第5話

文字数 983文字

 スーパーには湿度がない。と思えるほどに、ひんやりと冷たい空間である。うっかり半袖で来てしまった客たちは、早足で店内をかけめぐり、乱暴にカゴの中を満たしていく。
 わたしは商品を吟味する必要はない。卵二パックをレジへ持っていく最短ルートをたどればいいだけである。
 レジにはカンナが難しい顔をして立っていた。番人みたいだ。カンナは長袖のシャツにエプロンをしているが、レジ周辺にも濃密な冷気はただよっている。カンナは「いらっしゃいませ」と小さくつぶやく。
 わたしがカンナの顔を覚えているくらいなので、カンナもわたしの顔を覚えているはずだが、彼は特になにも言わない。どうも見知った顔ほど常連と呼ばれ、気軽な会話を交わす場面も増えてくるらしい。ここの若い店長も、若い女とよくしゃべっている。「いつもどーも」「今日なにするの?」「あー、これおすすめ」「いいよいいよ、バレないから」などと、楽しげに話している。
 カンナは表情を一切くずさず、力強く卵二パックをレジ打ちする。しゃべることといえば、誰に対しても平等に「〇円になります」「袋はご入用ですか」「ありがとうございました」の流れとなる。
 それはユルシもだいたい同じだし、トマリもサネミチもそうだった。このスーパーの爺さん婆さんは必要最低限のことしかしゃべろうとしなかった。
 あと、意外なほど声が小さい。爺さん婆さんは耳が遠くなるから、必然的に声が大きくなるものだと考えていた。事実、近所の喫茶店からやんややんやと聞こえる声は、常連の年寄りたちの会話だった。
「ありがとうございました」
 カンナの声は今日も小さい。喉をきゅっと紐で絞められているみたいにか細い。もともと小さな声でしゃべる人間なのか。このスーパーでだけ、そうなのか。
「なんで働いてる?」
 わたしは卵二パックを受けとりながら尋ねた。尋ねながら、わたしの声はオフィスより大きくなっているな、と気づいた。
 カンナの濁った眼がわたしをとらえる。ボスの目玉とは違う、淀んで動きのない眼。底なし沼にはまったような、暗い宇宙に沈んでいくような、途方もない暗さと安心感を携えている。
「いらっしゃいませ」
 わたしの後ろにいた客が距離を詰めてきていた。客は眼光鋭く、わたしをにらみつけてくる。カンナは特売のプロテインのバーコードを探し、力強くスキャンしている。
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