第3話

文字数 3,012文字

「忌中」
 家の人が亡くなると、本当に玄関にはこの紙が貼られるんだ。
 
 真っ先に(いだ)いたのは、そんな場違いな感想。
 まるで親戚を訪ねたかのような雰囲気で室内に通されたけれど、一瞬のちには、緩やかな絶望に侵食されていった。
 上がってすぐ隣の部屋には、棺があったから。
 その中で横たわる、彼の姿が見えたから。
 ここに来るまでは、「忌中」の家に入る直前までは、まだ愚かしい希望を持っていた。
 一緒に旅行していたサークルメンバーから電話をもらっていたのに。
 「あいつ、死んじゃったんだ」って。
 でも、間違いかもしれない。人違いかもしれない。一度止まった心臓はまた動きだしたかもしれない。ご実家に行ったら、病院のICUに案内されるかもしれない。みんなが集まったとたんに目を開けるかもしれない。
 死んでなんか、いるわけがない。
 そんな「かもしれない」に(すが)ってここまで来た。
 だけど、ああ、バカだ。心の底ではわかっていたのに。
 一目見ただけでも理解できてしまった。
 横たわるその人に、魂はないのだって。

「お世話になって」
 父親だと名乗った男性が棺を挟んで真正面に座り、私の横に座ろうとしていたサークルメンバーの女子に頭を下げた。
 北の大地を旅する途中でサークル定宿のユースホステルに立ち寄り、約束して、または偶然居合わせた仲間と楽しむのは、サークルの恒例行事のようなものだ。
 彼女はそのユースで

まで、彼と行動をともにしていたメンバーのひとり。
「いえ、私は……」
「私たち家族が遠方だったから、ユースのオーナーと検死に立ち会ってくれたのでしょう。……つらい経験をさせて……」
 そんな会話を遠く聞きながら、体を折って彼の顔をのぞき込んでいた。
-まるで寝ているよう-
 そんな表現はフィクションの世界で見たり聞いたりしていたけれど、本当なんだなと思った。
 ただ、鼻と口に詰められた綿がつらい。
 わずかに開いた口からのぞく、よく知っている前歯の虫歯がつらい。
「帰ったら、まず歯医者行かないとな」
 そう言って笑っていた。
「その前に焼き鳥屋行こうな。東京戻って、最初に飲む酒はアンタとがいいからさ。アパート着いたら電話するけど、待ち合わせ、一応決めとく?」
 虫歯が治療されることは永遠になく、飲みに行く約束も果たされない。
 「叶えるはずだった未来」は、実現しないまま「過去」になっていく。
 それがつらい。ただ、つらい。
 目を閉じた彼の頬に思わず手を伸ばして、指先が震えた。
 硬い。
 そして、冷たい。
 「命あるもの」にあるまじき感触に、実感してしまった。
 ここにあるのは魂の抜け落ちた、ただの肉体なんだって。
 横たわる彼だけが視界を占めて、荒れ狂う風音だけが耳に入る。
 この世界にふたりっきりみたいだけれど、目の前の人には魂がない。
 だから、私はこの世にひとりっきりだった。

 どうやって彼の家を辞去したのかは、覚えていない。
 記憶は翌日、葬儀場となる寺へと向かう、第三セクターの列車の中に飛んでいる。
 
 台風一過の北の大地。
 (まぶ)しい青空。
 透きとおった風。
 彼がいつか連れていきたいと言っていた、夢で見たというビート畑。
 車窓に流れる爽やかな景色を呆然と眺め、ただ涙が流れた。どうしようもなくて、泣くことしかできなくて。
 諦めることも忘れることも切り替えることも。
 食べることも眠ることも話すことも。
 何ひとつできなくて、どうしたらいいのかもわからなくて、そして、知った。
 本当につらいときには、泣き声なんか出ないんだと。
 胸が詰まってしまっていて、呼吸するだけで精一杯になるから。

