第8話

文字数 4,040文字

 新聞やラジオのニュースでは、今年は暖冬だと伝えているが、暖房など入らぬ拘置所の独居房では、余り感じられない。

 どんなに天気が良くても、差し込む太陽の光りは、僅かに窓際から便器迄の距離で、その温もりの享受を受けるのは、便座に座って用を足してる時だけ。
 入浴場の行き帰りに、廊下の寒暖計を覗き見ると、十二、三度前後だ。だから、天気の良い日は、外の方が暖かく感じる。
 運動場から見える梅の木が、今年は例年より早く花を咲かせていたから、確かに暖冬なのだろう。そういえば、昨日届いた彼女からの手紙にも、梅がきれいですよと書かれてあった。
 先月の半ば位から、毎週手紙が届くようになった。楽しみが新たに増えた事は、皮肉にも生きる喜びを感じさせてくれた。その事は、決して私に死への恐怖を助長させず、寧ろ、いつ迎えるか判らぬその日を怯えなくさせてくれた。
 三度の食事を噛み締めるようになり、本の一頁一頁をしっかりと焼き付け、ラジオから流れる音楽や言葉を私は一つ残らず血肉にしようとした。
 日々移り変わる草花の変化に気付くようになり、陽射しの温もりから季節が春に向かっている事を感じる。
 昨日と今日が、まるで同じという事はないんだと知った。代わり映えのしない毎日というのは嘘なのだ。
 今日と違う明日が必ずやって来る。

 この私にも……。
 彼女の手紙からもそれがはっきりと判る。というより、私は彼女からその事を教えて貰ったのだ。日常の中のさりげない変化をいつも書いてくれていた。まるでたわいもない事でも、生きている事をこんなにも実感出来るなんて、そう思えるようになった事を返事の中に認める。
 放送の中で、彼女が私を呼ぶ言い方が変わった。以前は、イニシャルだけだったが、最近は、
『サクラのK・Kさん』
 と呼んでくれる。何となく面映ゆい感じがするが、サクラは私の場所を意味するものだから、さしずめ東京のとか、神奈川のというのと同じだ。手紙の中身は読んでは貰えないが、必ず私へと曲を掛けてくれる。
 私からのリクエストは、余り書かない。彼女が選んでくれるその事だけで充分だった。それに、私は余り曲名を知らないから、選んで貰った方が助かる。さて、今日はどう手紙を書こうか……。

「ちぃ、部長が呼んでるぞ」
 大越に言われ、部長のデスクへ行くと、編成や制作の主立った者がいた。時期が時期だけに、この顔触れが意味するところを千晶も直ぐに感づいた。
「麻宮君は、以前から報道局希望だったね?」
「はい」
「知っての通り、うちはFM局だから、報道といっても、テレビ局やAM局に比べ、そんなに人間を置いていない。局アナには兼務して貰ってるのが現状だし、番組的にも単にニュース原稿を読む程度だ。リスナーのニーズを考えれば、FM局は音楽を四六時中流していればいいというのが、これまでの考え方だった。だが、もうそれはマンネリ化した考えじゃないかといった意見が出ているのも確かだ。それでだが、春の番組改編でだな、うちらしい報道番組を制作する事になったんだ。まあ、報道番組といっても、時間は30分で、時間帯も朝になる。それに、丸っきりニュースばかり流すというのではなく、合間に音楽を流すという構成だ」
「それを私に、という事ですか?」
「ああ」
「判りました。じゃあ、今の番組と兼ねてという事ですね」
「いや、現在君が担当している番組は、新人のアナウンサーに担当して貰う」
 千晶は、一瞬返す言葉を失った。
「後一ヶ月ちょっとかぁ……」
「念願の報道がやれる割には嬉しそうじゃないな」
「報道が出来るのはそりゃ嬉しいわよ。でもねぇ……」
「そうか、俺と離れるのがそんなに寂しいという訳か」
「それは無い、全然、大丈夫」
「何だよ、もう少し名残惜しむとか、寂しくなっちゃうわ、とか嘘でも言えないのかよ」
「正直者で売ってますから。それに、番組変わっても狭い局内なんだから、顔合わすじゃない」
「それがさ、俺も移動なんだ」
「えっ、ダイさんも?」
「そうなんだよ、せっかく行き遅れのアラサーからピチピチの若手に乗り換えられると喜んでたんだけどな」
「ご愁傷様。で、ダイさんは?」
「ミッドナイトタウンの後釜」
「わたしは朝だから、すれ違いだね」
「やっぱり寂しいか?」
「そんなに行き遅れのお局アナに、寂しいって言って欲しいの?」
「ちょっぴり」
「ちょっぴりだけなら言って上げない」
 こんな冗談のやり取りも、春が来れば出来なくなる。そう思うと、大越に言われたように、ちょっぴりだけ寂しい気持ちになって来た。いや、本当はすごく寂しいと思っている千晶だった。
 家に戻ると、小さなサクラの刻印が押された手紙が届いていた。
 いつ見てもきれいな文字。
 何となく今週も届いたかと、妙にホッとする。
 死刑執行のニュースは、去年の秋以来聞かないから、暫くは無いとは思っているが、こうして毎週、手紙のやり取りをしていると、届く曜日が一日か二日ずれただけで新聞記事を確認してしまう。今日の手紙には、暮れに結婚した弟の娘が面会に来た事を事細かに書いてあった。
 読みながら、人と話す事がこんなにも嬉しいものなんだなと、他人の事ながら実感させられた。返信用の便箋を取り出し、最初の一行を書いて、暫く考えた。
 それを破くと、千晶は机の引き出しから別な便箋を取り出した。花の押し絵のある便箋で、季節柄この方がいいかも知れないと思い直したのだ。手紙には、三月末には今の放送が終わる事を書き、残念だという旨を伝えた。
『これからは、文字からわたしの言葉を感じ取って下さい……』
 少し気恥ずかしいな、と感じたが、最後にそう書いて封筒に入れた。

