第10話

文字数 1,797文字

エピローグ

一九九六年三月十八日、 月曜日。
リキュールグラスに注がれたアブサンが白濁したような、そんな空だった。
その日は、すでに暦のうえでは春だというのに嫌に底冷えのする日だった。
コートのポケットからマルボロを取り出し、火を付けるとマッチの火の向こうに古ぼけた看板が見えた。
 私は吸い込まれるようにして、酒場の扉を開いた。
酒場はまだ、開店前のようで音もなく薄暗かった。
 私が目の前のぶ厚い一枚板のカウンターに近づくとバーテンダーが一人近寄ってきた。
普段は客の方から話しかけない限り、数多く口を開かないバーテンダーが、その晩は話しかけてきた。
「今晩は。お待ちしておりました」
 バーテンダーの能面のような表情が崩れ、微笑みが見えた。
「少し早かったかな。出直してこようか」
「いいえ、どうぞ、ごゆっくり。実は今晩ぜひ、飲んでほしいカクテルがあるんですが」
こちらから要求すれば応じてくれるが、普段は控え目なバーテンダーが何やら私に飲ませたいらしい。
 私は今晩の酒をバーテンダーに任せた。
バーテンダーは銀製のシェーカーとミキシンググラスを用意すると、何やら酒の調合を始めた。
シェークの音が誰も居ない店内に響き渡り、アンティックな底の丸いカクテルグラスに薄緑がかった白っぽい液体が注がれた。
 次にバーテンダーは素早く、ミキシンググラスで何やら琥珀色の液体を撹拌し、何と先程のカクテルにフロートして私に差し出した。
 珍しい作り方で、やたら手間のかかるカクテルだ。
私はカクテルグラスに口をつけると、何だか夢の光景をみる想いがした。
冷たく、すっきりとした口当たりだが味わってみると、甘みのような、苦みのような、また、不思議なハーブの香りのする、そんなカクテルだった。
以前に出会った事があるような、、、。私は思わずバーテンダーに目をやった。
前にも一度味わった事のあるカクテル。それは、ちょうど一年前の今頃、今夜のように底冷えのする晩だった。その日、私は風邪ぎみの熱っぽい体で家路につく途中、ふらりと立ち寄った酒場で味わったカクテルだ。
 その時は何か夢を見ているようで、カクテルの事や酒場に寄ったことすら私の記憶にはなかったが、、、。
「このカクテル、一年前にも造ってくれたね。ちょうど今日みたいに寒い晩に」
 私がバーテンダーに言うとバーテンダーは笑顔で答えた。
「何をおっしゃいますか。数年前に私が友人のことで悩んでいる時に、貴方が私に造ってくれた物を再現したんですよ。あれから、私も色々ありましたが、ようやく、この酒場の開店にこぎ着けました。今夜は本当によくおいでになって下さいました」
「そんな馬鹿な。第一に、このカクテルの処方も知らない」
「上の層がフォアローゼスとアンゴストラ・ビタースのバーボンのカクテル。下の層がゴードン・ドライ・ジンとフレッシュライム、それにマリー・ブリザール社のアニゼットを使ったジンのカクテルです」
ゴードン・ドライ・ジン、それは数年前、私が愛飲した酒。あの切ない香りを私は、こよなく愛し、私の喜びと悲しみ、そして、別れを知っている酒。それにフォアローゼス。あの再会の夜、友と交わした酒。しばらく私の体からバーボンの香りが消えなかった想い出の酒。
「フォアローゼスの名前の由来は諸説、色々あるらしいですけど、一番有名なのは青年実業家が、ある女性に求婚して舞踏会で再会した時、女性が胸に四つの薔薇を付けてO.K.の返事をしたそうですよ」
 バーテンダーがグラスを磨きながら説明してくれた。
「ところでこのカクテルの名前は何といったけ」
再会(さいかい)、再び会う。中国名では再見(さいちぇん)、別れを意味するカクテルです。沢村さん。貴方に教わったんですよ」
「えっ」
 カクテルの酔いが廻ってきた頃、店内にビリー・ホリデーの『オール・オブ・ミー』が流れ出した。

一九九六年三月十九日、 火曜日。
その晩、私は『再会』にもう一度、出会いたくて、あの酒場を訪れた。しかし、いくら捜しても、酒場もバーテンダーも見つけられなかった。
微かに街のどこかから、ビリー・ホリデーの『オール・オブ・ミー』が聞こえたのは気のせいだったのだろうか。

(了)
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