第1話
文字数 3,341文字
キッチンでカタコト、パタパタ音がしている。
薄掛けの羽毛布団を足に絡みつけるようにして起き上がって、ベッド脇のスツールに置いた目覚まし時計を手に取った。
時刻は、設定した6時の5分前。
(……あー、そういうこと)
朝に超絶弱い母を起こすのは僕の役目だ。何しろ弁当を作ってもらわないといけない。
「無機質な音に起こされると腹が立つ」という母だが、僕が軽く肩を揺すればいつも、「ありがとう」と笑いながら目を覚ます。
以前、友人に漏らしたときには「めんどくさくね?」と呆れられたが、そうでもない。ちゃんとこっちにもメリットがあるのだ。
前の夜に何らかの理由でしこたま怒られたときも、親子喧嘩になったときも、朝起こすことでリセットされる。
「ゆうべのって、もういいの?」
「いいわけないじゃん。でもキツイこと言ったのに、起こしてくれてありがとね」
「……起こさなきゃ、べんとーないじゃん」
「あー、いい息子だなー。成績以外」
「棒読みっ!しかも結局、削ってくんのかよっ!」
そんな感じでトラブルは仕切り直しとなり、もちろんその後の「冷静な話し合い」の結果、お小言をもらうことにはなるのだが、そのころには僕も落ち着いて反省なり反論なりできるのだ。
だから親子喧嘩が日をまたいで何日も続くということは、これまであまりなかった。
でも。
包丁が立てる規則正しい音。電子レンジの作動音。皿どうしがぶつかる音。
通常の生活音が、継続されている怒りのアピールだ。だって、何が何でも自力で母が起きたのだから。
(……めんどくせ……)
目覚まし機能をOFFにしながら、ため息が出た。
感情的にではなく、意思を持って怒っている母は手強い。だからといって、今回は僕だって早々引き下がれない。まったく納得できないんだ。
昨夜の言い合いを思い出すと、ムカムカがぶり返してくる。
このままギリギリの時間まで部屋に籠城しようかとも思ったが、身支度をするにはリビングを通らなければならない。どうせ顔を合わせる。
思い切って部屋を出ると、いつものランチバッグがリビングのテーブルに鎮座していた。
……これは、そうとう早起きしたな。
ちらりと背後のキッチンに目を向けるが、片付けに入っているらしい母はシンクで忙 し気に手を動かすだけで、こちらを見もせず声もかけてこない。
「……おはよ」
試しに挨拶してみる。
「……」
返されない挨拶に、よけいに気分が重くなった。
ただ納得はできないが、我がままを言っていることは承知をしているので、これ以上こっちから口を利くこともできない。
さっさと顔を洗って学校に行こうと思って、キッチンに背中を向けた、そのとき。
「ダメだから」
待っているのとは真逆のお言葉をいただいた。
断固、絶対。
揺るぎなき拒否。
そうか、そう来るのか。じゃあ、こっちも言うことなんかねぇよ。
ムッとして洗面所で歯を磨き、ムスッとして弁当をカバンにしまい、ムカつきながらリビングを出た。
高校生にもなって止めてくれと言っても笑顔で無視していた、玄関での見送りもなし。
いいんだけど。
これが普通なんだし。
いつも通りの電車に乗ると、隣の駅からクラスメートが乗り込んできた。
「どうだった?」
「だめだった」
スマートフォンから目を離さずに答える。
「そっかぁ。うちはもう二、三回説得したらイケるかも。なんだかんだ条件つきだけど」
ポケットからスマートフォンを取り出しながら、クラスメートが隣に腰掛けた。
「相川んとこは速攻OK出たってさ」
「えー」
気のなさそうな返事をしたが、思っているより声が濁ってしまった。
「あいつんとこ、オヤジさんがライダーだしな」
「あー」
「ハーレーとか乗ってるらしいぜ」
「おー」
スマホから一瞬たりとも目を離さずに、ア行で返事をする。
チャリでつるんでいた連中と、「高校生になったらバイクの免許でも取って、本格的受験生になる前にちょろっとツーリングでも行こうぜ」という話が出たのは、中3の夏休みのこと。
