第9話

文字数 1,372文字

 朝礼に参加する人数が減った。正確には減っていないのだが、実際にオフィスに並ぶ顔が減った。
 ボスは在宅ワークをしている人間たちに、パソコン越しで呼びかける。向こうの環境が悪いのかヤマモトの声が乱れている。スズキの声もどこか遠い。宇宙と交信しているわけでもないのに、彼らの声はひどく途切れる。
『……計算と……有休管理……ます、以上です』
 わたしの横でワタナベはずっとうなずいている。聞きとれているのだろうか。ボスも取りたててなにも言わず、次へ次へとうながしていく。こちらの声が向こうに届いているのかもあやしいが、ワタナベはマイクを片手に今日の予定をはきはきとしゃべっている。在宅の人間たちからの応答はない。
「じゃあ共有事項や気づきを」
 ボスのいつもの合図だ。スズキが遠くのほうから、なにかしらの気づきを投げかけている。
『…………手続きをしていくと……………………共有しておきたいと…………』
 終わったのかどうかもわからないまま、スズキの声はフェードアウトしていった。どこか遠い星へと旅立ったのだろうか。まるで聞こえない声より、聞こえそうで聞こえない声のほうが距離を感じる。
 ボスはすべて聞こえているのだろうか。うんうんとうなずいている。ワタナベもうんうんうんうんとうなずいて、自分の番が回れば雄弁に語りだす。マイナンバーがあの手続きにも必要で、マイナンバーがあればこれまでの煩わしさから解放されるのではないか、と。
 あの十二桁の数字の羅列が、わたしを証明するものになるのか。あの星の住所も情報として登録されているのだろうか。宇宙人にも在留カードは必要だろうか。
 でも、わたしはまだ通知カードのままだ。
「なにかないの?」
 ボスはわたしに視線を向けている。くぐもった声は同じ場所にいるのに、遠い星からの呼びかけみたいだった。一仕事終えたようなワタナベも、こちらへ好奇の眼差しを向けている。貪欲な姿勢だった。なにか学びとろうとするような、なにか綻びを探そうとするような。
 ない、と言ったら、こっそり落胆されるだけだろう。しかし、ボスは日に日にこっそりを実行しなくなっていった。割と露骨に、そしてそれは波紋のように、ワタナベもタナカも似たような顔をするのだった。
 この星の人間は、皆、同じ顔をするのだった。
「スウェーデンは週休三日だからあこがれる」
 わたしが言うと、それでもボスはこっそり落胆したようだった。落胆だけでなく、少し怒りもにじんでいるようで、ボスの背中から湿度が上がる。けれど、真横のワタナベからは冷気がただよう。急に剥製になったのか。
『スウェーデンでは八十歳以上には呼吸器をつけないそうです。ここまで、という明確な線引きがあるんです』
 ヤマモトだった。電波がクリアになった。ボスの周囲の湿度が除かれる。乾いた空気が満ちる。途端に自分の背中が湿っぽくなるのを感じた。湯気が立ちのぼっているんじゃないか。振りかえって確認したい衝動に駆られる。それでもわたしは前を向いた。
「高齢者への価値観が根底から違うんだろうね。ヤマモトさん、ありがとう。それじゃ、今日もよろしくお願いします」
 軽いお辞儀の波が起きて、わたしだけが真っ直ぐ前を向いていた。頭を垂れたら、蒸気の塊がボスの顔面へ投げつけられそうな気がした。
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