第2話

文字数 4,558文字

 バブルという一つの時代が、人々の狂乱の終焉とともに祭の後の虚しさの如く幕を降ろした。クリスマスが終わり、華美なイルミネーションも外された街並みの中で、私は途方に暮れていた。
 一年半前に勤めていた会社は倒産し、その後、幾つかの会社に職を求めたが長続きはしなかった。理由は全て自分にあったのだが、その事を認めず自覚もしないでいた私に、十年連れ沿ってくれていた妻は愛想を尽かした。
 離婚して半年、私は世の中の全てを恨み、全ての人間を憎んでいた。憎しみからは、何も生まれはしない。
 十数年経った今になって、そのことにやっと気付いた。きっと、憎しみに言い訳を求めていたのだろう。
 住む所も追われ、寒さと空腹に打ちしがれていた私は、街を行く人々の群れに、妬みだけを抱いていた。ポケットの中には、立ち食い蕎麦一杯分の小銭だけ。
 寒さと空腹の中、垢に薄汚れたジャンパーの衿を立てても、首筋を刺す冷気に抗う事も出来ない。
 何処をどう歩き続けていたのか、気付いた時にはすっかり夜も更けていた。
 繁華街で彷徨っているのであれば、まだビルの物陰で夜風を凌いだりコンビニで時間を潰す事も出来たであろう。それに、あんな恐ろしい事をする事もなかったかも知れない。
 いや、きっと遅かれ早かれ、私はそうする運命に立っていたのかも知れない。
 運命という言葉。
 便利な言葉である。
 その一言で、己が犯した罪をある一面では正当化出来る。しかし、それは真実ではない。だが、私は気付くのが遅過ぎた。
 人通りが絶えた住宅街の中を彷徨っているうちに、私は駐車場に停まっている車を物色し始めていた。ウインドウ越しに中を覗き、金めの物を探し歩いた。寝静まった住宅街の一画にあった駐車場で、一台の車に近付いた。
 高級車だから、きっと何か金めの物があるに違いないと短絡的に考えた私は、ウインドウガラスを割る為の手頃な石を探していた。丁度、ブロックの瓦礫が側にあり、私はそれでガラスを破ろうとした。
 物音を立てて近所の住民に見付かってはいけないと思い、ブロックを打ち付けるのに力が入らなかった。最初の一撃では小さなひびしか入らず、もう一度ブロックを振り上げた。
「何してるっ!」
 いきなり声を張り上げられ、私は驚きの余りに悲鳴を上げそうになった。頭上迄振り上げていたブロックをその場に投げ捨て、私は脇目も振らず逃げた。
 私を咎めた声は最初の一声だけだったが、逃げている間中、ずっと追って来ているように感じた。幾つもの路地を曲がり、足がもう動かないと思う位に走った。
 息が苦しくて、もう限界だ……
 同じような造りの家が建ち並ぶ一画に出た。
 家と家がくっつくようになっているその家並に、私は身を隠す事にした。
 僅かばかりの街灯の光りすらも、私には恐怖だった。
 光りの届かぬ暗闇を求め、身一つ分の隙間に身体を押し込んで行く。
 壁を擦るジャンパーの音にすら、恐れおののきながら……
 暗闇の中で、私は出来るだけ身体を縮こまらせていた。じっとしているうちに幾分落ち着いて来た私の心は、筋違いな怒りを抱き始めていた。
 もう少しで上手く行ったのに……
 ちくしょう……
 このままじゃ……
 このままじゃ、俺は……
 ふと見上げた先に窓があった。風呂場のようだ。ゆっくりと指を掛け、少しずつ力を入れる。窓が錆び付いたレールの上を、ギィという耳障りな音をさせながら開いて行った。
 あ、開いた……
 背を伸ばし、中を覗くと、やはり風呂場だった。窓を全開にすると、私の身体でも充分通るだけの空間が広がった。
 躊躇う気持ちなど既に微塵も無かった私は、身体をあちこちにぶつけながら、やっとの思いで侵入した。
