第7話

文字数 1,662文字

一九九五年十二月ニ十二日、 金曜日。
 原色に着飾られた街には浮かれ顔の人達が溢れ、陽気な音楽と人混みの雑踏が狂騒のメロディーを奏でていた。
私は群衆の海流から逃れ酒場の扉を開くと、社会から取り残されたタイムトラベラーになってしまったような錯覚に陥った。
そこには慌ただしい空気はなく、いつもと変わらぬペースで時間が流れていた。
 私はスツールに腰掛け、ピンクジンをバーテンダーに注文した。

その男は何時からそこに立っていたのだろう。
ビリー・ホリデーの『ホェン・ユーア・スマイリング』が店内に流れ出した時、その男は私に声をかけてきた。
「失礼します。貴方ですか、私をお捜しの方は」
 私は振り返って一瞬、自分の目を疑った。そこには三十才に歳を取り、少し太くなった沢村昭文が立っていた。
言葉を失った私に、その男が切り出した。
「始めまして、私が沢村文昭です」
「文昭、、、」
 私は漠然と、その男の差し出した名刺に目をやった。そこには『東京大学精神学部助教授 沢村文昭』とあった。
「昭文じゃないんですか」
 私が呟くように言うと、その男は遠くを見つめる眼で言った。
「昭文は私の双子の兄でした。七年前の事故で亡くなりましたが」
 思えば十三年の歳月がたったにしても、あきふみにしては妙に礼儀正しい。身なりも言葉づかいも、私の知る沢村昭文とはかけ離れたものだ。
 文昭と名乗るその男は、私の隣のスツールに腰掛けるとバーテンダーにフォアローゼスのストレートを注文した。どうやら酒の趣味も昭文とは違うようだ。
「昭文とお知り合いでしたか」
 その男は正面の酒棚に飾られたボトルに目をやったまま、私に話しかけてきた。
「いいえ、知り合いっていう程でも。高校時代に少しサーフィンに行った事があるぐらいで」
「サーフィンですか。昭文と私は小さい時から趣味も考え方も違ってました。昭文は学校も途中で止める事になってしまって」
「そうでしたか。あまり、自分のことは話さなかったから、、、。話題といえば風と波の事ばかりでしたから。しかし、双子のご兄弟がいらしたとは。葬儀の時に御両親にはお目にかかったんですが」
「事故の時、私はロンドンでした。葬儀には遅れてしまって」
 文昭と名乗る男は無表情のまま話し続けた。
私はピンクジンを一気にあおると、その男に尋ねた。
「お兄さんは十四年前にもバイクで事故を起こしたんですって」
「いいえ。あの事故は私です。昭文と私の唯一の共通の趣味がツーリングでした。あの日も私と昭文と忍ちゃんとで箱根に行く途中でした」
「しかし、警察の記録では、昭文が、、、」
「かばってくれたんですよ。当時、留学の決まっていた私を昭文が。今では後悔していますが。警察には、まだ言っていません」
「そうでしたか。それで、その忍さんとかいう女の子は、、、」
「幼なじみです。中学の頃くらいからは昭文とつき合っていたようですが。たぶん、私を恨んでいるでしょう」
「大変失礼ですけど、その時の事故の原因は、、、」
「よそ見運転です。馬鹿な話なんですけど忍ちゃんとウォークマンのカセットの取り合いをして」
「七年前の事故の原因は解りますか」
「さあ。とにかく昭文は死んだ。毎年のように事故現場の忍ちゃんへクチナシの花と彼女の好きだった曲を聞かせに行く途中でね」
「もしかしたら、その曲っていうのが事故の時、貴方と取り合いになったテープの曲、、、」
「覚えていません。私とは趣味が違っていましたから」
その男はそれっきり口を開くことなく、煙草に火を付けた。
 店のバック・ミュージックが『オール・オブ・ミー』に変わった時、その男の能面のような表情が崩れ目を伏せた。
 しばらくして、男の手に持った煙草の灰が落ちた時、男が涙を流したように私には見えた。
そして私は、その晩から狐につままれたような心に穴の開いたような、そんな気分のまま、寝つかれない夜をしばらく過ごさなければならなかった。
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