第3話

文字数 3,976文字

一九九五年三月二十六日、 日曜日。
その日は春だというのに、いやに底冷えのする日だった。
 私は家路を急ぐ人達の雑踏の中の一人だった。
 いつもの信号で捕まり、空を仰ぎ見ると目に水滴が入ってきた。アスファルトに黒いしみが幾つも出来た頃、信号が変わった。
私は足早に駆けていく人々の都会の時計よりワンテンポ遅れて歩きだし、途中、取り壊し中の雑居ビルの一角で一息つき、マルボロに火をつけた。
マッチの火の向こうに古ぼけた酒場の看板が見えたのは、その時だった。
マルボロの紫煙と大通りに煙る雨の向こうに、その酒場の扉があった。
 以前にもあったような街の風景とセピア色をした酒場の扉。
 私は吸い込まれるようにして扉を開いた。
 静かな店内には微かにビリー・ホリデーの『月夜の小舟』が流れていた。
目の前のカウンターに近づくとバーテンダーが現れて、私にスポーツタオルを差し出した。
 バーテンダーの表情は、そのスポーツタオルと同じような乾いたものだった。
 私がカウンターに肘を突くと、そのバーテンダーが近寄ってきた。
私がジンのストレートを注文するとバーテンダーは冷凍庫から霜のついたゴードン・ドライ・ジンの瓶を取り出し、キリッと凍りついたショットグラスに、なみなみと注いだ。
ビリー・ホリデーの唱声からレスター・ヤングのソロに変わった頃、私は二杯目のゴードン・ドライ・ジンを相手にし、バーテンダーにチェイサーを頼んだ。
 ちょうどその時、店の扉が開き、外の雨音と共に二人の男性客が入ってきた。一人は口ひげをたくわえているが、こざっぱりした髪の中肉中背の男。もう一人はグローブのような手と岩のような背中の大男である。
二人はカウンターに近づき、スツールに腰掛けると、まず、口ひげの男が胸のポケットから煙草を一本取り出し、ジッポのライターで火をつけた。
 ジッポのオイルの匂いとラークの甘い香りが店内に広がった。すると、岩のような大男はカウンターに無造作にキャメルの箱を投げ出し、煙草を一本くわえ、慣れた手つきでカウンターを使い、棒マッチで火をつけた。
 そして、キャメルの男が最初に口を開いた。
「ブランデーをくれ。コニャックだ。グランドシャンパーニュ物。ジャンフィーユのセプドールでいい」
 すると、カウンターの端を止まり木にしたラークの愛煙家が言った。
「僕はサイドカーを」
サイドカー。私がサイドカーに出会ったのは、いつだっただろう。あの頃の私の知っていたカクテルの名は今、知る星座の名の数より少なかった。
 街にティーンエイジャーが溢れ、ファーストフードの乱立する以前、この街は割烹や料亭の街だったという。日本料理ばかりでなく、古くからやっていた西洋酒場も賑わっていたという話だ。その頃の名残を残す酒場の店先も段々数が減り、原色の街に変わりかけた、そんな街で私はサイドカーを知った。
「サイドカーか。いいね、シェークの基本的で最高のカクテルだ。お前さん、ミカドっていうのは知っているかい。テネシーワルツは。ジン&シンはどうだ」
 キャメルの男がジャンフィーユを一気にあおると言った。ラークの男は静かにカクテルグラスをカウンターに置くと返した。
「さあ、飲んだ事はないな。カクテルブックを開けば作り方は解るだろう」
「俺は味を知っている。色もだ。そういえば、この前、飲んだメイドンフラッシュっていう奴も良かったな。お前さんは、どれだけのカクテルを知っているんだい」
「さぁね、今朝、食べた朝食のメニューも覚えていないのに、そんな事、考えたことないな。それより今は夕べ飲んだ酒代の支払いの事で頭が痛いよ。しかし、あんたは変わらないな」
「何がだい」
「人間が肉眼で見える星の数が千。通常、世界で使われているカクテルが五千と言われているそうだ。新旧交替して消えていったカクテル、新しいカクテルも含めると無限の数だ。星の数以上のカクテルたち。知らない物の方が多いさ」
「俺は探究心が旺盛なんだ。お前さんが百のカクテルを知っているとしたら、俺は二百以上、三百近いかな」
「それは凄いな。ベテランのプロ・バーテンダー並だ」
「実は転職も考えているんだ」
「それは勧めないな。カクテルの処方なんてものは解らなければ、カクテルブックを見ればいい。それをうまく造るコツを心得ているのがプロなのさ。しかも、バーテンダーの仕事は時には、酔っ払いの相手もしなくちゃいけない。あんたは客に飲ますより、自分で呑んでいる方が良さそうだ。僕は、このまま無責任な客でいいよ」
二人の会話を聞いているのかどうか、バーテンダーは苦笑いとも何ともつかぬ笑みを浮かべながら、黙々とグラスを磨いていた。
ラークの男は、いつの間にかバーボンを相手にしていた。そして、ソーダ水のチェイサーを頼んだ後、キャメルの男に向かって話を続けた。
「自分の知っているカクテルの数を自慢するのは、昔、あんたが酒の味なんて関係なく、呑んだ量を自慢していたのと、変わらない事さ。スノップ気分になり、超ドライのマティー二を通のふりして飲むのと、よく似ているよ」
「なるほどな。しかし、美味しい物を追求し、出会った時の嬉しさが好きなんだ」
キャメルの男も、いつの間にかバーボンを相手にしていた。そして、肉屋の店先にぶら下がっている腸詰めのソーセージのような人差し指を一本かざして、ショットグラスをバーテンダーに差し出した。バーテンダーは黙ってメーカーズ・マークを注ぎ入れた。
 そこにはバーテンダーと客の間に、ゆっくりと時間が流れ、無言の呼吸の会話があった。
ラークの男のジッポの音が静かな店内で響き、甘い香りと紫煙が流れた。
「いい酒、うまい酒っていう奴は、いい飲み方っていう事さ。例えば、議論は酒の味を台無しにするし、独りで()る酒に味わいがあるのは、そういう事さ」
「ああ、それに、しょせん嗜好品だからな。煙草と一緒で飲み慣れたのに落ち着くんだ。俺も女は一人いりゃ十分だしな」
 キャメルの男が空のグラスをカウンターに置いた。ラークの男はキャメルの男に聞いた。
「あんた、バーボンは何がいい」
「俺は普段からジム・ビームに決めているよ」
「一杯、ご馳走しようか」
「いや、酒場で奴は飲らないのさ。俺のオフィスのデスクには、いつも奴がキープしてあるからな。さしずめ、俺の悪友はジム・ビームだな。それに最後の酒はオールド・ファションドと決めているんだ」
「誰にでも大切にしている一杯っていう奴はあるものさ。特に一日の最後の一杯はね。僕は最後にはブッカーズを飲るのさ。こいつには、いくら身銭を切っても満足がいくからね」
二人は黙ってグラスを傾けた。
私の方といえば、最後の一杯のつもりで注文したゴードン・ドライ・ジンが喉を通り、胃から体にしみわたった頃に、丁度良い酔いが訪れ、私の決心を鈍らせていた。このカウンターを離れて、アパートの冷たいベットまで辿り着くには、もう一杯のジンが私には必要だった。
私が五杯目の空のショットグラスと勘定を置き、スツールを立とうとした時、キャメルの男が懐かしむような溜め息をつき、言った。
「あれからもう、七年か。もしかしたら、自殺だったのかもな」
 ラークの男が目を伏せて言った。
「昭文のことか。もう忘れろ。今ではどうでもいい事だ」
「でも、俺たちが忘れてしまったら、沢村昭文が、この世に生きていたっていう証がなくなってしまう」
「事件はもう、とっくに終わったことだ。いや、事件なんてなかった。もしかしたら、本当に沢村昭文なんて男もいなかったのかもしれない」
 二人は、それっきり、黙ったまま席を立ち、店を出ていった。私は思わず二人のことをバーテンダーに尋ねずにはいられなかった。
「あの二人は、、、」
「さぁ、時々いらっしゃるんですが、お知り合いですか。何でも刑事さんらしいですが」
「いや、ただ、何となく、、、」
私の記憶を蘇らせたのは昭文という名前だった。沢村昭文のことは名前と車の趣味以外何も知らなかったが、、、。

