚も書き損じた便箋が、葛篭の中で山になっていた。彼女への二度目の手紙を書き終えたのは、就寝迄残り三十分もない八時半頃であった。
 ふっと、息を吐き、封筒に彼女の名前を認める。
 麻宮千晶
 何故か緊張し、三枚も宛名を書き直した。これで明日の朝発信出来る。
 固まってしまった腰を伸ばし、漸く布団を敷く。五分とせず、消灯を告げる音楽が流れた。
 私は、その夜も深く深く眠りの底につけた。

「ちぃ、手紙だ」
「ありがとう」
 大越がわざわざ千晶のデスクまで来て手紙を持って来る事など、滅多に無い事だったから、少し戸惑った。しかし、差出人を見て納得した。
「サクラのお手紙だ」
「見れば判るわ」
「二度は無いって先週言ってあるからな」
「二度ある事は三度あるって聞こえてたけど」
 交わす軽口も、この時はいつも程の気軽さが感じられない。
 ホント、綺麗な字……。
 宛名である番組名と自分の名前に、暫く見とれていた。鋏で封筒を開け、分厚い便箋の束を取り出す。
 前回とは書き出しがまるで違っていた。何度も放送で手紙が読まれた事の礼が書かれてあり、あの晩は嬉しさの余り、すぐにこの手紙を書いたらしい。何枚目かの便箋から、文面ががらりと変わった。
『……実は、私は近々死を迎えねばならない者なのです。病気とかではなく、法に定められた下で迎える死です。もう、お判りだと思いますが、私は死刑囚なんです。刑が確定してから、既に幾つもの季節を過ごして来ました。ひょっとしたら、明日、いや、この手紙が貴女様の手元に届いた時には、私はもう絞首台の露となっているかも知れません……』
 読み進めていた千晶の目は、絞首台の文字の上で止まっていた。
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