 珍しく北の大地に上陸した台風に襲われた川に沿って、列車は走っていた。
 眼下を流れるその川は、流域ではまだ豪雨が続いているのかと思うほどの荒れ狂いようだった。
 川岸に繁る木の枝はそこここで折れていて、濁流に溺れるように浮木が流されていく。
 その上に広がる、まったく北の大地らしい晴れ渡る空の美しさは、その下を走る列車に乗る10人ほどの若者たちが、それぞれ喪服を着ているのと、同じくらいの違和感をかもし出していた。

 目的駅でぞろぞろと喪服が降りるなか、そのうちのひとりに運転手の注意が飛んだ。
「え?!やだぁ、これおつりじゃないんだ!」
 注意された女子がおどけた様子で、照れ笑いを浮かべている。
 第三セクターの鉄道には切符はなく、路線バスのように、運行距離に従った料金を、降りる際に支払うシステムだった。
 500円玉や千円の場合は、いったん両替をしてから、指定料金を払う。
 その注意書きは車内にも貼られているのだが、彼女はそれを読み落とし、てっきり料金徴収後に、おつりが出てくるものだと思い込んでいたようだ。
「ごめんなさ~い」
 明るい声を出して料金箱に小銭を入れ直す彼女は、なお笑顔だ。
 
 大学四年生、二十歳(はたち)そこそこの女性がささやかな失敗に照れて笑ったって、何の不思議もない。
 それなのに、どこか異次元にいる人のように感じていた。
 目の前にいるのに、互いに触れ合うことのない存在のようだ。
 笑うとはどういう状態なのかが、わからなくなってしまった身にとっては。

 喪服集団の最後に料金を支払って列車を降りると、聞いていたビート畑の上空には、それは美しく、澄んだ夏空が広がっていた。
 
 若者喪服集団のなかでも、ひとり泣き続ける存在は目立ったのだろう。
 葬儀に参列していた彼の親類縁者からは、たくさんの声をかけてもらった。
 初見の、もう二度と会うこともない娘なのに。
「私たち以上に心を寄せてくれてありがとう。こんなお嬢さんがいるのに……」
「悲しい思いをさせて申し訳ない。あの子も、きっとそう思ってる」
 ひとつひとつ有難くて、痛かった。
 身内のほうが悲しいのに、かえって気を遣わせて、なんて我がままでみっともないんだろう。
 ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。
 そう、心苦しく思っていても、それでも去ることもできない。
 まだ、彼の体がここにあるから。
 それすらもうすぐ無くなってしまうのだから、片時も離れていたくない。
 浅はかで子どもじみた執着をどうにもできなくて、精一杯息継ぎをしながら、心の中で謝り続けていた。

 昼過ぎ、彼と一番よくつるんでいたサークルメンバーが沖縄から到着した。
「ちゃんと寝てる?食べてる?」
 心底心配されていることは伝わってきたから、うなずいたと思う。
 けれど、何か言葉を返しただろうか。会話を交わしただろうか。泣く以外のことをしただろうか。
 もらった言葉は思い出せるけれど、自分の行動はまったく思い出せない。
 覚えていることといったら、骨になってしまった彼のこと。
「お若い人ですから、しっかりと残っておられるので」
 火葬場の人がそう説明していて、骨壺は大小ふたつだったこと。
 それでも全部が簡単には収まり切れなくて、大きな骨壺の蓋を閉めるときには、ぎゅうぎゅうと、無理やり押す感じになってしまったこと。
 それを見た検死に立ち会った女子が、つらそうに眉を(ひそ)めて、目をそらしていたこと。
 そんな彼女を眺めながら「もう骨だから痛くはないし、きつくもないんじゃないかな」、なんて思っていたこと。
 
 昨日のことのように、鮮やかに思い出すことのできる、遠い夏の日。
 晴れた空の下の濁流。若い命に見送られる死者。
 さよならも言わずに、手の届かないほど遠くへいってしまった人。
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