一九八二年の春。湘南の波間で十七才の私は昭文と出会った。
 翌年の十八才の春には昭文のCRXー7で湾岸道路から京葉道路に抜け、九十九里の片貝へと波を追い求めていた。
あれから十三年の歳月のたった今、私は三十才になり、ヨットパーカーやイタカジを脱ぎ、トラッドを決め、毎日の生活に追われていた。
 しかし、昭文は一九八八年九月十日から、二十四才のまま歳をとる事はなかった。
 昭文の死を知ったのは翌日の九月十一日の朝刊からだった。
定職にもつかず、地元の名士といわれていた父親を冷ややかな目で見つめ、目的を見失っていた昭文は、当時、すでにセカンドカーとなっていたCRXー7に古いサーフボードとウェットスーツを乗せたまま、東名高速の厚木インターを少し過ぎた所の薄暗い直線でノーブレーキのまま中央分離帯に衝突した。
 その年の一年前の一九八七年に二十三才の若さでA級ライセンスを取った昭文らしからぬ事故に不信を抱いた警察は昭文の体を切り開いた。しかし、薬物反応はおろか、アルコールを飲んだ形跡もなく、すんなり、居眠りによる事故とかたずけられた。
 だが、私には事故当時、ボーズのスピーカーに飾られた昭文のCRXー7には不釣り合いの古いラジカセとクチナシの花束がCRXー7から発見されたことが、しばらく頭から離れなかった。
私は追加でもう一杯のゴードン・ドライ・ジンをあおるとスツールを立った。
 酒場を出ると、いつの間にか雨は上がり、西の空に青い月が一つ浮かんでいた。
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