第7話

文字数 4,409文字

 姪の多恵子から、手紙と差し入れが届いた。
 差出人の苗字を見ると、山本という新しい苗字が書かれてあり、横に少し小さく高梨と括弧されていた。新婚旅行から戻って来てたのを思い出した。
 自分がこんな身では、祝いの電報も送れず、僅かばかりの作業報賞金を弟宛てに送っていたが、手紙にはその事の礼が書かれてあった。
 差し入れは、冬物の防寒ジャンパーとセーター、それに新しい下着を送りましたとあり、手紙の最後に父が入院したと短く書かれていた。そろそろ面会に来てもいい頃なのにと思っていたから、姪の手紙を読んで納得した。
 私は直ぐさま弟の病状を詳しく教えてくれという手紙を書いたが、姪からも弟からもその後、便りは来なかった。
 水曜日の放送では、彼女がピアフの特集が、若い女性歌手の特番に変更になったと告げ、何度も番組の中で謝っていた。そんな事はないだろうと思うのだが、まるで私に謝り続けているようで、聴いていた私の方が何だか申し訳ない気持ちで胸が痛くなった。
 年の瀬が近付くに従い、私はいつも憂鬱になる。ラジオから流れるクリスマスのジングルベルを聴く度に、私の記憶はあの時の事を鮮明に思い出すのだ。
 睡眠薬の世話になる季節が、今年もやって来た……。
 雨が降っていた。冬の冷たい雨が身体の芯まで凍らす。
 雨?
 何故外に居る?
 此処は何処だ?
 寒いという感覚だけが、はっきりと私の五感に突き刺さっている。
 景色はぼやけ、灯りは感じられない。無音の空間が、私を包んでいる。
 突然、雨が止んだ。いや、そうではなかった。
 いつの間にか、私は何処かの室内に居たのだ。
 見覚えのある部屋。
 思い出せない……。
 私の脳が、記憶を封印しようとしている。
 思い出せないのではない……。
 思い出そうとしないのだ……。
 夢……そう、私は夢だと気付いている。
 この続きが何であるかも知っている。
 見たくない……。
 目を醒まさねば……。
 無情にも時は過ぎて行く。夢の中の私が歩いている。台所だ。
 いかん!そこへ入っちゃいかん!
 制御が効かなくなったロボットのように、私の身体は記憶の中にしまわれた動作を繰り返す。
 あの夜と同じ動作を手が、足が、五体全てがなぞり始めた。
 突然、周り全体がオレンジ色に変わった。視覚ではオレンジという色を認識していないのに、脳は私にオレンジ色と言っている。
 目も眩むような明るさの中に、放り込まれたかのようだ。
 ぬるり、右手に生温い感触がした。
 身体が動かない。何かに捕まえられている。
 見てはいけない……。
 判っている、判っているんだ……。
 だが、あの時と同じように五体が動き、五感が感触を甦らす。
 右手が動く。
 何度も。粘土に竹べらを刺す時に似た感触が、手首から腕、そして肩へと伝わり、脳の中で鮮やかな爆発を起こす。
 見てはいけない!
 判ってる、判ってるんだ……。
 腰に纏わり付く塊を見てしまった。
 首が半分取れ掛かっている。
 口だけがまるで池の鯉みたくぱくぱく動いていた。
 吐き出される血。いきなり赤の色だけが視覚いっぱいに広がった。
 赤く閉ざされたカーテン。
 別な塊が手足をばたつかせている。
 赤いカーテンが揺れ動く。
 見るな!見ちゃいけない!
 判ってる、判ってるさ……。
 左手が塊を掴んでいた。
 私の方へ向ける……。
 に、兄さん……。
 達夫?
 た、たす、け、て……。
 や、やめろお!
 私の右手は、あの時と同じ動きをする。
 脳が、その時の記憶だけを開いていた。
 やめるんだ!
 止まらない。粘土に竹べらを刺したような感触だけが、私の全身を支配していた。
 ゴロン……。
 足元に何かが転がって来た。
 見るな、頼む、見ないでくれ!
 判ってる……。
 足に当たった小さな塊を蹴る。
 不規則に転がり、止まった。
 お、おじ、さ、ん……。
 凍り付いたままの私。
 走り出そうとしたが、身体が意思通りに動いてくれない。
 うずくまる私。
 視覚の中に、両手が映る。
 どす黒い血。
 身体中が血で濡れていた。
 生暖かった血が、少しずつ冷たくなり、私の身体から熱を奪って行く……。

 紅白歌合戦が終わり、ラジオから除夜の鐘が流れて来た。一年のうちで、大晦日の夜だけは、深夜の12時迄ラジオ放送が入る。
 出演する歌手達の顔を思い浮かべられる人数が、年々減って来ている。
 今年も終わった。特別に感慨など湧かない。また一年、生かされた。それしか実感出来ないのが正直な気持ちだ。
 深夜の12時丁度にラジオは切られ、静寂の中に放り込まれる。時折聞こえて来る便所の水を流す音が、過敏になっている神経を刺激するだけで、私には安息などやって来てはくれない。
 仕方の無い事なのだ。毎年、この季節は私を暗黒の闇が襲う。眠るよりはまだこうして起きていた方が、その闇から逃れられるが、身体は眠りを求めたがっている。
 医務課で処方して貰った睡眠薬を飲んだりするが、たまに逆効果で余計に酷い悪夢を見る事がある。
 仕方の無い事なのだ。それが報いなのだから。私が安息を得られる日は、きっと、自分の罪を償うその日にじゃないとやって来ないのだろうから。
 
