第7話

文字数 3,259文字

 風雨はますます激しくなって、夕方になって閉めたシャッターを揺らし叩いている。

「”俺なら買うけどね”って言われて、(ひる)んじゃったの。くどくど言って、心が離れちゃったらどうしようって。疎まれるのは、怖かった」
 テーブルに肘をついて組んだ両手に、母が顔を埋めた。
「でも、死んじゃったら、怖いも何もないのにね」
 震え声の母が、どんな顔をしているのかはわからないけれど。
 だんだんと水音が混じる呼吸音に、なんの言葉もかけられなかった。
「疎まれたってよかったのに。嫌われてもいいから、反対すればよかった。買うのを諦めるくらい、ダメだって騒いだらよかった。だって、そしたら、あの人は、死ななかったっ」
 もう何十年も前の別離にこれほど心を(えぐ)られている母に、たった十数年しか生きていない俺なんかが、なんて言えばいい?
「結果論だよ。でも、私は結局、自分が可愛かった。憎まれ役が嫌で、理解あるカノジョを気取ってた」
 肩を震わせて、声を押し殺して母は泣いている。
「それから卒業するまでの間、どう過ごしていたのか、あんまり記憶がないんだ」
 母のモノローグは続いた。

 大学へ向かうための電車に乗っていると、自然と涙が流れた。
 なぜ生きているのか。どうして置いていかれたのか。
 答えなんか出ない疑問に、日々押しつぶされそうだった。
 彼が荼毘に付されたあの日。
 もしかしたら一緒に連れていってくれるのではないか、急に心臓や呼吸が止まってくれたらいいと、本気で願った。
 でも、当然そんなことにはならず、特に変わらない世界が、変わらずに過ぎていくばかり。
 
 生きることも死ぬことも、一緒にできなかった。
 彼の旅路に、何一つ手向けることができなかった。
 
 彼だけがすべてではなかったけれど、彼がいない今、生きる意味がわからない。
 目を閉じることも味わうことも、そして、呼吸をすることも。
 生体を維持する行為、すべてがつらい。
 いっそ止めてしまいたいと思うけれど、苦しくなれば、また息をする自分が憎かった。
 生よりも死を思うほうが安らいだ。
 一呼吸、一呼吸が罪に感じられた。
 誰かに「殺す」と言われたら、「ありがとう」と言うと思う。
 
 そんな、死ねないから生きている日々を過ごしていた。

 過去の傷が、今でも母の心のなかで血を流している。
「……そんなんで、どうやって……」
 やっと絞り出した声は、自分でもびっくりするくらいかすれていた。
 立ち直ったんだろう。
 立ち直ったんだよな、うん。だって結婚してるし、子供(僕だけど)もいるし。
 不思議だった。
 どうやったら、そんな底なし沼のような悲しみから立ち上がれるんだろう。

 しばらくの沈黙のあと、淹れ直したコーヒーを片手に座り直した母が、ふぅっと息をついた。
「どこでだったら、身元がバレずに消えることができるだろうかって、そんなことばかり考えていたときにね」
 穏やかじゃないことを平然と言ってのける母は、透明な膜の向こうにいるような、ヴァーチャルな存在みたい。
「写真を、もらったんだよね。事故の前日の写真だっていって。夕方の海を背景に、ユースにいたみんなと撮った写真で、ほんとに楽しそうに笑ってた」
 切ない笑顔の母から、また涙がこぼれていく。
「そのときにね、声が聞こえたわけじゃないんだけど、なぜだか”ごめん、ごめん、ごめん”って。まるで自分の想いなのかと思うような、内側からあふれるみたいに、でも、自分の考えではなくて、ああ、あの人が伝えてくれてるんだなって」
 非現実的でしょう?オカルトっぽいよね。でも、そうだったとしか言いようがないのよと、母は笑った。
「”帰れなくてごめん、約束を破ってごめん”って。それからしばらくたってから、夢を見たの」