 さほど広くない家の間取りだったと思う。とにかく、その辺の記憶がすっぽりと抜けているのだ。はっきりと記憶しているのは、私に気付いた家人と揉み合いになり、気が付いたら手に血の着いた包丁を握りしめていたという事だけ……
 包丁がその家の台所にあった物だとその後の調べで刑事に言われて、
 ああ、そうだったのか
 と他人事のように思い出す位、その辺の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
 最初に私が刺した被害者はその家の主人で、何処をどう刺したかも定かに記憶していない。しかし、その後の事だけは、はっきりと脳裏に刻まれている。
 騒ぎに気付いた他の家族を私は次々と刺し、しかも、冷酷な程、何度も被害者達を刺していた。
 噴き上がる血飛沫。
 泣き叫ぶ悲鳴。
 断末魔の呻き。
 助けてくれと両手を合わす老母の首に、私の容赦無い包丁が突き刺さる。
 暗闇の中であるのに、私にははっきりと彼らの鮮血が見えた。
 血のぬめりを両手に感じて行く程に、私は殺戮する事を繰り返した。
 息も絶え絶えな家人へ、更なる刃を突き刺す。若い妻女のわななきに、欲情すら湧いた。
 突き刺さる肉の感触が、柔らかい女体を感じさせ、私の興奮は頂きへと向かう。
 四つの屍を見下ろし、少しずつ正気を取り戻した私は、そこに自分の未来に絶望が生まれた事を漸く知ったのである。
 仏壇の引き出しから、預金通帳に挟んであった現金を見付けた時、私は自分の足許で血の海に沈んだ四つの死体を一瞬忘れた。
 沸き起こった感情は、
 生きれる……
 であった。
 包丁の柄にへばり付くように凝り固まった右手の指を一本一本剥がすようにして放し、包丁を投げ捨てた。
 無我夢中で現金をポケットに捩込み、その場を立ち去ろうとした時、私は何かに躓いた。それは、暗闇の中で無念な眼差しを虚空に送る老女の首であった。
 私が老女の首を何度も刺し貫いた刃先は、殆ど胴体から離す寸前までに切り裂いていたのだ。僅かに皮一枚で繋がっていた頭部が、私の足が当たった事でぐにゃりとあらぬ方向に向かせてしまった。
 既に光りを失った筈なのに、老女の眼は光っていた。金縛りにあったかのように、私はその眼に射竦められた。急に全身に汗を感じ、身震いする程の寒気が私を包む。その時、微かに啜り泣く声が、私の耳へ届いて来た。
 幻聴か?
 私の心臓は脈を打ち、速まって行く。少しずつ大きくなる啜り泣きには、殺した者達の怨念を感じさせるかのようだった。
 殆ど恐怖の塊と化した私は、血に足を滑らせながら勝手口から外へと飛び出した。
 走った。
 足が地に着かず、空回りし、何度も転びそうになった。耳の奥に啜り泣きがこびり着き、私を追って来る。暗闇の恐怖から逃れたい一心で、気が付いた時には車の通る大通りに出ていた。
 生命の温もりを感じれる光りを求め、常夜灯に群がる蛾のように、私はひたすら大通りを歩いていた。そして数時間後、私は夢遊病者のように歩いている所を巡回の警察官に呼び止められたのだ。
 不思議な感情が私を支配した。
 よかった……
 警察官の職務質問の間中、私は生きている人間に話し掛けられているという事で、安らぎを感じていたのだ。
 血だらけの私を見た警察官がただならぬと思うのは至極当然の事で、しかも身なりとは不相応な現金がポケットから出てくれば、何かとんでもない事を仕出かして来たなと素人でも気付く。
 問い詰められた私は、その場で事のあらましを話していた。
 慌ただしい夜だった。私の一生の中で、その一日、いや、数時間の間だけ、何か違う世界を彷徨っていたかのようなひと時……
 だが、その僅か数時間の間に引き起こした出来事は、他のどの歳月よりも、私の中で埋め尽くす事の出来ない大きなものとなってしまった。