全員同じ高校に進学したわけではないが、SNSでのつながりを維持しているので、「卒業してサヨナラ」にはならずに今に至る。
そうして「オヤジがライダーでハーレー」の相川から、「高1で免許、高2でツーリング」計画が投下され、お祭り状態で盛り上がることとなったのだが。
未成年の僕たちが祭りを開催するには、どうしても超えなきゃならない高い壁があった。
「吉田もダメっぽいぜ。あそこ、超進学校じゃん。今年の夏から、予備校とかガッツリだって」
「まだ高校入ったばっかじゃん。もう大学受験?」
「だな」
「……俺らも、一応進学校だよな」
「いちおーな!」
仲間内で同じ学校に進学したのはコイツと俺だけ。ちょぼちょぼの進学校は校則もゆるやかで、何事も強制されない。
それをいいことに、最初の中間・期末テストは超低空飛行を維持した。
興味をひかれる活動もなかったので帰宅部。バイトもしていない。
いいご身分と言えばその通りなのだが、焦りがないわけじゃなかった。
だって、「高校生」なんだから。
リア充目指してるわけじゃないけど、何かはしたい。
そこに降って湧いた「バイクツーリング計画」は、同じような心持でいた仲間たちを揺さぶった。
「オマエんとこ、よくOK出たな」
スマートフォンを制服のポケットにしまって目を向ければ、クラスメートはハマってるゲーム画面上で忙しなく指を動かしながら、にやっと笑う。
「ま、バイク買うのはまた別の話って言われてるけどな。でも、免許取らなきゃ話になんねぇじゃん?取ったら、また交渉の余地あるじゃん」
「あー、なるほどねー」
「お前んとこはどーなの」
「全然ダメ。免許取るのすらダメ。大学生になったら、車の免許取ればいいだろって」
「わかってねーなー」
「なー」
次の駅に電車が到着する。
「はよー」
「よー」
同じ高校の同級生が何人か乗り込んできた。
高校からの知り合い率が高まったことで、話題はもうすぐ行われる「懇親研修」一色となった。
研修っていったって、県ひとつまたいだ超メジャーテーマパークで、一日放牧されるだけだ。
「でもさ、男だけで行くってどうよ」
「女なんかいてみ?あっちはやだーとか、昼飯はコレじゃないとダメ―とかうるせーから」
「オレ、ポップコーンはハニーバター味以外ダメー」
「うぜぇよ」
特に興味もなかったので会話には加わらず、再びポケットから取り出したスマートフォンに目を落としたが、誰も何も言わずに、勝手に盛り上がってる。ノってこないからって、嫌な顔をするヤツもいない。
男子校、殺伐としてるけど、こういうとこは楽。
リア充もいるけど(もちろん僕なんかとは絶対つるまない、交わらない連中だが)、それがどうしたって価値観の奴も多い。
大体、「高校生といったら恋だね!」なんて母は言うが、男子校に出会いなんてない。
「同性を紹介されても驚かないぞ。理解はある」なんて言われた日には、黙ってくれませんかねと思ったが、実際無言になられた今朝は、地味にキツかった。
「もっかい話してみるわ」
「んー、がんばって」
ゲーム画面に目が釘付けのクラスメートから、おざなりの応援をもらう。
雑だけど気軽な距離感に、朝から息苦しかった胸が少し、解放されたような気がした。
「なになに、何頑張んの?追試?」
「げ、忘れてたわ」
「ダメじゃん」
「追試クリアしないと、研修なしだってよ」
「いっそ、それでいいわ。夏、あちぃんだもんあそこ。照り返しで」
「ウォータースライダー乗るならちょうどよくね?」
「てか、天気大丈夫かね。台風来てるんだっけ」
「そういや、今日も雨ひどくなるって、お天気お姉さん言ってたよなあ」
「梅雨前線が台風で刺激されて、とかだっけ」
「じゃあ今日もしかして、後半、休校になるかな?」
「無理じゃね?うっすら晴れてんじゃん」
「追試なくなるかな」
「延期になるだけだぞ」
「その分準備出来るじゃん」
「準備すんの?」
「しない」
「意味ねー」
なんて。
本当に暴風雨警報が出て2時間目で一斉下校となり、常備している折り畳み傘など当然役にも立たず、お天気お姉さんを恨みながら帰るようになるとは、多分そのときは、誰も思ってなかったはずだ。
