第6話

文字数 1,976文字

一九九五年九月十一日、 月曜日。
酒場を訪れるなら、やはり口開けがいい。
 陽の沈みかけたトワイライトタイム。灯の点ったばかりの店先の看板。
重そうな木の扉を開くと、一九三十年代のビリー・ホリデーが『サマー・タイム』を熱唱していた。
 騒音と狂騒の国から逃れてきた私は、外界の流れに置き去りにされて、一瞬、時計が止まってしまったような錯覚に陥った。
私が目の前のずしりと構えた一枚板のカウンターに近寄ると、バーテンダーが一人やって来た。
 夜の始まりを告げる一杯目の酒。私はバーテンダーにギムレットを注文した。
 軽やかなシェークの音が響きわたり、目の前のアンティクな薄手のカクテルグラスに注がれた液体。
 大きく一口すすぎ込んだ私に心地よい酔いが訪れたのは、時計の針が動きだしたのと同じ頃だっただろうか。
 できる事なら、このまま世間と縁を切って、なすことなく時を売って、きどっていたいと私は思った。
丁度、アーティー・ショーのソロからビリー・ホリデーのボーカルに変わった頃、二杯目のギムレットを注文しようとした。
 その時だった、扉の内側に男が独り立っているのに気付いたのは。顔は若々しいが白髪のその男は店内の左右に目をやると、ゆっくりとカウンターに歩み寄った。
 白髪の男の注文もギムレットだった。しかし、男のギムレットと私のギムレットは明らかに違う物だった。
 バーテンダーが私に造った処方はゴードン・ドライ・ジン、フレッシュ・ライム、それに無色に近い瓶詰めのライムジュースを少々入れてシェークした物だった。
 白く濁った混合酒からは無数の泡がはじけ、私の喉を鳴らした。
 しかし、白髪の男に出されたギムレットはプリマスジン、それにローズ社のライムジュース、それだけを使った物だった。それは薄い緑色に輝く、透明感のある鋭い刃物のような飲み物だった。
男はカクテルグラスを持ち上げ、私に向かって言った。
「これが本当のギムレットさ。これ以外は飲めないね」
「確かに美しい。しかし、私はさっぱりとして口当たりのいい、こいつが好みなんです」
「そうだな。うちの猫にも好き嫌いはあるものな。人間の味覚が画一的だとしたら、食べ物も酒も文化として発達しなかっただろう。そういえば俺の友人も時々、ギムレットにビターなんかを入れて飲っていたっけ」
「難しい事は関係なく、ただ旨いかどうかですよ」
「貴方は酒呑みだね、酒呑みっていうのは飲んだ量や数で決まるんじゃないからね」
「ただ酔う為に飲んでるんじゃないって事ですか」
 白髪の男は、しばらく答えなかったが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「貴方、旨い酒に出会った時の喜びを知っているかい」
「はい。でも私は、そればかりのマニアにはなりたくないです。酒の切れた生活も考えたくないですけど、取りあえず旨い酒があれば天国ですね」
「旨い酒を飲むには、それなりの場面っていうものがあるんだ。できる事なら酒はいつも美味しく飲ることだ。あれこれ悩んだり、考えたりしている時は飲らない方がいい」
「だけど、嬉しい時の酒もあれば、哀しい時に涙する酒もありますよ」
「そう、俺もそうだった。そして、今夜も本当は、そのはずだった」
 白髪の男はそれっきり、口を開かなかった。
帰り際に白髪の男は、余分な勘定と伝言を頼んで出ていった。
「もし、この店にフィルと名乗る男がギムレットを飲りに来たら、俺からだと一杯出してくれ。俺は今では両頬の傷も消して、名前も顔も昔に戻した。ただ、過ぎた時間は戻すことが出来なかった。心残りは、もう一度、二人でギムレットを()りたかった事だ」
再会に失敗した男は、それ以来二度と、この酒場を訪れる事はなかった。
 そして、私は二度と会うことのない友人の影を追って、来るはずのない酒場でグラスを重ねていた。
私が三杯目のギムレットを注文しようとした時、バーテンダーから私に話しかけてきた。
「夕べ、お客さんを訪ねて、男性の方がお見えになりましたよ」
「え、誰だい。身に覚えがないな」
「さあ、この間お客さんが話していた方じゃないですか。確か、沢村さんとか、おっしゃってましたよ」
「そんな馬鹿な」
私は笑って見せたが、バーテンダーの真面目な顔を直視できず、目の焦点を失った。

昨日、九月十日は沢村昭文の命日だった。
 私は七年前の事故現場に行ってきた。そして、同じ日の十四年前、一九八一年の九月十日にも、昭文はバイクで事故を起こしていた事を知った。バイクはノーブレーキのまま中央分離帯に衝突して、後部座席に乗っていた同級生の女の子が亡くなるという大事故だったらしい。
私は醒めた酔いを呼び戻そうと一気にギムレットをあおるとスツールを立った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み