第8話

文字数 3,032文字

 流れる涙を拭こうともしない母を前に、肝心なことに答えてもらっていないことを思い出した。
 母の心は、今どこにあるんだろう。
「父さんはそのこと、知ってるの?」
 両親は見合い結婚だと聞いている。
 そこそこ気が合ってるほうだと思うし、仲もいい。
 だから、こんな過去を秘めているなんて、思いもしなかった。
「詳しくは話してない。大学の同期が事故で亡くなっているとは、言ってあるけど」
 涙を手のひらで(ぬぐ)いながら、母が顔を上げた。
「なんで?」
「お父さんと出会う前のことだからね。一緒に背負ってもらう義理もないし、ちょっと重いでしょう」
 聞きたかったのは、そこじゃないんだ。
「父さんのことは、どう思ってんの?……恋は、してないんでしょ」
「お見合いだしね」
「好きでもないのに結婚したってこと?」
「そんなわけないでしょう、大切に思ってるよ。好意を(いだ)いて、結婚してから愛を(はぐく)んだっていう感じかな」
 ああ、よかった。
 仕方がないから結婚したとかだったら、息子としては悲しい。
「ただね」
 母が、

で笑った。
「それが、どんな気持ちなのか思い出せない私が言うのもなんだけど、恋はいいものだよ。あんなに一瞬で人を変えてしまう、衝撃的な熱情はない。たとえ失恋という結果であっても、一度は恋をしてほしいと思うんだ」
「……自分は、そんなにボロボロになったのに?」
「ボロボロになったけど、それを含めて幸せだった。あのね」
 頬杖をついた母が淡く微笑んでいる。
「もし神様みたいな存在が目の前に現れて、あの人と出会うちょっと前に時間を戻してあげるって、言ったとするでしょう?」
「うん」
「そのときに、あの人と出会うか出会わないかを選んでいい。ただし、出会うほうを選んだら、やっぱり同じ別れ方をするって言われたらね」
「うん」
「それがわかっていても、あの人と出会う人生を選ぶよ」
「な、んで?だって、すげぇつらかったんだろ?フツー、別の人生選びたいって思うんじゃないの?」
「普通?誰にとっての普通?どこの普通?他人の価値観なんて知らないよ。私とあの人だけの恋だもの。そんな普通は、普通じゃないよ」
 詭弁みたいな物言いだけど、グサッときた。
「あの人と会わずに(ぬる)い時間を過ごすくらいなら、会って、離別の悲嘆を(かか)えて生きることを選ぶ。どうしようもなく好きだった。あの人と出会ったことを後悔はしてない。置いていかれてしまったけど、幸せだった日々がなくなったわけじゃない。恋をしたの。一生の恋を」
 震える唇で、母は微笑んでいる。
「でもね、今度はもう後悔したくないの。子供の人生を縛るクソ親と思ってくれていい。愛されて(うしな)うくらいなら、憎まれて幸せでいてほしい。それでも、どうしてもバイクに乗るんだというのなら、さっさと独立しなさい。”息子”を卒業して、私の目の届かないところで乗って。あなたの人生は、あなたのものだから。だけど……」
 母は(そば)まで来ると、小さかったころのように、俺をぎゅっと抱きしめた。
「私より先に死なないで。私の恋は(うしな)われてしまったけれど、あなたの恋は、始まってもいないのよ」
 まだ16歳だもの。
 そう言った母は腕を緩めると、俺の頭をゆっくりとなでた。

