第3話

文字数 2,373文字

 今年の夏は、やけに早く通り過ぎたような気がした。比較的、雨の多い梅雨だったせいもあり、そう感じたのかも知れない。しかし、それだけではない事も確かだ。
 自分の手紙をラジオで読まれたあの日から、私は毎日ある事を期待し、心待ちにしていた。その期待は、自分の中ではほんの数%程度でしかないものなのだが、僅かでも何かに期待を寄せるという事が、これ程胸を踊らせ、明日という日を待ち焦がれるものだと今更ながらに知った私であった。
 それは、書いた手紙が、今一度番組の中で紹介されるか、読まれなくともリクエスト曲を流して貰えるだろうかという期待であった。
社会から隔絶した世界に身を置く私の唯一の繋がりは、弟の達夫だけだった。
 弟という、細いたった一本のロープしかなかった社会との繋がりに、新たなロープが目の前に下りて来たのだ。
 放送のある水曜日をこれ迄以上に心待ちする私。二度目の手紙を投函してから、彼女の声を四回耳にした。ラジオからは、あの日私を呼び掛けたK・Kのイニシャルは、まだ流れていない。
 彼女の番組は、一回の放送でそう多くの手紙は紹介しない。他の番組ならば中身は読まれなくとも、ペンネームやイニシャルだけでも寄せられたリスナーの便りを紹介するが、彼女は一人一人に向き合うように紹介して行く。
 仕方ないさ、毎日何百通と来るんだろうから……
 少しずつ諦めの気持ちが出始めた頃、再びラジオからK・Kさんと呼び掛ける声が流れて来た。
『少し前に頂いたお便りからのリクエスト曲です。わたしもこの曲、好きですよ。きっと、K・Kさんには、いっぱい想い出が詰まってらっしゃるのでしょうね。では、今夜最後の曲になります。K・Kさんからのリクエストで……』
 あの日と同じように、それは唐突にやって来た。
 もう番組では読まれる事など無いであろうと思い諦め掛けていた私に、彼女は再びロープを下ろしてくれたのだ。自分のイニシャルを呼ばれた事が余りにも嬉しくて、私は不覚にも自分がリクエストした曲をまともに聴いていなかった。
 今度はちゃんと聴かなくちゃ……
 もう一度手紙を書こう。
 布団の中で、私は初めて手紙を読まれた夜と同じように、お礼の文面を考える楽しさで心を踊らせていた。
「梶谷、面会だ」
 毎月一回、達夫は律儀に私の所へ顔を見せに来てくれる。以前は十分にも満たない面会時間の短さに慣れず、お互い肝心な用件を伝えず終いという事が多々あった。今ではさすがに慣れたものだ。
 面会室に入ると、透明のアクリル板で仕切られた先に、弟は座っていた。軽く互いに笑みを交わし、早速用件を話し出す。
「少し時期が早いかと思ったけど、秋物の服を持って来た」
「ああ、いつも済まん。帰る時、売店で便箋と封筒を買ってくれないか。出来れば、便箋は三冊位あると助かる」
「判った。洗濯物と夏物は宅下げに出してある?」
「ああ、そろそろ来る頃だと思っていたから、窓口で受け取れるように手続きしておいた」
 この程度の事務的な会話だけで、面会時間は殆ど失くなってしまう。立ち会いの刑務官に、まだ大丈夫か?と確認した。
「少し、老けたか?」
「兄さん、先月も同じ事聞いたよ……」
「そうか?そうだったかな……」
 いざ普通に喋ろうとしても、なかなか言葉が出て来ない。話す事が無いからではなく、余りにも有り過ぎるからなのだ。
「そろそろ時間だ」
 面会時間の終わりを告げる刑務官の声。結局、今日も何も話せなかった。
 面会室から舎房に戻る間、私はつい数分前に見た弟の顔を思い返していた。
 お前、本当に老けたな……
 定年退職して既に四年。
 私と二つ違いでしかないから、弟が老けて見えたという事は、私自身が老いたという事になる。
 弟には散々迷惑を掛けて来た。行き当たりばったりな生き方をして来た私と違い、弟の達夫は常日頃からきちんとしていた。若いうちに両親を続けて亡くしたが、その時も弟が全部面倒な事をやってくれた。当然、私のような出来損ないは親戚中から相手にされず、唯一弟だけが困った時には助けてくれた。
 そして、今もまだ彼に迷惑を掛け続けている。私が強盗殺人事件を起こした事で、弟を取り巻く環境も大きく変わってしまった。
 丁度就職活動をしていた弟の息子は、殺人鬼の甥という看板を背負わされ、希望の就職先には就けなかった。
 娘に至っては、将来の結婚とかを考え仕方なく親戚へ養女に出したらしい。
 達夫自身も勤め先を何度か変える事を余儀なくされたし、私の為に多くの人間の運命が変わってしまったのだ。
 私が逮捕されて暫くしてから面会に来た弟は、私以上に憔悴し切った表情を見せ、
「何で、何で兄さんは……」
 と、一言だけ言って泣き続けていた。
 仕事を失い、家族にも見放されていた私の唯一の救い主だった弟も、当時は出張や単身赴任が多く、なかなか直接連絡を取る事が出来なかった。
「俺がいなくても、困ったことがあったら女房にいつでも言ってくれればいいよ」
 弟はそう言ってはくれていたが、実際に金の無心に行っても、弟の嫁に体よく断られる事が殆どだった。弟からは、その事を心の底から悔やんでいるような節が窺える。
 あの時、ちゃんと救いの手を差し延べていたら、もっと真剣に兄さんの事を……
 何度か手紙にそういう言葉が書かれてあった。
 お前のせいな訳ないじゃないか……
 そう返事に認めながらも、本心からそう思えるようになったのは、最近になってからの事だ。
 夕方、弟が差し入れしてくれた秋物の衣類が届いた。ラジオから古い曲が何曲も流れていた。英語だかフランス語だか判らない歌詞だったが、歌手の名前だけは知っていた。
 薄手のクリーム色のセーターを手にしながら、そういえば、あいつ、エディット・ピアフのレコードを持っていたよな……。
 と、曲を聴きながら思い出していた。
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