第9話

文字数 1,270文字

一九九六年三月十五日、 金曜日。
連日の二日酔いで重い心と体を引きずって酒場にたどり着いた。
しばらく、耳にする事のなかった昭文の名を耳にしたのは、私の赤い目に生気が蘇ってきた頃だった。
「君かい。沢村昭文の友人というのは」
その声の主はいつか、この酒場で会った口ひげの刑事だった。
「実は僕も彼とは、ちょっとした知り合いでね。今でも、あの事故が信じられないんだよ」
 口ひげの刑事は私の都合に御構なく、隣のスツールに腰掛けると一人でしゃべり続けた。
「昭文はジンが好きでね。よく、この店でビリー・ホリデーなんか聞きながら飲っていたっけ」
 その時、ゆっくりと店内に流れ出したビリー・ホリデーの『オール・オブ・ミー』に口ひげの刑事は聞きいっていた。
口ひげの刑事はジッポのライターでラークに火を付けると、溜め息をつくように紫煙を吐きながら私に向かって言った。
「昭文は、この曲が一番のお気にいりでね」
「この曲は弟の文昭さんのお気にいりでしょう。ちょっと前に、ここでお会いした時、しみじみと聞きいっていましたよ」
 私が刑事に向かって言うと不審そうに聞き返してきた。
「弟、、、。弟って、沢村文昭のことかい」
「ええ、去年の暮れに、ここで会って」
「馬鹿言っちゃいけないよ。沢村文昭は、とうの昔に。十四年前のバイクの事故で死んじまってるんだから」
「そんな馬鹿な。第一、神奈川県警の記録じゃ、その事故は昭文の起こした事になっているんでしょう」
「あんた、記録を最後までちゃんと見たのかい。その事故で死んだのは昭文の後ろに乗っていた忍っていう女の子と、その後方を走っていて巻き添えをくった弟の文昭、この二人だ」
「だって、じゃあ、私が会った男は一体。そうだ、名刺も持っている」
 私は沢村文昭の名刺を刑事に差し出した。
「ちょっと、拝見。精神学部。こんなのあったかな。こいつは、しばらく借りとくよ」
「私が会ったあの男は誰かのいたずらか、それとも、幻だったのか」
「もしくは沢村昭文だったか」
「だって、昭文は、、、」
「そう。だとすると、疑問は七年前に死んだのは誰かという事だ」
「えっ」
「何しろ七年前の事故の時、多額の保険金が忍っていう女の子の遺族に支払われて話題になったんだ。しかも、昭文の身元を証明したのは免許証と車だけだったんだから」
 私は、しばらく状況をつかめず呆然としていた。
「じゃあ、僕はこれで失礼します。また、近いうちに連絡しますから」
 刑事はいそいそと店を出ていった。
私はゴードン・ドライ・ジンを一気にあおり、冷静さを取り戻そうとしていた。
私が去年会った男は幻なのか、それとも昭文なのか、文昭なのか、、、。
 もしかしたら、私の知る十三年前の沢村昭文も本当に実在した男なのか。
だが、どちらにしろ、どちらかが自分と死んだ兄弟の二役を演じているのだとしたら、やはり、その男は幻みたいなものだ。
いずれにしろ、十七才の時に知り会った沢村昭文という男は、もう居ないんだから。
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