 元旦。
 いつもより一時間遅い起床時間に起き、朝食の雑煮を食べ、食べ切れない程の甘味品を配当され、ささやかながら正月気分を味わう。
 昼前に、一通の年賀状が届いた。てっきり、弟か姪かと思い、差出人を見ると、麻宮千晶とあった。筆で書かれた文字に、彼女の優しさを感じた。余計な言葉は無い。
 お体を大切に……。
 充分だった。彼女には番組宛てで、私も年賀状を出していたが、まさか彼女自身からこうして年賀状が届くなんて思いも寄らなかったから、このところのすぐれない気分が少しだけ和らいだ。
 夕方になっても、弟からの年賀状が届かなかったのが、気掛かりといえば気掛かりだった。暮れに姪からの手紙で入院したとあったが、その後、何の連絡も無い。私から、弟の自宅と姪宛てに二度程手紙を送ったが、その返事すら来ていない。
 心の片隅に、小さな不安を抱えたまま、新しい年は日を重ねて行く。

 電報というものを初めて手にした。それは、三が日が開けた翌日の午後だった。電報の受け取りの為に押印をする間、私の心は不吉な思いで充満していた。
 恐る恐る覗き見る電報の文字。小さくてぼやけて見えたが、間違いなくそこには『…シス』とあった。
 老眼鏡を掛け、もう一度読む。
『タツオ シス』
 たったの五文字なのに、私の心を打ち砕くのに充分過ぎるだけの衝撃があった。

『……という事でありまして、弟達夫は天に召されました。生前、彼に贈って上げる事の出来なかったエディット・ピアフの曲ですが、本来なら先にあの世へ行かなければならない私が代わりに聴き止め、あの世で渡して上げたいと思います。おっと、あの世で私が渡すのは無理でした。考えてみれば、私は地獄で弟は天国でしたから。三途の川の渡し人にでも頼むしかないですね。そういう事ですので、どうかリクエストの程、宜しくお願いします。』
 梶谷からの年賀状から一週間程して送られて来た手紙には、弟の死を悔やむ言葉が書かれていた。
 ブースの向こうで、大越がスタートのキューを送る。
「こんばんは。お正月気分も七草を過ぎると幾分薄らぐものですが、皆様はどんなふうに過ごされましたでしょうか。わたしは、相変わらず仕事でしたよ。それと、皆さんからのお葉書や手紙を整理してまして、これが結構毎年この時期は大変なんですよ。でも、それだけこの放送を楽しみにして下さってるんだなって、すごく勇気付けられてます……』
 何故か千晶は此処で言葉を詰まらせた。マイクに千晶の微かに啜り泣く声が拾われた。モニター室で心配げに見つめるスタッフ達。大越がヘッドフォンで大丈夫か?と聞いて来る。
 BGMのボリュームを上げようとした音声スタッフに、千晶が首を振った。
「ええ、ごめんなさい…ちょっと、頂いたお手紙を思い出しちゃって。新年早々の放送なのに湿っぽいムードになってしまいましたけど…さて、気を取り直して明るい曲を此処で行っちゃいましょ!わたしもこの曲大好きなんだあ…埼玉のペンネーム、みいのママさんから頂きました、イーグルスでテイク イット イージー……』
 マイクのスイッチが切られ、ヘッドフォンに再び大越の声が入った。
(続けられるか?)
「うんゴメン、大丈夫。あぁあ、わたしとした事が大失態だね。こりゃあ新年一発目の始末書もんかな」
 誰の目にも千晶が無理に明るく振る舞っているのが判った。大越は敢えて余計な言葉を掛けないようにした。
 出だしこそ躓いたが、その後はいつもの千晶のペースで番組が進行して行った。何曲目かのリクエスト曲を掛けていた時、モニター室に千晶の声が入った。
(ねえ、最後はエディット・ピアフを用意して)
「曲は何にします?」
(【バラ色の人生】で行こうか)
「了解。用意しときます」
 バラ色の人生か……。
 千晶はそぐわない題名の曲かなとも思ったが、彼女なりに考えて選曲したつもりだった。






『……あっという間に時間になってしまいました。皆さんのお便りを此処で全部紹介出来ないのが残念なんですが、お名前だけでもお読みしますね……』
 放送の始めに何かあったのか、声を詰まらせる所があったけれど、その後は明るい彼女に戻っていた。首から上だけ冷たい空気に曝されて、耳が冷たいが、届く声は温かい。
『……そして最後に東京のK・Kさん、いつも丁寧なお手紙、本当にありがとうございます。では、最後の曲ですが、今夜はエディット・ピアフの曲でお別れしたいと思います。【バラ色の人生】という曲なんですが……K・Kさん、ピアフは、若くして亡くなったフランスのシャンソン歌手なんですけど、彼女の人生は決してこの曲の題名のようにバラ色ではなかったんですね、悲劇の歌手とまで言われてましたけど、だからこそ悲しい歌だけじゃなく人生を謳歌する曲とかも、より切々と歌えたのかなあって思うんです。辛い事ばかりだからこそ、ほんの少し、僅かな喜びも幸せに思える事があるんじゃないかなと……それで、この曲を選びました。わたしから、弟さんと、そしてK・Kさんへ。
 エディット・ピアフの【バラ色の人生】……』

 さめざめ……
 学の無い私は、その言葉を知ってはいても、それがどういう意味かまでは知らない。けれどその夜、私はまさしくさめざめと泣いたのである。
 抑えても抑えても、布団の襟布を濡らす涙は止まらず、知らず知らずのうちに布団の端を噛んでいた。両手はパジャマのズボンをきつく握り、爪は太股に食い込んだ。
 ありがとう……。
 本当にありがとう……。
 浮かんだ言葉は、その一言だけだった。様々な思いが込められたありがとうを、私は今更ながらに口にしたのだ。
 時折窓ガラスを叩く一月の夜風が、まるで弟の嗚咽のように聞こえた夜だった。
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