 台風ではなかったから、台風一過の晴天にはならずに、梅雨らしい雨が降る翌日。
「はよー」
「よー」
 昨日と同じように、クラスメートが隣駅から乗り込んできた。
「あのさ、ちょっとバイクは諦めるわ」
「えっ」
 スマートフォンを取り出そうとしていたクラスメートの動きが止まる。
「なになに、昨日家族会議とかされちゃった?」
「いや、会議というか、ありがたいお話を聞いた」
「あー、そっかぁ」
「ツーリングは行けないけど、ほかの遊びは行くから」
「ふーん。……そっかそっか」
 クラスメートは今度こそスマートフォンをポケットから出しながら、隣の席に座った。
「んじゃ吉田も誘って、キャンプでも行く?」
「キャンプはヤダ。虫が出るから」
「軟弱ものっ!……でも、皆でできること、なんか考えような」
「お前のその親分気質、ほんとすげぇと思うし、ソンケーするわ」
「もっと敬って」
「ははぁ~」
 ふざけて頭を下げながら、僕はほっとしていた。
 バイクを諦めたらハブられるかもって、ちょっと心配だったから。
「なんの話されたん?」
 珍しくスマホゲームを起動させないクラスメートが、目を合わせてきた。
「ありがたくて、ちょっと泣ける話。あと、すっげぇこっぱずかしいやつ」
「具体的に」
「恋をしましょう?」
「ワケわかんね」
「同感。……まぁ、あれだ」
 太ももに肘をつけて下を向くと、詰めた新聞紙を何回も取り換えて、最後はドライヤーをかけて、母が見事に乾かしてくれたスニーカーが目に入る。
「僕ってば、低空飛行じゃん」
「ああ、成績」
 即座に返されて、ちょっとムッとした。
 人は事実を指摘されるとムカつく、というのは本当。
「そうだけどっ。……成績だけじゃなくてさ」
 とうとうスマートフォンをポケットにしまい直したクラスメートが、体ごと僕のほうを向いた。
「なんもやってねぇじゃん、僕。お前はパソ部とか入って、バイクの免許も取ろうとしてて、成績も……、僕よりはマシじゃん」
「ごめん、マシと言われるほど良くはない」
「知ってる。一緒に追試頑張ろうな」
「おぅ」
「でも、僕よりいろいろ頑張ってる。友達思いだし、リーダーシップもある」
「なにそのホメ殺し。オレ今日死ぬの?」
「素直に喜べよ。マジでホメてんだって」
「わーい」
「それはそれでムカつくわ」
「ワガママだなあ」
 笑い合って、僕はまた真顔になる。
「とにかく、もう少し浮上してみたいなと、思ったわけよですよ。……ちゃんと、生きてみようって」
「ふーん、そう。まぁ、どうでもいいけど」
 他人事(ひとごと)のように軽い返事をしながら、クラスメートはポケットに手を突っ込んだ。
「なんかやりたくなったんなら、チャリ部でも作る?」
「え?」
「うちの学校、同好会レベルなら、簡単に作れんだってよ。名目上の顧問になってくれる先生さえ探せたら、部員は3人でいいんだって。チャリなら、オマエんちもOKじゃねーの?」
「後光がさして見えるわ」
「拝んで」
「南無南無」
「部長はオマエな」
「え?!」
「だって、オレは兼部することになるし。……浮上すんだろ?」
「いきなりエラくなり過ぎだわ、部長とか」
「二階級特進だな」
「殉職しちゃってんじゃん」
 なんて。
 そうこうしているうちに、いつもどおりに、わらわらと同級生たちが乗り込んできて、いつもと変わらないバカ話が始まって。
 
 こうやって、何気ない日常が続いていくものだと信じ込んでいたけれど。
 それが断たれることがあると、深い慟哭に突き落とされることがあるのだと知った。
 だからって、「日々、感謝して暮らしましょう」なんて、道徳の授業のお題目のようには生きられないと思う。
 でも、思ったんだ。
 恋を(うしな)った人から命を継いだ俺が、いつか恋をしたならば。
 それは、ちょっぴり素敵なことなんじゃないかって。
 
 母がその人とともにある未来はなかったけれど、母の過去に、その人が生きていた(あかし)がある。
 そして、母がこの世からいなくなったあとも、母とその人が、短く幸せな時間を過ごしたことを僕が覚えている。
 その僕が恋を経験する未来が、いつか訪れる、かもしれない。
 それは未定だけれど。
 だけど、なんだかすごい、永久機関に手を貸した気分になったんだ。
 だって、終わってもまた始まって、続いていくのだから。
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