「梶谷、定期便だ」
 書信を届けに来る刑務官がニコリとし、彼女からの手紙をくれた。だいたい、週末の木曜日か金曜日に彼女の手紙は届く。土日の休みの間に、その返事を書くと、先方へは水曜日迄には着く。彼女は、律儀にも受け取ったその日のうちに返事を書いてくれていた。
 その日の手紙には、少し残念な事が書かれてあった。今の番組が、三月いっぱいで終わるらしい。でも、以前からの希望だったニュースの番組を受け持つ事になったらしいから、彼女の為にも喜んで上げなければならない。
 残念な事があっても、それを埋め合わせてくれる事があった。彼女の顔を初めて見たのだ。朝刊の文化欄に、彼女の写真が載っていた。想像通りの雰囲気だった。
 私は、他の記事など飛ばし、そこの記事ばかり何度も読み返した。内容は対談で、音楽や映画、演劇、それに彼女がこれまで読んだ本とかの話だった。
 読んで行くうちに、彼女の人間像が浮かび、書かれてあった言葉が、声となって聞こえて来そうであった。
 彼女が一番感動した映画が『奇跡の人』だと知り、初めて買ったCDが男性アイドルグループの物だと知って、何となく微笑ましくなった。その日書いた手紙に、私はこの記事の事を書いた。

『少しずつ水の冷たさを感じなくなって来たこの頃ですけども、花粉が結構大変な時期ですよね。皆さんは大丈夫でしょうか?サクラのK・Kさんから頂いたお便りに、わたしの対談記事読みましたとありましたが、そうなんです、写真まで載せちゃいましてね、カメラマンの方がきれいに撮って下さったので、お見合い写真にでも使おうかなと、もう手遅れ?ブースの外でディレクターがそんな事言ってますが、無視しましょ。感動した映画で『奇跡の人』とありましたが、どんな映画なんですか?という事で、わたしはDVDで観たんです。これは、ヘレン・ケラーの少女時代を描いた作品で、ヘレンは目も見えない、耳も聞こえない、話せないという障害を持った女の子だったんです。生まれながらの障害を持ってしまったが故に、彼女は心を閉ざしてしまうんですね、そこへ、家庭教師として赴任したアニー・サリバン先生が、彼女に言葉を教えて行くんです。どうやって覚えさせるかと言うと、指で物を触らせ、手話でそれを教えて行くんですけど、なかなかヘレンは覚えようとしないんですね。他人に心を開かないというのもあって覚えようとしなかったの。それでもサリバン先生は根気よく教えて行き、ついには言葉を覚えるんだけど、このシーンでわたしはボロボロ泣いちゃいましたね。実は、わたしが今の仕事を選んだきっかけが、この映画で言葉の力といったものを感じたからなんです。という訳で、最後の曲は映画『奇跡の人』から、サントラ盤でどうぞ……』

 三月ともなると、刑務官達も移動がある。私が居る舎房棟の担当も代わった。もう何人目になるだろうか。
 刑務官もいろいろ居て、昔ながらの厳しい者も居れば、優しい担当も居る。面白いもので、我々に気を配ってくれる担当に限って、余り出世には縁が無いようだ。
 新しい担当は……どうも出世に縁が無いタイプのようである。私達にはありがたい事ではあるが。
 ある日の事、私に教悔師の面会があった。教悔師とは、いろいろな宗派の宗教家の人で、受刑者や私達の相談事に応じてくれるボランティアの方達だ。
 普通は、こちらから面会の希望をするのだが、何故かこの時は、希望もしていないのに、面会があった。面会を告げられた私は、はっ、と気付いた。
 死刑の執行が近くなると、教悔師の面会があると聞いた事があったのだ。勿論、それが本当かどうかなど、刑務官達に聞いても絶対に教えてはくれないから、真実かどうかは定かではない。
 施設内の別室で、面会したが、話の内容は人の一生についてとか、輪廻についてといったもので、要するに宗教的な訓話のような話だった。
 話の最後に、心安らかに平安の気持ちで過ごして下さいと言われた時は、やっぱり近いのか、と思った。不思議とその事で気持ちがどうこうといった事もなく、普通に
 ああ、そうか
 位の感覚にしかならなかった。償いの日は、必ずいつか来るのだから……。
 達観と言える程のものではない。また、諦めでもなく、私は真実そう思っていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み