薄掛けの羽毛布団を足に絡みつけるようにして起き上がって、ベッド脇のスツールに置いた目覚まし時計を手に取った。
時刻は、設定した6時の5分前。
(……あー、そういうこと)
朝に超絶弱い母を起こすのは僕の役目だ。何しろ弁当を作ってもらわないといけない。
「無機質な音に起こされると腹が立つ」という母だが、僕が軽く肩を揺すればいつも、「ありがとう」と笑いながら目を覚ます。
以前、友人に漏らしたときには「めんどくさくね?」と呆れられたが、そうでもない。ちゃんとこっちにもメリットがあるのだ。
前の夜に何らかの理由でしこたま怒られたときも、親子喧嘩になったときも、朝起こすことでリセットされる。
「ゆうべのって、もういいの?」
「いいわけないじゃん。でもキツイこと言ったのに、起こしてくれてありがとね」
「……起こさなきゃ、べんとーないじゃん」
「あー、いい息子だなー。成績以外」
「棒読みっ!しかも結局、削ってくんのかよっ!」
そんな感じでトラブルは仕切り直しとなり、もちろんその後の「冷静な話し合い」の結果、お小言をもらうことにはなるのだが、そのころには僕も落ち着いて反省なり反論なりできるのだ。
だから親子喧嘩が日をまたいで何日も続くということは、これまであまりなかった。
でも。
包丁が立てる規則正しい音。電子レンジの作動音。皿どうしがぶつかる音。
通常の生活音が、継続されている怒りのアピールだ。だって、何が何でも自力で母が起きたのだから。
(……めんどくせ……)
目覚まし機能をOFFにしながら、ため息が出た。
感情的にではなく、意思を持って怒っている母は手強い。だからといって、今回は僕だって早々引き下がれない。まったく納得できないんだ。
昨夜の言い合いを思い出すと、ムカムカがぶり返してくる。
このままギリギリの時間まで部屋に籠城しようかとも思ったが、身支度をするにはリビングを通らなければならない。どうせ顔を合わせる。
思い切って部屋を出ると、いつものランチバッグがリビングのテーブルに鎮座していた。
……これは、そうとう早起きしたな。
ちらりと背後のキッチンに目を向けるが、片付けに入っているらしい母はシンクで
「……おはよ」
試しに挨拶してみる。
「……」
返されない挨拶に、よけいに気分が重くなった。
ただ納得はできないが、我がままを言っていることは承知をしているので、これ以上こっちから口を利くこともできない。
さっさと顔を洗って学校に行こうと思って、キッチンに背中を向けた、そのとき。
「ダメだから」
待っているのとは真逆のお言葉をいただいた。
断固、絶対。
揺るぎなき拒否。
そうか、そう来るのか。じゃあ、こっちも言うことなんかねぇよ。
ムッとして洗面所で歯を磨き、ムスッとして弁当をカバンにしまい、ムカつきながらリビングを出た。
高校生にもなって止めてくれと言っても笑顔で無視していた、玄関での見送りもなし。
いいんだけど。
これが普通なんだし。
いつも通りの電車に乗ると、隣の駅からクラスメートが乗り込んできた。
「どうだった?」
「だめだった」
スマートフォンから目を離さずに答える。
「そっかぁ。うちはもう二、三回説得したらイケるかも。なんだかんだ条件つきだけど」
ポケットからスマートフォンを取り出しながら、クラスメートが隣に腰掛けた。
「相川んとこは速攻OK出たってさ」
「えー」
気のなさそうな返事をしたが、思っているより声が濁ってしまった。
「あいつんとこ、オヤジさんがライダーだしな」
「あー」
「ハーレーとか乗ってるらしいぜ」
「おー」
スマホから一瞬たりとも目を離さずに、ア行で返事をする。
チャリでつるんでいた連中と、「高校生になったらバイクの免許でも取って、本格的受験生になる前にちょろっとツーリングでも行こうぜ」という話が出たのは、中3の夏休みのこと。
全員同じ高校に進学したわけではないが、SNSでのつながりを維持しているので、「卒業してサヨナラ」にはならずに今に至る。
