最終話

文字数 1,231文字

 レジにはカンナが立っていた。惣菜コーナーにはユルシがいた。トマリとサネミチもバックヤードにいるのだろう。若い店長の姿は見えなかった。
 きんきんに冷えた空間で、爺さん婆さんは眉間にしわを寄せながら黙々と働いていた。ユルシの人形はどこにいるのだろう。暖かい場所に避難しているのだろうか。
 卵二パックを持って、レジへ向かう。このまえ若い店長にレジ打ちされたときの卵には、やっぱりヒビが入っていた。パックを開いた瞬間、耐えきれなくなったように中身をこぼした。あふれでたそれは床に落ちて、もう二度と食べられないように思えた。這いつくばって、思いきり吸いあげないかぎりは。
「いらっしゃいませ」
 カンナの声は震えていて小さいが、きちんと言語化されている。若い店長の発するあれとは違う。翻訳機を使っても、彼の言葉や意図はわたしには理解できない。
「二百九十八円になります」
 カンナの濁った眼にわたしが映る。どこまでも沈んでいけそうな沼。底なしの温度は、このスーパーよりは温かいだろうか。
 惣菜コーナーでユルシは客に何事か詰めよられている。へこへことユルシはうなずいている。その額には大きなガーゼが貼ってあった。公園で一緒に歌ったとき、大ブーイングを巻きおこしたせいだ。中身の入った缶ビールがユルシに直撃して、わたしたちのコンサートは唐突に終わりを告げたのだ。
「なんで働いてる?」
 もう一度、問うのは許されるのだろうか。こんなにも極寒の中、毎日を刻むカンナに。ユルシに。トマリに。サネミチに。爺さん婆さんたちに。再雇用を終えた六十五歳超えの人間たちに。介護保険第二被保険者の人間たちに。スウェーデンでは殺されるかもしれない人間たちに。
「気を紛らわせてるだけです」
 カンナは凍った声で、わたしをぶった。三百円を置いた。お釣りなど要らない。けれど、二円でも困るのはカンナだ。
「ありがとうございました」
 ユルシと客はまだなにか揉めている。わたしもカンナともう少し話したい。でも、なにも浮かばない。気を紛らわせられるような話題が、なにも浮かばない。
 苦情や苦言でしか、この星の人間たちはつながれないのだろうか。ひしゃげていない卵二パックを持って、わたしはさっさとこの場を立ち去るしかない。後ろに客が並んでいる。にらまれるのはわたしでも、怒りをぶつけられるのはカンナだ。働くとは、そういうことだ。
 わたしの星に帰りたい。思いきり卵を宙へ放ったら、いい加減にこの漂流者の存在に気づくだろうか。
 カンナと気を紛らわせたい。ユルシの人形になりたい。爺さん婆さんを私だけの星に招きたい。そうしたら生ぬるい温度で、均一な境遇で、ずっとへらへらと笑っていられる。そんな気がする。
 一瞬、星の一部になりかけた卵は、重力に逆らえないまま不時着して、愚かな人間の顔面で割れてあふれた。

                                        ―了―
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