第8話

文字数 2,240文字

一九九六年二月二十九日、 木曜日。
長い地下歩道を抜け、表通りに出ると陽はすっかり暮れていた。
 その日は近年、まれにみる大雪が降り続き、隆盛を誇示していたネオン街も大自然の前では光りを失い、静けさだけが続いていた。
 時間さえ止まってしまったような夜。
何処かでマフラーを失くしてしまった私は凍えた体と重い足取りで、いつもの酒場を訪れた。
 いつもと変わらぬ木の扉の向こうに変わった世界が広がっているわけでもなく、待っている人が居る訳でもないのだが。
灯の消えた酒場から微かに流れ出る『レフト・アローン』。
 扉を開くとバーテンダーが一人、カウンターを磨いていた。
私はこの日、この店で最初の注文をした。
 目の前のカクテルグラスに注がれたのは透き通る様な輝きを放ったギブソンだった。
私が空になったカクテルグラスを置き、パールオニオンをもてあそんでいると、酒場の扉が開いた。
 そこにはギブソンガールを連想させる様なすらりとした女性と、真珠のように白い肌の女性の二人連れが立っていた。
二人はスツールに腰掛けると、スリムな女性の方がアレキサンダーを、もう一人の女性はマルガリータを注文した。
 二人のカクテルが注がれるとアレキサンダーの女性が口を開いた。
「アラスカのラメックスで飲むフローズンマルガリータは世界一美味しいってJALの人達の間で評判なんですって」
 その声は頭に響く雑音のように店内の空気を乱すものではなかった。
「あたしは、あまり頂けないから。あなたは御詳しいんでしょう」
 続いてマルガリータの女性が物語を語るような口調で返した。
私は安心してバーテンダーにオレンジブロッサムを注文すると、氷と酒の奏でる音色に耳を澄ました。
シェークの音が止み、静けさが戻ると、アレキサンダーの女性は悲しげに目を伏せて語った。
「昔はね。何でも飲んだわ。ウイスキー、ブランデー、ジン」
「私はダメ。ブランデーも頂けないの。そういえば、前に映画の中の話で病気の御母様にブランデーを飲ませようとしてミルクに混ぜたら、一週間で大瓶全部を開けてしまって、御母様は『家の牛をよそに売ったらだめよ』ですって」
「それジョークなの。でも、私が初めて飲んだお酒は、このブランデーアレキサンダーだったわ。あっという間に(とりこ)になったわ」
「そうなの。でも、上等のブランデーを飲む時は、まずグラスを掌で優しく暖めて静かに回したら香りを楽しみ、グラスを置いてお話をするものなんでしょ」
「それもどこかのジョークなの」
アレキサンダーの女性は首をかしげて言うと目線を宙に浮かせた。
 確かに、まるっきりの冗談ではないかもしれないが酒場の店主にとっては複雑な心境のブランデーの嗜み方だ。
 そう、ブランデーアレキサンダーといえばどうしても、『酒とバラの日々』を連想してしまう。あの霧の中へ流れていくようなメロディーだけでは想像できない壮絶なアルコール中毒の話。酒びたりのジャック・レモンが妻のリー・レミックに最初に勧めるのがブランデーアレキサンダー。やがて、二人は苦しみと寂しさを酒で埋めていく。ぼろぼろになったリー・レミックとチョコに目を輝かせていた頃のリー・レミックがクローズアップする。

ふと気ずくとマルガリータの女性はアレキサンダーの女性にジンを勧められて口をつけていた。
「初めはきついけど、ほのかな香りがいいでしょ」
「やっぱりだめだわ。前にも飲めなかったの」
マルガリータの女性は右手で首の後ろを撫でると首を左右に振った。
 ジンにむせぶ彼女の横顔を見ていると、映画『グレン・ミラー物語』でジューン・アリスン扮するヘレン・ミラー夫人がコーヒーカップに注がれたジンにむせぶシーンが頭の中をよぎる。
 私の脳裏に『茶色の小瓶』が流れ、映画のラストシーンが蘇る。
「そういえば御存じかしら。マルガリータって死んだ恋人の名前を付けたんですって」
 ジンのグラスの縁に着いた口紅をぬぐいながらマルガリータの女性が言った。
「そうなの。私も色々あったけど、お酒が飲めて本当に良かった。もし何もかもに疲れた時、最後の救いの場所があるとしたら、このカウンターだもの」
アレキサンダーに心の垣根を取り払われた女性は涙を一つこぼした。お酒に感情が入りすぎたようだ。
私は二人の女性の代わりに、彼女たちの重ねた数々のグラスたちと、カウンターに染み込んだ涙のために乾杯した。
何杯かのグラスを重ねた頃、すでに彼女達の姿はなかった。
 私は初めに何を飲んだかも忘れようしていた。まぁいい、何を飲んだかなんてバーテンダーが覚えていてくれるだろう。
 私はスツールから足を降ろした時、コペルニクスとガリレオの言葉を実感した。確かに地球は回っているようだ。
私が店の扉を開け、表に足を踏み出した時、背中でジャッキー・マクリーンのアルト・サックスがマル・ウォル・ドロンのピアノに悲しげに話しかけていた。
『レフト・アローン』の作曲は一九五九年の春とされている。ビリー・ホリデーの死は、その年の七月十七日。しかし、その僅か数週間の間、ビリー・ホリデーはこの曲を愛し、ステージで奏でたという。だが、彼女の唱声を残すレコードは一つも残されていない。
その晩、私は誰も居ない酒場の店内にビリー・ホリデーの『レフト・アローン』が鳴り響く夢を見た。
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