第5話

文字数 2,720文字

一九九五年七月十七日、 月曜日。
小雨の降る深夜。寝つかれない夜だった。
 看板の消えかかった酒場を訪れた。
 その晩、この酒場では三回目の『奇妙な果実』を悲壮感いっぱいに、ビリー・ホリデーが熱唱していた。
 強姦、売春、感化院、ドラック、、、。暗いイメージとは裏腹に、彼女の愛称はブルースを歌うレディー『レディ・ディ』。
軽やかなシェークの音が静かな店内に響き渡った。目の前のアンティクな薄手のカクテルグラスに注がれたのは、ホワイトレディだった。
 黒人歌手ビリー・ホリデーへの嫌みではない。むしろ、尊敬の意味を持っての注文だった。彼女のトレードマークは白いクチナシの花だったという。
カクテルグラスの中のホワイトレディが三分の一程になった頃、バックミュージックが、たぶん、アルバム『レディ・ディ』からだろう『ビリーズ・ブルース』に変わった。
 その時、酒場の扉が開き、二人の男が入ってきた。
 一人は三十八才前後の身長は六ヒィート少し、体重は百九十ポンド前後、頭髪は濃褐色、一見、屈強には見えない男だった。もう一人の男、かれは年をとっていた。この男に関するかぎり、何もかも古かった。ただ、目だけがちがう。それは海とおなじ色をたたえ、不屈な生気をみなぎらせていた。
二人は何を語るでもなく、カウンターのスツールに腰掛けると、若い男はオールド・オーバー・ホールドを、老人はモヒートを注文した。
二人は声にする事なく語り合い、店内は沈黙を保っていた。
初めて訪れる酒場の扉を開く時の緊張感、そこのバーテンダーと客のぎこちない関係とよく似ていた。
 なかには一見のお客を寄せつけない店もあるがどうなのか。初めは、みんな一見のお客なのだから。
しばらくの時間が流れ、若い男が沈黙を破った。
「やっぱり、手にしっくりくるグラスには、多少の重みのある奴がいい」
 老人は鼻で笑うと言った。
「お前さん、そんな事より、酔って風呂に入るのは、もうやめろ。ましてや、あんな大騒ぎな事件までおこして」
「私は虚栄と幻想に生きる貴方と違い正直なんですよ。それにしても、何故、今夜もグラスを重ねるのか」
 若い男は空のグラスを眺めながら語った。若い男がダブルのギムレットを注文した時、老人は既にダブルのフローズンダイキリを相手にしていた。
 そして、とぎれとぎれの会話が流れた。
「元来、酒って奴は各家庭で造り、炊事のごとく、生活文化の中にあった。そして、特別のハレの日にしか飲めず、酔うという行為自体が神秘的だった」
 老人がお代わりを頼みながら言うと、若い男は苦笑いをしながら語った。
「しかし、貴方の酒は、ただの逃避だ。逃避目的なら、ドラックにかなう物はないだろう。ドラック解禁の日に酒は、この世から消えるのかい」
「いや、そんな事はない。ドラックは悪魔との契約による逃避に過ぎない。しかし、酒は人類創世以前から存在した天からの贈り物なんだ。ただ酔う為の道具じゃないんだ」
「人の生活に密接し、それぞれに歴史とドラマを持った文化、それが酒なんだね」
「あぁ、だが無論、育て方、使い方を間違えば道を踏みはずすこともある」
「あなたが、その一例かい」
 老人は黙ってグラスをあおった。
想えば、ドラックに溺れたビリー・ホリデーは、酒を味わった事さえ、いや、食事を味わった事さえ、また、本気で笑った事さえ無かったのでは、、、。
 彼女にとって歌さえ、人生の逃避だったのかもしれない。
若い男がキャメルの紫煙を吐きながら続けた。
「アルコール中毒、この言葉からアルコールにも一酸化炭素や水銀のように毒性があると勘違いしやすいがそうじゃない。急性アルコール中毒は別として、依存症ってやつは、自分の心の中からやって来るんだ」
「気分を落ち着かせ、勇気を奮い起こさせる。眠れない夜にはベットへ運んでくれる。呑まずにはいられない」
「その通り。酒が百薬の長といわれるのは酒が他の薬に比べて、毒性の少なくて済むところにあるからだ」
「酒を呑んでいる時間に比べて、酒の切れた時間の長いこと」
「そうなったら危険だ、三日ぐらいで禁断症状が出る。依存症の奴は毎日の呑む。一度に飲む量や強い弱いは全く関係ない。世間の重圧に負けて酒に溺れる奴が中毒になるんだ」
「そうかもな。酒で得る眠りは浅く、心地よい物ではないように、酒は何も解決してくれなかった」
「酒って奴は味あう物さ、本当の酒呑みは、酒を理解し、こよなく愛する。少量にして酔い、生活のアクセントとして一時の休息を得る物なんだ」
「お前さんが、そんな上品な酒呑みとは知らなかった」
 老人の言葉に若い男が返して言った。
「貴方こそ、酒呑みの先輩として若い者の見本であってほしいですね」
 すると老人は遠くを見るような目つきでつぶやいた。
「そういえば、あの青年、昭文とかいう青年はどうしたかね。今でも無茶な呑み方をしているのかな」
私は思わず耳を疑った。またしても昭文の名前を見知らぬ客の口から耳にした。どうやら、昭文は七年前の事故を起こす前まで、この酒場では常連の客だったらしい。
私はしばらく二人の会話に耳をすました。
「しかし、何でまた、若いのに、あんな無茶な呑み方をするのかね」
 老人が呆れたように言うと、若い男が続けた。
「何でも、高校時代にバイクで事故を起こして、女の子一人死なせたらしいですよ」
「ほう、ひいたのかい」
「いや、後ろに乗せていたらしいんですが。どうやら、その事故の責任を一緒にいたツーリング仲間の同級生が身代わりになったとか聞きましたよ」
「本当かい」
「いや、良く覚えてませんが噂ですよ、噂」
 若い男と老人は、それっきり口を開くことは無かった。
思えば、私は、昭文のことは何一つ知らなかった。私と知りあう前、バイクのツーリング仲間のいた事、そして事故を起こした事、家族の事、ジンが好きだった事……。
私はホワイト・レディを一気にあおるとグラスを置いた。
そういえば、私の飲み干したホワイト・レディは、一九二十年代の欧州で完成したという事らしい。その頃の米国といえば禁酒法のもと、黒人差別の残る中、ブルースが流れ、ルイ・アームストロングはジャズを奏でていた。そして、僅か十才のビリー・ホリデーは四十歳過ぎの男に強姦された。
バックミュージックの『ビリーズ・ブルース』は、禁酒法が解けて三年が過ぎた一九三六年の収録の物だという。
 僅か二十一才の黒人女性の唱声が、飲み干したカクテルグラスの上をゆっくりと流れ、私を酔わせた。
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