そうして「オヤジがライダーでハーレー」の相川から、「高1で免許、高2でツーリング」計画が投下され、お祭り状態で盛り上がることとなったのだが。
未成年の僕たちが祭りを開催するには、どうしても超えなきゃならない高い壁があった。
「吉田もダメっぽいぜ。あそこ、超進学校じゃん。今年の夏から、予備校とかガッツリだって」
「まだ高校入ったばっかじゃん。もう大学受験?」
「だな」
「……俺らも、一応進学校だよな」
「いちおーな!」
仲間内で同じ学校に進学したのはコイツと俺だけ。ちょぼちょぼの進学校は校則もゆるやかで、何事も強制されない。
それをいいことに、最初の中間・期末テストは超低空飛行を維持した。
興味をひかれる活動もなかったので帰宅部。バイトもしていない。
いいご身分と言えばその通りなのだが、焦りがないわけじゃなかった。
だって、「高校生」なんだから。
リア充目指してるわけじゃないけど、何かはしたい。
そこに降って湧いた「バイクツーリング計画」は、同じような心持でいた仲間たちを揺さぶった。
「オマエんとこ、よくOK出たな」
スマートフォンを制服のポケットにしまって目を向ければ、クラスメートはハマってるゲーム画面上で忙しなく指を動かしながら、にやっと笑う。
「ま、バイク買うのはまた別の話って言われてるけどな。でも、免許取らなきゃ話になんねぇじゃん?取ったら、また交渉の余地あるじゃん」
「あー、なるほどねー」
「お前んとこはどーなの」
「全然ダメ。免許取るのすらダメ。大学生になったら、車の免許取ればいいだろって」
「わかってねーなー」
「なー」
次の駅に電車が到着する。
「はよー」
「よー」
同じ高校の同級生が何人か乗り込んできた。
高校からの知り合い率が高まったことで、話題はもうすぐ行われる「懇親研修」一色となった。
研修っていったって、県ひとつまたいだ超メジャーテーマパークで、一日放牧されるだけだ。
「でもさ、男だけで行くってどうよ」
「女なんかいてみ?あっちはやだーとか、昼飯はコレじゃないとダメ―とかうるせーから」
「オレ、ポップコーンはハニーバター味以外ダメー」
「うぜぇよ」
特に興味もなかったので会話には加わらず、再びポケットから取り出したスマートフォンに目を落としたが、誰も何も言わずに、勝手に盛り上がってる。ノってこないからって、嫌な顔をするヤツもいない。
男子校、殺伐としてるけど、こういうとこは楽。
リア充もいるけど(もちろん僕なんかとは絶対つるまない、交わらない連中だが)、それがどうしたって価値観の奴も多い。
大体、「高校生といったら恋だね!」なんて母は言うが、男子校に出会いなんてない。
「同性を紹介されても驚かないぞ。理解はある」なんて言われた日には、黙ってくれませんかねと思ったが、実際無言になられた今朝は、地味にキツかった。
「もっかい話してみるわ」
「んー、がんばって」
ゲーム画面に目が釘付けのクラスメートから、おざなりの応援をもらう。
雑だけど気軽な距離感に、朝から息苦しかった胸が少し、解放されたような気がした。
「なになに、何頑張んの?追試?」
「げ、忘れてたわ」
「ダメじゃん」
「追試クリアしないと、研修なしだってよ」
「いっそ、それでいいわ。夏、あちぃんだもんあそこ。照り返しで」
「ウォータースライダー乗るならちょうどよくね?」
「てか、天気大丈夫かね。台風来てるんだっけ」
「そういや、今日も雨ひどくなるって、お天気お姉さん言ってたよなあ」
「梅雨前線が台風で刺激されて、とかだっけ」
「じゃあ今日もしかして、後半、休校になるかな?」
「無理じゃね?うっすら晴れてんじゃん」
「追試なくなるかな」
「延期になるだけだぞ」
「その分準備出来るじゃん」
「準備すんの?」
「しない」
「意味ねー」
なんて。
本当に暴風雨警報が出て2時間目で一斉下校となり、常備している折り畳み傘など当然役にも立たず、お天気お姉さんを恨みながら帰るようになるとは、多分そのときは、誰も思ってなかったはずだ。