 夜汽車に乗っていた。
 ブラックホールの中にいるような宵闇で、ほかに誰もいないのかと思うほど、車内は静まり返っている。
「もうすぐだよ」
 隣に座る誰かが声をかけてきた。
 知っている人だけど、見覚えがない。
「ほら、あれ」
 突然、行く手に揺れるオレンジ色が見えてきた。
 焚火だ。
 みるみる列車が近づいていく。
 焚火の周囲に、たくさんの人影が見えた。
 けれど、そこもこの車内と同じ。
 影のように黙り込んで、ただ焚火を囲んでいるだけ。
 辺りは静寂に包まれている。
「あ!」
 無音の空間に自分の声が響いた。
 焚火を囲んで座る、黒い人々の中でひとり。真っ白なTシャツを着た人が立ち上がって、こちらに向かって手を振っている。
 彼だ!
 言いたいことがあったはずだ。聞きたいことがあったはずだ。
 早く、早くしないと往き過ぎてしまう。この列車は止まらないんだから。
「ごめんっ!ごめんなっ!」
 ワイパーのように大きく手を振る彼は、困ったような顔をしていた。
 ごめんと言いながらも、立ち上がった場所からは、一歩も動こうとしない。
 涙があふれて声が出てこない。
 想いがあふれて言葉が出てこない。
 ただ首を横に振った。
 謝らなくていいよと、伝えたかった。
「迎えに、来てくれるでしょう?!」
 やっと、一言だけ。
「行くよ!必ず行く!迎えに行く!」
 そうして懐かしい人の横を通り過ぎた列車は、あっという間に、また宵闇の中を走り続けていった。
「会えてよかったね」
 見覚えのない知り合いの言葉に、何と応えただろうか。
 それは、どうしても思い出せなかった。

「……不思議な夢、だね」
「そうね。でも、あの人と話せたんだって思ってる。さよならを言ってもらったんだって。それで納得したのよ。ああ、もう存在する世界が違ってしまったんだって」
 目の前の母の顔は、「諦念」という熟語の意味を、ビジュアルで認識させるものだった。
「迎えにきてもらうまでは、生きなきゃいけないでしょう?そうやって過ごしているうちにね」
「忘れた?」
「忘れはしないよ」
 「諦念」の顔で母は笑う。
「人はね、痛みにも悲しみにも慣れるの。それを持ちながら、日常を送れるようになるの」
「まだ、その人のこと、好きなの?」
 しばらく黙ってしまった母に不安が募る。
「……あのね」
「うん」
「突然いなくなられて、つらくて悲しかった」
「うん」
「死んじゃったと電話を受けたときの、世界の底が抜けてしまったような心許(こころもと)なさとか、こぼれてしまった命をどうにもできない焦燥とか、慟哭とかは、よく覚えてるの」
「うん」
「恋を、していたの。愚かで幼い、ほかに何もいらないと思えるほどの恋だったって、覚えてる」
「……うん」
「けど、それがどんな感情だったのかは、もうわからないのよ」
「……うん?どういうこと?」
「毎日がふわふわしていて、その人のことを想うだけでくすぐったくって、幸せな気持ちになってって、言葉では説明できる。でもね、心というものが、たとえば喜怒哀楽というブロックで構成されている、塊りみたいなものだったとしたら、”恋心”というブロックだけが、なくなってしまった感じ。そこにあったのは覚えているけど、もうないから認識できない」
 それは、どんな感覚なんだろう。
 僕はしばらく考えて……。
「それってさ、”恋する気持ち”が、死んじゃったみたいな?」
「え?」
 瞬きもせず、別空間を眺めていたような母が、僕に焦点を合わせた。
「母さんはさ、その人に何ひとつ手向けることができなかったって、言ってたけどさ」
「うん」
「恋を、手向けたんじゃないの」
 どうしてそう思ったのかわからないけど、心に浮かんだままを言葉にした。
「母さんの恋心はその人と一緒に、一足先に、向こうに行ってるんじゃないの?」
 そう、俺が言った瞬間。
 ぽろぽろ、ぽろぽろ。
 滝の涙というけれど、本当に噴き出すように涙を(こぼ)す人を初めて見た。
「……そっか……」
 絶え間なく散る雫が、母のTシャツを濡らしていく。
「一緒にいけたんだ……」
 ”いけたんだ”という声は、俺の中で”逝けた”と変換された。
「……嬉しい……」
 その気持ちは想像すらできないけれど、理解はできた。
 
 心が欠けたことを喜ぶほど、母の喪失感は、絶望的に深かったんだって。
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