 以来、私は安眠というものを忘れてしまった。深い眠りに着けば、あの夜の光景が私を追い掛けて来る。
 阿鼻叫喚の地獄の中で、私の足に縋り付いて助けてと拝む妻女。
 念仏を唱え、私が振るう包丁の恐怖から逃れようとする老夫妻。
 必死で私の凶行から家族を護ろうとし、無念の思いを血の中に沈めた若い主人。
 歳月とともに、彼らはより大きくなって私の夢枕に立つ。
 あの夜、私が幻聴と思った泣き声が、若夫婦の幼子のものだったと知った時、心の底から涙を流した。
 贖罪の涙……もあったかも知れない。
 しかし、それだけでは無い複雑に絡み合った感情が、激涙を呼び起こしたのだ。そして、うなされる夜は、私から何年もの長きに渡り、安息の夜を奪い続けて来た。
 それが、ほんの少しばかり、本当にささやかではあるが、安らぎというものを思い出し始めたのだ。

 千晶は梶谷からの二度目の手紙を何度も読み返していた。
 そこには、彼女が想像していた殺人鬼のイメージは一欠けらも見当たらない。初めて手紙が届いた時に、インターネットで彼の起こした事件を調べた。
 事件のあらましだけを伝える記述は、梶谷を一涙の情けも持たない殺人鬼と思わせる。千晶には、どうしてもそれが信じられなかった。しかし、事実として彼は裁かれ、自らの死を持って償いの日を待つ人間なのである。
 手紙には、己が犯した罪を書いてある。そこには、自分が犯した罪に対して、一片の言い訳も書かれて無い。徒に虚飾の言葉で自らの罪をぼかす事なく、寧ろ淡々と語っている。
 私は、この人にどんな言葉を返して上げればいいの?
 それは、真に正直な千晶の気持ちであった。最初、千晶は直ぐに返事を書こうとした。だが言葉が出て来ない。
 世に、多くの罪人が居る。取るに足らない罪を犯した者であっても、同情のかけらすら湧かない場合もあれば、他人の生命を奪ってしまった者であっても、理解出来る感情が生まれる場合もある。
 だが、それらとは違う己にも説明の付かないものが、今、千晶の心の中で少しずつ広がり始めていた。
 何度も梶谷の字を追って行く。彼の文字を追う毎に、千晶は応える言葉を失って行った。
 
 もう何度その手紙を読み返しただろうか。
 普通の者が読めば、ごく普通に己の犯した罪を吐露した告白文でしかないであろう。
 ある日、番組前に自分のデスクで読むとは無しに梶谷の手紙を広げていた。
「浮かない顔は似合わないぞ」
 大越がデスクに置かれた手紙に一瞥をくれ、
「悪い癖だな」
 と言った。
「どういう意味よ」
 少し苛立ち気味に千晶は言葉を返した。
「ちぃは、他人の心に入り込もうとし過ぎるんだ。で、自分の方が壊れて行く」
「そう見えるの?」
 千晶の返って来た言葉に、大越は意外だなという表情をした。大越の知っている千晶は、こういう場合、必ず反発して来た。
「ねえダイさん、わたしって、そんなふうに見られてるの?」
「そこが良い所でもあるし、欠点でもある。お節介とは違うんだが、ちぃは相手の痛みや感情を判ろうとし過ぎるんだ。人の心の内なんて、そうそう他人が理解出来る程簡単には出来ていないもんさ」
「そうかもね……」
「おいおい、あんまり聞き分けの良すぎる君も、らしくないぜ」
「じゃあどっちが良いのよ。ダイさんこそ、わたしの気持ちにこうやって入って来たのなら、ちゃんと最後迄答えてよ」
「だな。これは俺の方が悪かったかも。じゃあ、平成の無責任男と局内で呼ばれてる俺からのアドバイスだ。深く考えるな。お前は、ラジオのパーソナリティであって、それ以外の何者でも無いんだ。銀座の母になるにはまだ若過ぎる」
 冗談めかした軽い口調で言った大越だったが、千晶の胸には、確かな言葉として受け止められた。
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